陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

絵本のたのしみ 3.

2005-09-19 18:49:21 | 
3.絵を見る、ひたすら絵を見る

 やはり絵本がほかの本とちがうのは、あたりまえのことだけれど、絵がある、ということだ。というわけで、絵がすごい! という本を。

もちろん、マリー・ホールーエッツにしても、ヴァージニア・リー・バートンにしても、絵がすばらしい絵本作家はたくさんいるのだけれど、なんといってもわたしが好きなのは
『いっしょにきしゃにのせてって!』(amazonに画像がなかったので、書名をクリックしてください)。

もちろんこの表紙の絵はターナー「雨・蒸気・スピード」を踏まえたものである。

画面の奥から走ってくる機関車の角度も、鉄橋を渡りつつあるところも、画面の左側に川があって、舟が浮かんでいるところも。
おもしろいのは、このターナーの画像をよくよく見ていると、バーニンガムの表紙のように、白い犬が横を向いて立っているような気がしてくる。バーニンガムの犬(実はパジャマ入れ)が、ターナーの絵の中に見えてくるのだ(このターナーは拡大できるので、どうか拡大して蒸気機関車の鼻先を見てください)。

作者のジョン・バーニンガムはイギリスの絵本作家。

なみにきをつけて、シャーリー

ガンピーさんのふなあそび


『ガンピーさんのふなあそび』のほうは、いかにもイギリスの田園地帯、といったのどかで牧歌的な話なのだけれど、『なみにきをつけて、シャーリー』は痛快、というか、なんともかとも。

見開き左に書いてある文章は、すべておかあさんのことば。
「みずが つめたくて とても およげないわよ、シャーリー」
こちらの絵は、ペンと水彩色鉛筆で描かれていて、全体に淡い。

ところが右側の、ガッシュを重ね塗りしたくっきりとした色合いのページでは、シャーリーの行動が描かれていく。
左側の
「いすをくみたてて ここに いますからね」
「きをつけて、あたらしいくつを きたないタールで よごしちゃだめよ」
浜辺に坐りこんで、小言ばかりいうお母さんとは無関係に、
右ページでシャーリーは、舟に乗って沖合に出、海賊船に乗り込み、海賊たちと戦い、海賊の旗と宝の地図を奪って、宝まで掘り出すのだ。

それほどの活躍をしたシャーリーも、最後のページでは、また淡い水彩色鉛筆の世界に戻って、一緒に帰ってしまう(ただ、来るときに一緒にいた犬がいない。犬はどこへ行ってしまったんだろう?)。すべてはシャーリーの想像のなか……(ここがちょっと不満なところ。たとえばモーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』では、行ったときは三日月だった月が、帰ったときには満月になっていて、それに気がついたとき、わたしは、おおっ、と思ってしまった)。

ともかく、大人はいかに子供のことを見ていないか、ということが、大人の側から見ると残酷なまでに描いてあって、そのぶん、ちょっと反抗心が芽生え始めた子供から見ると痛快な本だった。本の裏に「四歳から」と書いてあるのだけれど、さすがに四歳にはわからないと思う。

さて、『いっしょにきしゃにのせてって!』

最初に『なみにきをつけて…』のおかあさんによく似たおかあさんが部屋に入ってきて
「いつまで きしゃで あそんでいるつもり?」と、部屋で遊んでいる男の子のところにやってくる。例によってお母さんが言うのは、お小言。

ここではまっしろい背景、描き込んであるのは、簡単なドアと、男の子の部屋のようす。ここでも水彩色鉛筆の、淡い色だ。

 この子が遊んでいる模型の蒸気機関車、たしかに表紙や内表紙を走っている蒸気機関車と同じものだ。ああ、これがあの機関車なんだな、と思う。ただ、おもちゃといっても相当に立派な駅と、線路もついていて、この線路はページの端から端まで渡っている。

おかあさんはいぬのパジャマ入れを渡してくれて、男の子はそのパジャマ入れを抱いて、眠りにつく、というか、とにかく部屋は暗くなる。
と、つぎのページで、いつのまにか部屋は明るくなっていて、ベッドの足下、おもちゃの蒸気機関車が煙を吐いて走り出している。機関室に乗っているのは、もちろん男の子と、元パジャマ入れの犬。

そうして、例のバーニンガムのガッシュの絵が現れる。満月の月明かりの中、蒸気機関車は黒い煙を吐きながら、都会の明るい夜空から離れていくのだ。

ここから『なみにきをつけて…』ほどの規則性はないのだけれど、ガッシュの絵と、白い背景の色鉛筆の絵が、交互に現れていく。

そうしてさまざまな風景と光のなかを、蒸気機関車は疾走する。

「きりが たちこめてきたぞ。
おばけごっこができるぞ」

おばけごっこから戻ってくると、ぞうが乗ろうとしている。

「おーい! すぐに きしゃから おりろ」

そうなのだ。子供をなめちゃいけない。『なみにきをつけて…』のおかあさんも、「どうして あのこたちの なかまに はいらないの? いっしょに あそべばいいのに……」とトンチンカンなことを言っているのだが、同じ子供だからといって、見ず知らずの子と、いきなり遊べるはずがない。大人がいきなり見ず知らずのアカの他人と「やあやあ」なんて言えないのと同じで、子供にだって適切な距離というものがあるのだ。小さいとき、いきなり頭を撫でてくる大人がどれほどイヤだったか。

ところがぞうは、「きみの きしゃに ぼくも のせてってよ。ぼくのきばをきりおとして ぞうげにするひとがいる。それでは ぼくたちは いきていけない」

そうなんです。この本は、確かに環境保護を訴えてもいる。それがなかったら、ほんとうにいい本なんだけど(わたしは主題がはっきりしていて、しかも「正しい」ことを主張しようとしている絵本というのは、暴力だと思っているので)。それでも、もちろんバーニンガムだから、一筋縄ではいかないのだけれど。

とにかくぞうを乗せて汽車は走り、下りてみんなで遊び、するとつぎにあざらしが、それからつるが、とらが、しろくまが、順番に乗ろうとしてくる。そのたびごとに、みんなは
「おーい! すぐに きしゃから おりろ」(さっき乗せてもらったばかりのやつも、大きい顔をしてそう言う)と指さし、あとからやってきた動物たちは、自分が人間からどれほどひどい目に遭っているか話して、乗せてもらうのだ。

その間に何度も日は昇り、晴れたり、風が吹いたり、雨が降ったり、雪が降ったりする。

「もどらなくちゃ。あさに なったら ぼくは がっこうに いかなくちゃいけないんだ」

そうして絵本はこのなかでも、もっとも迫力のある絵のページになる。
蒸気機関車が、日が昇る直前、そらが金色に染まり、海にその光が反射する中を、疾走していくのだ。いくつもの煙突からは、煙が立ちのぼり、蒸気機関車も煙を吐いて走っていくのだが、ここで気になることがひとつ。蒸気機関車の煙だけ、たなびいていく方向が逆だ。

これはどういうことなのだろう?
たとえ風向きが汽車の後ろから前だったとしても、走っている蒸気機関車の煙は、かならず先頭から後ろへ流れていくものではないか?
おまけに工場の煙突の煙は、蒸気機関車の先頭から後ろのに向けての方角にたなびいているのだ。
これは風ではない。

どういうことなんだろう、と1ページ戻ってみる。

なんと、男の子が帰ることを決心したそのページでは、白い背景のなか、走り出した蒸気機関車の煙は、どういうわけか進行方向と逆向き、後ろから前へ前へと流れている。

どうやらこの煙は、男の子の意識を先取りしているようなのだ。

つぎは、また白いページ、男の子はベッドで寝ている。

「さっさと おきなさい。 ちこく するわよ」

なんだ、夢だったのか。
ところがおかあさんはつづけてヘンなことを言う。

「うちのなかが どうぶつで いっぱいよ。
げんかんに ぞうが、
おふろのなかに あざらしが
せんたくもののなかに つるが
かいだんに とらが
れいぞうこのそばに しろくまが いるわ。
いったい どうなってるの?」

そういうおかあさんの顔は、確かに少しにっこりしている。
男の子に抱かれた犬のパジャマ入れ、寝るときはぬいぐるみだったのに、ここでは男の子と一緒に、おかあさんを見上げているようだ。
ベッドの足下を見ると、蒸気機関車の煙突から、少しだけ、煙が上っている……。

これまでの絵本の「文法」では、動物たちは大人には見えなかったはずなのに。
ほんとうに、動物たちが戻っていけないほど、そういう世界は破壊されてしまった、ということなのだろうか。じゃ、このあと、どうなるんだろう。おかあさんは、なんで平気な顔をしてるんだろう。

絵本の楽しみ、というのは、結局は、細かいところを見つけて、どこまで想像をふくらませながら読めるか、につきるのではないのか、と思う。

朝起きて、階段にトラがいたら楽しいだろうなぁ。
シロクマは、冷蔵庫の中には入れなかったらしい。

だけど、ほんとに本屋さんに行ったら、この本、立ち読みでいいから、見てみてください。
夜明け前を走る蒸気機関車、ほんとにすごいよ。

(この項、つづく)

中休み―サイト、更新しました―

2005-09-17 22:08:29 | weblog
ちょっと前にブログに載せた「この話したっけ」、タイトルと中身も大幅に加筆・修正してサイトの方にアップしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/

どうかそちらもまたのぞいてみてください。

翻訳でも雑文の方でもそうなんですが、ブログ掲載時とはずいぶん変わっていることが多いです。もちろん手を入れているからなんですが、だったらこうした〈未完成〉を人前にさらすのではなく、もう少し煮詰めてから出せばよさそうなものなんですが、そんなことを考えていたら、絶対に文章なんてものはできあがらない。

なんというか、ブログはわたしにとって、文章の生成の場、みたいな感じです。こういうとえらくカッコイイんだけど、実際は、メモの延長上にあるものだと思う。書きながら考え、考えながら書いている、その足跡がブログです。

こうした完成前の段階のものは、削除しちゃってもいい、事実、翻訳で完成版をアップしたとき、削除してしまったものもあります。

でも、考え直して、いまはそのまま残しています。こうした書いていくプロセスそのものが、えらく口幅ったい言い方なのですけれど、わたしのいまの段階の、ささやかな「作品」であると思っていますから。

 最近、無意識に「どっか行きたいなー」という言葉が、ひょいっと口から出てきます。ちょっと煮詰まってるのかもしれない。
フォークナーのあとがきも、書き換えなきゃいけないし、ブログに書きっぱなしにしているものもふたつほどある。「第三夜」も気になる。
仕事の方で、そろそろ本腰を入れていかなきゃいけないものもあります。

絵本は、手持ちのネタだけで、楽に書くつもりだったんだけど、いざ書き始めると、なんだか書きたいことはいっぱい出てくるし、そうなると調べものも必要になってくるし。
ま、楽しいことだからいいんですけど。

ああ、どっか行きたいなー。これは"Anywhere, but here"って感じかもしれない。

ということで。
それじゃ、また♪

絵本のたのしみ 2.

2005-09-16 22:21:46 | 
2.子供の自分に会う

もりのなか

「おとうさんだって、ほかに なにも できなくても いいから、おまえのように わらってみたいよ」(おとうさん)

マリー・ホール・エッツ
『もりのなか』
『またもりへ』(ともに福音館書店)


これは小さいときに持っていた本。

持っていたのは覚えているのだけれど、とりわけ愛着があった記憶はない。

横長の本の絵は、目の粗い画用紙に黒いコンテで描いただけの、きわめて地味なものだし、ストーリーも、主人公が冒険するわけでも、おもしろいことを経験するわけでもない。

ただ、おとなになってこの本を、ああそうだ、持っていたっけ、と本屋で開いたとき、衝撃を受けた。
一種異様なまでの静けさと、森の奥の闇の暖かな深さを感じたのだ。
とにかく、すごい絵だった。

話そのものは、ごくシンプルなものだ。

森の中へ散歩にいった男の子が、いろんな動物に会う。
動物はつぎつぎについてきて、みんなで歩いていく。
みんなでかくれんぼをしているときに、お父さんが迎えに来て、動物たちはいなくなってしまう。
「みんな まっててね」と男の子は森の中に声をかけて、お父さんに肩車されて帰っていく。

この話には続編がある。
『またもりへ』がそれだ。

こちらでは、男の子がさわがしい森の中へ入っていくと、動物たちが「とくいなことのうでくらべ」をするから、待っていたのだ、という。
動物たちがつぎつぎにいろんなことをしたあと、男の子はさかだちして、鼻でピーナッツをつまもうとして、おかしくなって笑ってしまう。
すると、動物たちはいっせいに立ち上がって、目を丸くして、「これはいい」と叫ぶ。
鳥も獣も、森の動物はだれも笑えないもの。

ここでも迎えに来たお父さんと入れ替わるようにして、動物たちは姿を消す。
笑っていた男の子に、「何がそんなにおかしいんだい?」と理由を聞いたおとうさんは、上で紹介したように、「おとうさんだって、ほかに なにも できなくても いいから、おまえのように わらってみたいよ」といって、ふたりは手をつないで帰っていく。

ただ、このふたつの話を比べてみると、いくつか重要なちがいがあることに気がつく。

まず、象は、『もりのなか』では二匹とも子供だったのに、こんどは一匹は年寄り、一匹は子供になっている。ライオンも、くまも、年取った感じだ。うさぎ、こうのとり、カンガルーがいなくなり、かば、へび、あひる、ねずみ、オウムが加わっている。

そして、なによりも、おとうさんが『またもりへ』では、若くなっているのだ。同じように口ひげを生やしているのだけれど、『もり』のほうが、前髪が薄いし、全体に老けているのだ。

『もり』では、画面奥の木立の間から、おとうさんが姿を現す。そして肩車された男の子とお父さんは、そちらに向かって後ろ姿になり、最後のページではふたりが去ったあとの木立ちが描かれるのだけれど、ふたりが行った先は暗く、なんだか森の奥へ向かったように思える(男の子がいたのは、森の反対側で、家に帰るためには、いったん奥へ向かわなければならないのかもしれないけれど)。

『また』では、おとうさんはいきなり横向きで、男の子の傍らに立っている。そうして、ふたりが手をつないで帰って行く先は、やはり木立が続いているのだけれど、心なしか『もり』より明るいような気がする。

男の子は、どちらも紙のぼうしをかぶって、ラッパを持っているのだけれど、同じ子かどうかはわからない。
むしろ、上にあげたことを考えると、ちがう子ではないか、と考えたほうがよいのかもしれない。

ちがう子、つまり、『もりのなか』の子が、『またもりへ』でおとうさんになって迎えに来たのではないだろうか、ということなのだ。

そう考えると、
「おとうさんだって、ほかに なにも できなくても いいから、おまえのように わらってみたいよ」
ということばは、かつて、同じように、動物たちを従えて、森を散歩していた記憶が遠くに響いているのではないか。

ここでの森の中とは、「子供時代」そのものだ。
ライオンがいて、ぞうがいて、カンガルーがいて、うさぎもいる。
そこでは生息区分もなければ、食う食われるの関係もない。
歩いていけばテーブルがあって、そこにアイスクリームやケーキがある。
そこでみんなで遊んでいると、おとうさんが呼びに来る。

こう考えると、おとうさんに肩車されて帰っていく先が暗いのも、納得がいく。それは、そこで「子供時代」の環が閉じられるからなのだ。

そう思って読んでいくと、『またもりへ』が、まったく別の物語として読むことができることに気がつく。
つまり、「おとうさん」は、子供を迎えに行くときに、もういちど森に帰ることができる、ということだ。
そのときの「おとうさん」は、もう「子供」と同じように笑うことはできない。ほかになにもできなくてもいからそんなふうに笑ってみたい。いったんは閉じられた環に、ふたたび戻ってくることはできたけれど、それは子供としてではない「おとうさん」のことばは、子供時代を過ぎてしまったわたしの内から発せられた言葉のようでもある。

この文章を書くために本を見たら、ガン末期の夫と暮らす日々に制作が進められ、夫の死後出版されたことがわかった(参照『絵本のよろこび』松居直 NHK出版)。
『もりのなか』の異様なほどの静けさと緊張感、そして、闇に向かって去っていく後ろ姿を見ると、確かにそうしたことが影響しているのかもしれない。

けれどもつぎの『またもりへ』は、「わいわい がやがや いう こえが きこえてきました」という言葉から始まるように、そうして、男の子が笑い転げている様子に(ほんとうにこの笑顔がかわいい)、最後のふたりが帰っていく先の、森の明るさに、いったんは閉じられた環が、また開くことが暗示されているように思えてならない。

わたしたちは、同じ「時」を、二度生きることはできない。
けれども、その「時」は、決して流れ去っていくのではない、と、この本を見ていると思うのだ。

わたしたちは、もう子供の時のように笑うことはできない。
それでも、過去、自分がそんなふうに笑っていたのだという記憶は、わたしたちの層のなかに刻まれているのだ、と。


絵本のたのしみ

2005-09-15 21:50:14 | 
その1.「けっ」はどこからきたか

やっぱりおおかみ
決めのひとこと「け」
(おおかみのセリフ)

佐々木マキ 作

「やっぱりおおかみ」福音館書店


 口に出して言うことこそないけれど、わたしはときどき「けっ」と思う。

たいがい目上の人間が、自分で考えたわけでもない、天声人語あたりから引っ張ってきたどうでもいいようなことを、いかにも大層な様子で言ったりすると、頭の中にひらがなの毛筆の太字で「けっ」と浮かんでくるのだ。

 考えていることがマンガのふきだしのように空中に浮かんだとしたら、わたしは相当焦らなくてはならないだろう。なにしろしかつめらしい顔で聞いているふりをしているのに、頭上右上30cmあたりに、墨跡鮮やかに「けっ」と浮かんでいたら……。

 この「けっ」は、せんに誤解していらした方がいたのだけれど、別に江戸っ子の職人のように手鼻をかんでいるのではなくて、実は出典があるのだ。

 それがこの佐々木マキの『やっぱりおおかみ』(福音館書店)である。

 この絵本は、たったいっぴきだけ残ったおおかみの子供が、どこかに自分よりほかにおおかみがいないかな、と探して歩く話だ。

 みんなは仲間がいて楽しそうに見える。けれど自分が近づいていくと、ほかの動物たちは逃げてしまう。いっぴきだけ取り残されるおおかみは、ひとこと、「け」という。ふきだしに、毛筆の太字で「け」と書いてあるのだ。 


「おれに にたこは いないかな」

あちこち探して、最後におおかみはビルの屋上に出る。
そこには気球がある。気球に乗ってどこかにいくと、ほかのおおかみに会えるんだろうか。
けれども、気球は飛んでいってしまう。

 残されたおおかみは、「やっぱり おれは おおかみだもんな おおかみとして いきるしかないよ」と思う。
そうして、飛んでいってしまう気球に向けて「け」と言うのだ。

 これはわたしが小さい頃に読んでいた本ではない。
中学生のときにもらったのが最初だ。

 この本は、その年代の子ども(とあえて言ってしまおう)の心情に、ひどくぴったりきたのである。

 自分はだれとも同じではないような気がして、自分のような人間はどこにもいないように思えて、自分の居場所を求め、受け容れてくれる人を捜すのだけれど、どこに行っても、どこに所属しても、なんとなく違うような、自分のことをわかってくれる人間などいないような、そんな気がする……。

「自分の物語」を、自分の手で紡ぎ始め、それを他者に承認してほしい時期の子どもは、確実に「おおかみ」に自分をなぞらえる。

 ここに自分がいる。自分こそ、ただいっぴきしかいないおおかみなんだ。

 そこで最後におおかみと一緒になって「け」と言ってみる。

 自分のことは、自分しかわからない。それでいいんだ、と。そうすると、おおかみと一緒に、なんだか自由で「ゆかいなきもち」になってくる。

だからもういちど「け」と言ってみる。
なにかあるたびに、「け」と言ってみる。
自分はひとりだ。だけど、かまうもんか。わたしが、わたしを、知ってる。

 そうやって、「け」と言いながら、そのうち「子ども」は大人になる。

自分が「たったいっぴきのおおかみ」ではありえないこと、さまざまな集団に属し、役割を担っている、ときに「うさぎ」であり、あるいは別の場面では「ぶた」であり、「やぎ」であり、「うし」であることに気がつく。

 これまでずっと「おおかみ」だと思っていたはずなのに、実は「おおかみ」ではなかったのだ、と理解する。そうして、自分がそのころ「うさぎ」や「やぎ」や「うし」だと思っていた人間が、やはり自分と同じように、どこかで自分を「おおかみ」ではないかと思って、「おおかみ」の自分を半ばもてあまし、半ば愛おしみながら、「おおかみ」の自分を受け容れてくれる人を捜していることに気がつくのだ。

 それから、またすこし大人になって、はじめて気がつく。

確かに、自分のなかにも「おおかみ」がいることを。だれにも飼い慣らされない「おおかみ」。「うさぎ」や「ぶた」や「やぎ」が逃げてしまう「おおかみ」が。

ときに「うさぎ」であり、「ぶた」である自分のなかに、「やぎ」や「うし」として日常を生きている自分のなかに、まぎれもない、いっぴきだけの「おおかみ」がいるのだ。こうやって「おおかみ」として生きるしかない自分を初めて見つける。

 これは、子どものころの「おれに にたこは いないかな」と周りを見回している「おおかみ」ではない。
空に向かって「け」という「おおかみ」、世界に向かって「け」という「おおかみ」だ。

 このときの「け」は、やはり「けっ」と言いたい。

すねて、背を向ける「け」ではなく、集団を成り立たせるための秩序のなかで生きながら、同時にくだらないものは、だれがなんと言おうとくだらない、と蹴り飛ばす「けっ」だ。

 人は「おおかみ」に生まれるのではない。「おおかみ」になるのだ。
 
 本の後ろに3歳~小学校初級向き、と書いてあるんだけど、これはティーン・エイジャーのための本でもなくて、大人のための絵本だと思うな。


(この項つづく)

石を投げないでください ~この話、したっけ~

2005-09-14 22:28:55 | weblog
――わたしがフェミニストにならないわけ――


 夏休み、ものすごくきれいな女の子と会う機会があった。

 たいがい、十八歳ぐらいの女の子というのは、肌なんかもけっこう脂ぎっているし、身体つきだって全体にずどんとした感じ、ほんとうにきれいになる前の段階という感じがして、全体に粗野で荒っぽい印象が否めない。こんなふうに考えてみると、大学受験がその年代にあるというのは、なかなか理にかなっているのではないか、と思ってしまう。

 ただその子は、一般的にいう美人の基準にあてはまるかどうかはよくわからないのだけれど、前髪を真ん中分けにしておでこを出していて、その生え際から額のなだらかなカーブがほんとうに見事というしかなくて、そこからこめかみ、頬を伝ってあごにおりていく線が、うっとりするくらいきれいだった。骨のかたちの美しさ、みたいなものがあるのだな、と、つくづく思ったものだった。

 その子がそこにいるだけでうれしくなってしまって、その週は、毎日その子の顔を見に仕事にいっていたようなものだった。その子の声は、顔ほどステキではなくて、話すことも書くことも、まぁふつうの、その年代らしいものだったのだけれど、そんなことはどうでもいい、ただその子の顔を見ているだけでその時間がずいぶん楽しいものになっていたのだった。

 わたしはきれいな女性が好きだ。電車に乗っていても、街中でも、きれいな女の人を見るとうれしくなってしまって、あまり失礼にならないように気を多少は遣いながら、それでもついつい、じーっと見てしまう。あきらかに好みのタイプの顔があって、「好きな男性のタイプはどういう感じ?」と聞かれたら、「タイプで恋愛するわけじゃないから、そんな質問には答えられない」とたいてい答えるくせに、女性の顔には好きなタイプがはっきりあったりする。

 映画でも、小津の何が好きかというと、実は原節子が好きだったりして、ヒッチコック作品に出てくるジョーン・フォンティーンとか、グレース・ケリーとか、彼女たちがどの場面でどんな表情をしていたか、相当細かく覚えているはずだ。

 こういうとき、見ているわたしの「目」というのは、おそらく女性という生まれつきの性別を離れたものになっているのだと思う。

 同じように、わたしはきれいな顔の男優にはちっとも惹かれないのだけれど、スコット・グレンとか、ニック・ノルティとか、『七人の侍』の宮口精二とか、やっぱり好きな人は何人かいて、そうした映画を観ているときは、画面に出てくるだけで幸せな気持ちになる。

 このとき、わたしの「目」は女性になっている。

 何が言いたいかというと、性差というのは、そんなに固定的なものなんだろうか、ということなのだ。

 たまに、男性から「女性としてこういう描き方はどう感じますか」みたいなことを聞かれて、困ってしまうことがある。困ってしまう(というか、そういうことを聞いてくる男性というのは、たいがい、自分はフェミニズムには理解があるのだ、ということを示したがっているケースが多くて、内心、「けっ」と思ってしまう、といったほうが正確なのかもしれないのだけれど)というのは、たとえ生まれつきの性別が女だからといって、「女性として」の意見が言えるわけではないからなのだ。わたしは「女性の代表選手」にはなれないし、なれるはずもないし、なりたくもない。

 本を読むとき、わたしは「女性として」は読まない。たとえば、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読むとき、わたしは語り手であるニック・キャラウェイの目を通してギャツビーを見、彼の胡散臭さを感じ、得体の知れない魅力に惹かれ、デイジーに対する思いに胸を打たれる。女性として、ギャツビーの魅力を感じるのではないのだ。

 逆にいうと、本は生まれつきの性差で読み方が変わってしまうのだろうか?

 もちろん、読み手は読み手の状況に応じてしか読めない、という事実は、歴然とある。たとえば、アフリカに行ったことのないわたしが思い描くンゴング丘陵は、アイザック・ディネーセンが過ごしたンゴング丘陵とはずいぶんちがっているだろう。それでも

 この風景、そしてその中での暮しの一番の特色は空気である。アフリカの高原ですごしたことのある人なら、あとで思いかえしてみると、しばらくの時を空の高みで生きていた気がして、おどろきに打たれるにちがいない。空は淡い青からすみれ色よりも濃くなることはほとんどなく、そこには巨大な、重量のない、絶えずかたちを変える雲がゆたかにそびえたち、ただよっていた。だがここの空は青い力を内に秘めていて、近くの丘や森を鮮やかな濃い青に染めあげて見せる。日ざかり、大気は炎と燃えたち、いきいきと大地をおおう。そして流れる水のようにきらめき、波うち、輝いて、あらゆるものを写しだし、二重の像をつくり、大きな蜃気楼を産みだす。
(アイザック・ディネーセン『アフリカの日々』横山貞子訳 晶文社)


この部分を読めば、わたしなりにアフリカの高原の空を思い描くことができる。それはそれで、随時更新されつづける、わたしにとってのアフリカの空なのだ。

 同様に、作者の導きによって、わたしたちはみずからの持って生まれた性を乗り越えることが可能ではないかと思うのだ。そこで、持って生まれた性差に拘泥する必要があるのだろうか、という疑問がある。

映画の編集者が、首を回している女性のショットから、通りの向かいに並ぶ店の中距離ショットにつなぐとき、我々はその女性のまなざしの動きをたどっている。みずからの意志でその動きに注意を向け、彼女とともに見ているのだ。モンタージュを理解するということは、編集者の基準に従って、カットを逆方向に組み立て直すということだ。見る行為として、モンタージュを動的に作り出すということだ。……我々は写真の向こうを漁ってまわる。「ここにどんな世界が保存されているのか?」と問うのではなく、「私はこれを保存した人間とどう違うのか、ここに保存された人間たちとは?」と問いながら。他人を理解することは、おのれの自己像を修正することと不可分だ。ふたつのプロセスはたがいに呑み込みあう。写真が我々を惹きつけるのは、何よりもまず、写真が我々を見返すからだ。
(リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』柴田元幸訳 みすず書房)


ここでパワーズがいうように、「見る」(あるいは「読む」)行為というのは、あくまで動的なものである。つまり、女性、日本人、黄色人種、といった固定されたものとしての「自分」があるわけではなく、あるいは読まれる対象、見られる対象として固定された「作品」あるいは「見られる人」があるわけではない、ということだ。

 そこでは自分の性的アイデンティティに固執することに意味はないと思うのだ。

 実際、日常生活において、女性・男性という性差に、否応なく縛られる場面は少なくない。その一方で、本を読んだり、映画を観たり、あるいは美しい女性を見たり、カッコイイ男性を見たり、という場面では、意外なほど自由に、両性の間を行き来しているのではないだろうか。

 と、いうことで。わたしは「女性のアイデンティティを高く掲げて」作品を読むという読み方はしないのです。

(この項おわり)

サイト更新しました

2005-09-13 21:37:45 | weblog
フォークナーの『乾いた九月』サイトにアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/

今日はなんだかんだ一日中フォークナーやフォークナーについて書かれた文章を読んで、翻訳に手を入れて、ってやってましたから、なんだか頭が疲れてます。いまさっき更新情報も書いたんだけど、何かいまいち、自分が何書いてるかわかってない(笑)。

なんかね、間際にならないと頭が働かないんです。
昔からそうだった。そうです、一夜漬けのプロでした。

締め切りが来るでしょ、ああ、もうどうしようもない、ダメかもしれない、というころになると、頭のある部分がぱかっと開くんです。そこが開くとしめたもの、というか、文章の精度も三割方あがってくるし、細かいところが決まってくる。こういう修羅場を経ない文章は、読み返してみてもぬるい感じがします。

もちろん自分のサイトだから、締め切りとかあるわけじゃないけれど、それでも仕事の調整とかいろいろあって、今日中にやってしまおう、と思ってました。今日を逃したら、いつになるかわかんない。そうなるとよくしたもんで、開くんです。ぱかっと(笑)。

だけど、開いちゃったら、あとはもうしばらくは使いものになりません。
あー、冷蔵庫に秘匿していたアイスクリームでも食べよう。

明日からまた新しいネタが始まります、と思います。
何も考えてないんですが(笑)アイスクリーム、食べてたら思いつくかもしれません。

それじゃ、また。また遊びにいらしてください。

乾いた九月 ウィリアム・フォークナー 総集編

2005-09-12 21:43:43 | 翻訳
昨日までブログで連載していたフォークナーの『乾いた九月』こちらで読めるようにしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/september.html

まだ決定稿ではありません(二つ、三つ、どうしても気に入らないところがある)ので、明日には正式にアップしたいと思っています。

誤字脱字変換ミス、あるいは主語のねじれ、意味の通じにくいところありましたら、どうかご指摘お願いします。

***

で、以下は余談なんですが。


『乾いた九月』も、漱石の『第三夜』も、闇のなかで進行するのが気になって、ずいぶん以前に、ある方に紹介していただいた『夜は暗くてはいけないか ――暗さの文化論』(乾正雄 朝日選書)を読みました。いや、実は今日、ずっと読んでて、さっそくここに書いてるんですけど。大変おもしろく読むことができました。

「寒暑の文化」対「光の文化」という比較の仕方には、目を開かれるようなおもいでした。

ただ、思ったのは、アメリカのことです。
乏しいわたしの経験では、アメリカの一般家庭は、日本の家庭に比べてはるかに暗い、間接照明が中心で、たとえばTVがついている部屋では、一切の照明を落としていたような記憶があります。

いっぽう、建材は日本と同じ、板としっくい? ではなかったでしょうか。少なくともヨーロッパのような石造りではありませんでした。

この本のなかでは「高層建築」というカテゴリーでしかアメリカにふれられていなかったのですが、このところアメリカの「郊外」(サバーヴィア)についていろいろ考えているので、ヨーロッパとも、もちろん日本ともちがう、アメリカのサバーヴィアの独特な感じについて、もう少しそこらへんのことを読んだり考えたりしてみたいと思いました。
たとえば、日本人は夜になって明かりをつけると、外から見えないようにカーテンを引くけれど、郊外の住宅ではカーテンなんて引きません。だから、中の様子が浮かび上がって見えてくる。たとえばヒッチコックの『裏窓』にしても、どこの部屋もカーテンなんて引かないから成立する映画なわけです(これはサバーヴィアじゃありませんが)。
そこらへんのこととか、もう少し考えてみたい。

以前スウェーデンから来た人が、冷蔵庫が熱を使って冷やすことができるように、光を使って闇を作り出すような発明は不可能だろうか、と話していたのを思い出します。スウェーデンの夏は、真夜中の二時ぐらいには夜が明けてしまうらしい。そうなると、鳥が一斉に鳴き始めて、うるさくてかなわないのだそうです。そうなると、どうしても寝不足になる。だから、スイッチをパチッと入れて、光を反転させて、人工的に闇を作り出すことはできないだろうか。そんな話を聞きました。読みながらそんなことも思い出したりしていました。

フォークナーの闇、漱石の闇、あるいはマクベスの闇(闇といえば、わたしはどうしても森の中で三人の魔女に会ったマクベスを思い出すんですが)、そこらへんについて思ったことを、そのうちに何かの形で書けたらな、と思っています。
なんだかまとまらない雑感ですが。

こんなところに書いて、本を紹介してくださった方の目に留まるかどうかわからないのだけれど、ご紹介ありがとうございました、とここでお礼を言っておきます。ずいぶん読むのが遅くなってしまったけれど、見てくださってるとうれしいな。

お元気でいらっしゃるといいのだけれど。

それじゃ、また。

乾いた九月 ウィリアム・フォークナー 最終回

2005-09-11 21:20:42 | 翻訳
(承前)

 娘たちは映画館についた。そこはまるでミニチュアのおとぎの国のよう、ロビーは明るく照らされ、生が怖ろしくも美しい突然変異を遂げた瞬間をとらえた色つきのリトグラフがあった。彼女の唇はひくつき始める。暗くなって映画が始まってしまえば大丈夫、笑いたい気持ちがあっというまにしぼんでしまわないように、引き留めておくことだってできるわ。だから彼女は、ふり返る顔や、さざなみのような驚きの声のあいだを縫って急ぎ、四人はいつもの席に腰をおろした。そこからは銀色の光を背に、通路と、若い男女がふたり連れで入ってくるのがよく見える。

 明かりが消えた。スクリーンが銀色に輝くと、すぐに人生の幕が開き、美しく情熱的で悲しい物語が始まった。そのときになっても、若いカップルたちは、薄暗がりの中を、香水の匂いをさせ、ささやき声を交わしながら入ってくる。一対の後ろ姿の影は繊細で美しく、たおやかでいきいきとした身体はどこかぎこちなく、神々しいほど若さにあふれているのだった。彼らの向こうでは、銀色の夢が、いつしかつぎつぎと積み重なっていた。彼女は笑い始めた。抑えようとすればするほど、いっそう笑い声は大きくなる。頭がいくつもふり返る。なおも笑い続ける彼女を、仲間たちは立ち上がらせると、外へ連れ出したが、歩道脇に立っても、甲高い笑い声は収まらず、仲間たちは手を貸してなんとか彼女をタクシーに乗せてやったのだった。

 ピンクのドレスや薄い下着、ストッキングを脱がせ、ベッドに寝かせると、氷を砕いて額を冷やしてやり、医者を呼ぶ。医者の居場所がわからなかったので、ほかの娘たちは、叫びだそうとする彼女をあやしたり、氷を取り替えたり、うちわであおいでやったりと世話をしたのだった。替えたばかりの氷が冷たい間は、彼女も笑うのをやめておとなしく横になり、ちょっと呻くぐらいだった。だがじきにまた笑いの発作が起こって、金切り声をあげ始めるのだった。

「シィィィィ! シィィィィ!」娘たちはそういいながら、氷嚢を交換し、髪をなでてやっては白髪を見つけた。

「かわいそうなひと」娘たちはそう言い合う。「ほんとに何かあったんだと思う?」目を暗く輝かせ、声を忍ばせて、夢中になってそう言い合う。 

「シィィィィ! かわいそうなひと。かわいそうなミニー」

V


 夜中、マクレンドンは車で彼のこぎれいでま新しい家に戻っていった。手入れがいきとどいた新品の鳥籠のような家で、また鳥籠のように小さく、緑と白に塗ってある。車をロックし、階段をあがって中に入った。妻が電気スタンドのかたわらの椅子から立ち上がった。マクレンドンは歩を止めてにらみつけたので、妻は目を伏せた。

「何時だと思ってるんだ」手を上げて指さす。マクレンドンの前に立つ妻は、雑誌を両手でにぎりしめ、うなだれた。その顔は青ざめ、緊張し、疲労の色が濃い。
「おれの帰りを待って、こんな時間まで起きてちゃいけないといっただろう」

「ジョン……」雑誌を下におろす。マクレンドンは爪先立ちになって、顔から汗をしたたらせながら妻をにらみつけた。

「おれはそう言わなかったか」妻のほうに近寄る。彼女は顔を上げた。マクレンドンはその肩をつかむ。されるがままになりながらも、夫の顔からは目を離さない。

「やめて、ジョン。わたし、眠れなかったの。この暑さですもの。それだけじゃない、何かよくわからないけれど。やめて、ジョン、痛いわ……」

「おれは言わなかったか」マクレンドンは手を離すと殴り飛ばした。椅子に倒れ込んだ妻は、横たわったまま、部屋をでていく夫を静かに見送った。

 シャツを引きはがすようにしながら、マクレンドンは家の中を通り抜け、網戸を張った暗い裏口に出て、シャツで頭や胸や背中の汗をぬぐい、そのまま投げ捨てた。後ろのポケットからピストルを引き抜き、ベッドサイドのテーブルにおく。ベッドに腰かけて靴をぬぎ、立ち上がってズボンを脱いだ。それだけでまた汗まみれになっている。立ち尽くして、気が狂ったようにシャツを探す。やっと見つけてそれで身体をぬぐうと、ほこりまみれの網戸にその身体を押しつけたまま、喘いだ。動くものも、物音もなく、虫の鳴き声さえ聞こえない。冷たい月と、まばたきもしない星の下で、暗い世界は傷ついて横たわっているようだった。

The End


※近日中に手を入れて、サイトのほうに全文アップします。

おまけ
-----今日のできごと-------

 帰りがけ、ビルの一階、蛍光灯の白々とした光が車道のほうまで明るく照らしているところがあった。選挙事務所だ。自転車で前を通ったときにひょいとのぞいたら、パイプ椅子におじさんたちが疲れ切ったように腰をおろしていたのが見えた。四、五人しかいなかったのだけれど、どの人も緊張して毛穴の詰まったような表情をしていたのが印象的だった。開票が始まったら人も続々と集まってくるのだろうけれど、その直前の凪のような時間だったのだと思う。なんとなく、選挙のもうひとつの側面を見たような気がした。

乾いた九月 ウィリアム・フォークナー その8.

2005-09-10 22:08:59 | 翻訳
(承前)

 勢いのついた身体は、ほこりまみれの草をなぎ倒しながら転がり、溝の中へ投げ出された。まわりで砂ぼこりが舞い上がり、枯れた茎が細い、悪意の感じられる音をぱきぱきとたてるなか、息をつまらせてからえづきしながら横になっていた。二台目の車が通り過ぎ、その音も聞こえなくなる。立ち上がり、足を引きずりながら本道に出ると、手でほこりを払いながら、街のほうへ歩き出した。

月はずいぶん高くなって、砂ぼこりがただよう層を越え、澄んだ空にのぼっている。しばらくすると砂ぼこりの向こうに光る街の灯が見えてきた。足をひきずりながらなおも歩いた。そのうち車の音が聞こえてきて、背後の砂塵を照らすヘッドライトが次第に大きくなってきたので、道を離れて雑草のなかにうずくまって、車をやり過ごした。マクレンドンの車が後になっていた。そこに乗っていた人間は四人で、ブッチはもはやステップに立っていなかった。

 車は行った。土けむりが後ろ姿を飲み込んでしまう。テールランプもエンジンの音も消えた。車が巻き起こした土けむりもしばらく漂っていたが、じきに果てしない砂塵のなかに飲み込まれてしまった。理髪師は道の上によじのぼり、足をひきずりながら街へ歩いていく。

IV


 その週の土曜日の夕方、食事に出かけるために服を着替えようとしていた彼女は、自分の身体が熱になってしまったような気分に陥った。ホックを留めようにも手はぶるぶる震え、目は熱に浮かされたよう、髪を梳かしても、静電気を帯びてチリチリになり、櫛の下でパチパチいった。身繕いも整わないうちに仲間たちが呼びに来て、極薄の下着とストッキング、新品のドレスを身につけるのを、坐って見ていた。
「もう外に行けるくらい元気になったの」そういう仲間たちの目も、暗い輝きを帯びていた。「ショックから立ち直れるぐらい時間がたったら、何が起こったのか、聞かせてね。あいつがどんなことを言って、何をしたのか。なにもかもよ」

 木陰のほの暗い道を、みんなで広場のほうに向かって歩きながら、彼女はまるでこれから水中に潜りでもするかのように、深呼吸を始めた。すると震えはとまった。ひどく暑かったし、彼女を気遣ってもいたために、四人はゆっくりと歩いていた。けれども広場に近づくと、ふたたび身体は震えだし、頭を昂然と上げ、手で両脇をぎゅっとつかんで歩いた。ぶつぶついっている彼女に話しかける娘たちの声も熱を帯びてきて、その目はきらきらと輝いていた。
 
 娘たちは、真新しいドレスに身を包んでいまにも倒れそうな彼女を真ん中にして、広場に入っていった。いっそうひどくふるえだす。子供がアイスクリームを食べるとき、だんだん食べる速さを遅くしていくように、彼女の歩みもだんだんのろくなっていった。頭をぐっともたげて、やつれをくっきりと浮かび上がらせたような顔の中で目だけを輝かせながら、ホテルの前を通り過ぎる。歩道沿いの椅子に、上着を脱いで腰かけているセールスマンたちが、彼女をじろじろと見定めた。
「あれだ、あの女さ、真ん中の、ピンクの服だ」
「あの女がそうなのか。で、黒ん坊はどうなったんだ? 連中が……」
「もちろんさ、やつはぴんぴんしてるよ」
「ぴんぴんだって?」
「ああ、そうだ。やつはちょっと旅行に行ったんだよ」

それからドラッグ・ストアの前にさしかかる。入り口でたむろしていた若い男たちまでが帽子を心持ちあげて挨拶し、通り過ぎていく彼女の腰や脚を目で追った。

 四人はなおも歩き続けたが、すれちがう紳士たちは帽子をあげ、あたりの話し声は、敬意を表し、護ってやろうというかのように急に止んだ。
「見たでしょ?」仲間がいった。娘たちの声は長く余韻を残す、喜びのため息のようだった。「広場には黒ん坊なんていない。たったのひとりも」

(いよいよ明日は最終回)




おまけ
-----今日のできごと-------

実はdustの訳語がまだ決まっていません。
砂ぼこり、土煙、砂塵、いろんなふうに書いていますが、原文はすべてdustです。
dust,dust,dust、乾いた九月のジェファーソンは、口の中がざらざらしてくるぐらい、dustが降り積もり、大気を覆っています。こちらまで息がつまりそう。そんな空気をどうやって日本語に移したらいいんだろう。

***

今朝、見上げた空に鱗雲が浮かんでいました。
こんな九月の空、生まれてから何度見たことか。でも、そのたびに秋が来たんだ、ってはっとします。

そのあと、仕事を終えて帰ってきてから、非常階段のてっぺんで風に吹かれながら、遠い山の稜線の上、かすかに明るさの残る北西の空を眺めていました。

I wish I were a bird.


乾いた九月 ウィリアム・フォークナー その7.

2005-09-09 22:09:59 | 翻訳
(承前)

 だが、だれもその場から動こうとはしないでいると、前方の暗闇からかすかな音が聞こえてきた。一同は車から下りると、息づまるような闇のなかで、緊張しながら待った。ちがう音が聞こえてくる。殴りつける音、ヒューッと息を吐く音、マクレンドンの押さえた罵り声。身動きできない一瞬ののち、みなは前方に駆けだしていた。なにものかに追い立てられでもしているかのように、よろめきながらひとかたまりになって走る。「やっちまえよ、やっちまうんだ」囁く声がする。マクレンドンは乱暴に一同を押し戻した。

「ここじゃない」マクレンドンがいった。「車に乗せるんだ」「やっちまえ、殺してやるんだ」声がつぶやく。黒人は車まで引きずられていった。理髪師は車の脇で待っていた。おれは汗をかいている、そのうち吐きそうになってくるんだ、と感じていた。

「いったいどうしたっていうんです」黒人が言う。「あたしは何もしちゃいません、神に誓って。ミスター・ジョン」手錠を差し出す者があった。一同はあたかも黒人が柱で、自分たちがそのまわりで忙しく働いてでもいるかのように、お互いがやっていることの邪魔をしながら、押し黙ったまま、必死になって動き回った。黒人はなずがままに手錠をはめられ、ぼんやりと浮かび上がる顔から顔へ、きょろきょろと視線を泳がせている。「みなさんは、どちらさんなんでしょうか」そういって頭を前に突き出し、顔をのぞき込もうとしたので、まわりの者にはその息がかかり、汗くさい体臭が鼻をついた。名前をひとつかふたつ、口にした。

「いったいあたしがなにをしたっていうんです、ミスター・ジョン」

 マクレンドンは車のドアをぐっと引いて、「乗れ」と命令した。

 黒人は動こうとしない。「みなさんは、あたしをどうなさるおつもりなんです、ミスター・ジョン。なんにもやっちゃいません。白人のみなさん、旦那がた、あたしはなにもしてないです、神かけて、なんにも」そうして、ちがう名前を呼んだ。

「とっとと乗るんだ」マクレンドンはなおもいった。黒人をなぐる。ほかの者も、かわいた息をひゅうひゅうと喘がせながら、手当たりしだいになぐりつけると、彼のほうもよろめきながらも罵り声をあげ、手錠をはめられたままの両手を顔めがけてふりまわし、理髪師の口をしたたかに打ちすえたので、理髪師もなぐりかえす。

「やつを乗せるんだ」マクレンドンがいった。みなで車の中へ押し込む。暴れるのをやめた黒人は車に乗り、おのおのが席につくまで静かに坐っていた。理髪師と元兵士にはさまれて、身体が触れることのないよう、できるだけ身を縮めて腰かけ、目だけは忙しく顔から顔へと走らせ続けている。ブッチは車のステップに乗った。車が動き出す。理髪師はハンカチを口に当てた。

「どうしたんだ、ホーク」元兵士が聞いた。

「なんでもない」と理髪師は答える。車はふたたび本道に戻り、街とは反対の方角に進む。後続の車は砂ぼこりのなかに見えなくなってしまっていた。車はスピードをあげて走り続ける。町の一番端にある家も、通り過ぎてしまった。

「畜生、こいつぁ臭いぜ」元兵士がいった。

「おれたちが治してやろうぜ」マクレンドンの隣の席にいるセールスマンがいった。ステップに乗っているブッチは、おしよせる熱風に向かって悪態をついている。理髪師は急に身を乗り出すと、マクレンドンの腕にふれた。

「ジョン、おろしてもらえないか」

「飛び降りろよ、黒ん坊好きめ」マクレンドンは振り返りもしない。スピードは上げたままだ。うしろから、姿の見えない二番目の車のヘッドライトばかりが、砂ぼこりをまぶしく照らし出していた。やがてマクレンドンは細い道に入っていく。普段使ってないために、でこぼこになった道だ。その先にあるのは、もう使っていない煉瓦窯、赤みを帯びた盛り土が並び、雑草や蔓草に覆われた底が抜けた大窯がうち捨てられた場所だった。後に放牧場として使われたこともあったが、それもラバが一頭、いなくなる日までのことだった。牧場種は長い棒で大窯をいくつもつついてみたが、その底さえ見つけられなかった。

「ジョン」理髪師がいった。
「飛び降りろっていったろ」マクレンドンはでこぼこの道を飛ばし続ける。理髪師の横で、黒人がいった。
「ミスター・ヘンリー」

 理髪師は坐ったまま身を乗り出した。狭いトンネルのなかのような道が、迫ってきては過ぎ去る。走り去ってゆく景色は、死に絶えた溶鉱炉から吹き付ける爆風のようなものだ。冷たく、完全に死滅している。車は轍から轍へと弾みながら進んだ。

「ミスター・ヘンリー」黒人がもういちどいった。

 理髪師はドアの取っ手を狂ったように引っ張った。
「気をつけろ、危ないじゃないか」元兵士がいったが、そのときには理髪師はドアを蹴り開け、ステップの上に身を移していた。元兵士は黒人の上にかぶさるようにして、理髪師の身体をつかもうとしたが、理髪師はすでに身を躍らせていた。車はスピードをゆるめることなく走る。

 (この項つづく)



おまけ
-----今日のできごと-------

学生時代の英語の先生にばったりと会って駅で立ち話(わたしの文章にときどき出てくるアイルランド人とは別人)。

 二年ぶりぐらいに会ったのに、いきなり"I've been thinking of you."と言われたので、何事かと思えば、翻訳をしてほしいのだという。
 なんでもその先生、小説を書いて日本での出版を希望しているのだそうだ。出版社に持ち込みたいのだが、日本語でないと、と断られたらしい。翻訳者を依頼しようにも金がない。うまく出版の運びになった暁には何割かの金を払うという条件で、翻訳をしてもらえないか、という。eroticな描写があるため、学生にも頼みにくいんだとか。とにかく原稿を見てほしいので、そのうち郵送する、と言われたのだが、おそらくボランティアに終わる可能性の高いA4用紙70枚の小説のことを考えると、気が重い。唯一の楽しみはeroticだとかいう話(笑)。ただし、PlayboyとかPenthouseに載せるようなものでは全然ないんだそうです。

 それにしてもひさしぶりに英語で話そうと思ったら、舌噛むわ、簡単な単語が出てこないわ、で、大汗かいた。最低だったのは、「三時」というのを、何を考えていたのか"third o'clock"と言ってしまったらしく(自分では気がつかなかった)、"You have three watches?" と聞き返されたこと(おまけにその先生、腕を出して、架空の腕時計を指さしながら、"first, second, third?"なんて言われてしまった)。自分がそんな間違いをしうるということに驚いた。読んでても聞いてても、話せない。ほんと、こりゃ別物だわ。
 ところで近頃妙に「ちょうど**さんのことを考えていたところ」という人によく会う。今週になって三人目、しかも出る話は金にはならない仕事(泣)の依頼ばかり。どうやらわたしのことを思い出すのはそういうひとだけらしい……。
 ま、求められてるうちが花、ということで。