5.誤解したらどうするか、誤解されたらどうするか
自分が実際に子供のときに読んだ記憶がある本は、それほど多くない。
持っていた本は覚えているし、愛着があった本も記憶にある。
なにより母親から「アンタは買い物に行くっていったら、かならず“あたしもー”ってついて来たがって、それだけならいいけど、“ぶたぶたくんみたいにリボン結んでー、ぶたぶたくんといっしょの買い物かごー”ってうるさくて大変だったわよ」といった具合に、思い出話として繰り返し聞かされて、好きだったのだと刷り込まれている本もある(『ぶたぶたくんのおかいもの』。この本をわたしが読んだのは、発行年月日から考えて、ハードカバーの本ではなく、姉のために購読していた月刊誌の「こどものとも」だったのだと思う)。
だが、読み終わったときの記憶が残っているのは、『ごんぎつね』一冊だけだ。
幼稚園児だった。家にあったのは、例によってかつては姉の絵本だったのだと思う。
読み終わると、じっとしておれなくなって、本を放り出して、部屋をぐるぐる走ったのだ。
部屋のまんなかに放り出した本と、たたみの上をすべりそうになりながら走るくつしたをはいた足裏の感覚と、ぐるぐるまわっていくカーテンの模様が、いまでもはっきり記憶にある。
おそらく、ショックを受けたのだ。ひどく動揺して、坐っていられなくなって、部屋を走り回ったのだと思う。たぶん、こんなふうに終わってはいけないと思ったのだ。
それからずっと避けてきて、ちゃんと読み返してみたのは、ほんの数年前のことだった。
読み返したとき、当時の気持ちがよくわかるように思った。
これはほんとうにひどい話だ。
ごんはまだいい。自分の命と引き替えにしたとはいえ、誤解が解けて、自分がしたことを認めてもらえたのだから。
なにがひどい、といって、これではあまりに兵十がかわいそうではないか。
これからさき、ひとりぼっちの寂しく貧しい生活に加えて、なんの罪もない、自分に栗やまつたけをもってきてくれた、唯一の友人になれるかもしれなかった存在(ほかの登場人物である加助は、つきあいはっても、寂しい生活を送っている兵十を、ちょっとのぞいてみることすらしない「近所の人」である)を殺した、という罪まで背負って生きていかなければならないのだ。
そう、これはイアーゴーの陰謀によって、妻デズデモーナを誤解し、死に追いやったオセロと同じなのだ(ちょっとちがうが)。
オセロのように悪意の介在があればまだしも、兵十にはそれすらない。ひとえに自分が誤解し、ごんを殺してしまったのである。誤解というのは、かくも恐ろしいできごとを引き起こす。
ここで、兵十がなぜごんを「またいたずらをしに来たな」と思ったのかというと、物語の冒頭で、せっかく捕ったうなぎを、ごんが盗んだからだ。
ごんとしてみれば、盗むつもりはなかった。ちょっといたずらがしてみたかっただけなのに、どうやらそのうなぎは、死の床にある兵十のおっかあが食べたがったものらしい。ごんはそうしたことを知らなかったのだ。
ごんは兵十が魚を捕っている特別な理由があることを知らなかった。日常的な仕事の一環と誤解した、と言い換えることもできる。つまり、誤解というのは、積み重なっていくものである、と理解できる。
オセロがデズデモーナの不貞の確証を得ようと、自分がかつてプレゼントしたハンカチを出せ、とつめよる場面でも、デズデモーナは無邪気にも、自分が不貞を疑われている当の相手のキャシオーの復職を訴える。これもデズデモーナがオセロの真意を誤解しているのである。
つまり、誤解するものは、誤解されている。誤解されているものは、同時に誤解している側でもあるのだ。
シェイクスピアの戯曲は、『オセロ』ばかりでなく、『リア王』にしても、『十二夜』にしても、『真夏の夜の夢』にしても、「誤解」がドラマを動かす大きな要素となっている。
なぜ戯曲では「誤解」が大きな役割を果たすかというと、それは小説にあるような心理描写がないからだ。登場人物の心理の一切はセリフとト書きで説明される。登場人物の行動の理由も、心情も、セリフと行動から理解するほかないのだ。当然、ここには誤解が生まれる。
だが、戯曲のこうした特色は、何かのありようを思い出さないだろうか?
わたしたちが生きる日常生活そのものではないか。ちがうことといえば、戯曲では(多くの場合)、最後に「真実」が開かされるけれど、日常ではそれさえもない、ただ、その一点なのである。
わたしたちは他者を理解しようとするとき、戯曲と同じように、いくつかの言葉や行動をつないで、「物語」を作って、そうすることで理解しようとしている。
けれども、自分の心情すら、わたしたちははっきりと理解しているわけではない。
『ハムレット』をもとにした志賀直哉の『クローディアスの日記』は、この「誤解」と「真実」のぶれを描いたものだ。
当初、クローディアスはハムレットから父王の暗殺の疑いをかけられ、このように書く。
しかし、そのうち、このようなことを思い出してしまう。
自分の心の内さえ、どのようにも言えるのである。いったいどれが「ありのまま」の自分の姿なのか、自分にさえわからない。まして、他者を「正しく」理解することなど、ありえない。
他者を理解しようとするかぎり、それは誤解を積み重ねていくことでしかない。そうした意味で、誤解は、理解のひとつのありよう、というか、誤解することでしか理解することはできないと言っていいだろう。
ただ、ここで問題になってくるのは、誤解をされるのは苦しい、ということだ。
誤解されている側からしてみれば、「あらゆる理解は誤解である」といってすまされる問題ではない。
もう話は果てしなく『ごんぎつね』からずれてきているのだが、続ける。
1972年、アメリカで「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」の表紙を、18歳の女の子、ジョイス・メイナードが飾った(これはそのときの写真ではないけれど、ほぼ同時期のもの)。
『十八歳の自叙伝』は、才気あふれる文章と、この少女のかわいらしさが相まって、大変な評判になる。
彼女が在籍していたイエールの寮には、何百通というファンレターが届いたが、そのなかに、J.D.サリンジャーからのものがあった。
サリンジャーとメイナードの文通が始まる。
こうして、メイナードはイエールを引き払い、サリンジャーとの同棲生活に入る。
厳しい食餌制限を課し、瞑想を中心とするサリンジャーの生活に、メイナードはなんとかあわせようとし、サリンジャーの期待に応えようとする。だが、どれだけ努力しても、メイナードは肉体的に、サリンジャーを受け入れることができない。結局、サリンジャーはメイナードに出ていくように、一方的に告げることになる。
苦しい年月を経て、別の男性と結婚し、出産したメイナードは、小説を書く。そうして、出版されたその本をサリンジャーに送る。
メイナードがサリンジャーとの日々を含めて、半生を回想した『ライ麦畑の迷路を抜けて』(野口百合子訳 東京創元社)を読んでいると、サリンジャーがメイナードのなかに見ようとしたものに思いをはせずにはいられない。
最初から、メイナードはずっとメイナードだったのだ。「下品で卑劣なこじつけ」を書いたのも、才気にあふれる「自叙伝」を書いたのも、同じメイナードだ。
おそらくサリンジャーが見たかったのは、メイナードにごく一部を負ってはいたのかもしれないけれど、メイナードの外見をした「エズミ」(『エズミに捧ぐ』『ナイン・ストーリーズ』所収)であり、「フィービー」(『ライ麦畑でつかまえて』)であったのではないだろうか。
ひとは誰でも、他者に自分を理解してほしいと思う。
とおりいっぺんのつきあいなら、他者が自分のことをどれほど誤解しているか、わかることはない。けれど、それを越えて、深く関わり合おうとするとき、他者が紡いだ「自分の物語」が、自分が紡いだ「自分の物語」と食い違うことに気がつく。そのとき、ひとは苦しむ。深く関わる、ということは、とりもなおさず深い理解を求めているからなのだ。過大評価であろうが、過小評価であろうが、同じこと。サリンジャーの例を見てもあきらかなように、過大評価は容易に逆転する。
ここでもういちどシェイクスピアに戻ろう。
誤解がもとで起こった悲劇というと、まず思い出すのは、やはり『リア王』だろう。
「誰が一番この父の事を思うておるか、それが知りたい。最大の贈物はその者に与えられよう」(福田恆存訳 新潮文庫)
ゴネリル、リーガンがそれぞれ美辞麗句を並べたてて王を喜ばせるのに対し、コーディーリアは「申し上げる事は何も」(引用同)としか言わないのだ。
コーディーリアは父親が誤解していることを知っている。それでも、頑なといえるまでに、自分の言葉を翻そうとしないのはなぜか。
おそらくそれは、甘い、口当たりの良い言葉で、自分の愛情を口にすることは、自分の愛情を汚すことであるし、父王に対する侮辱であるとも考えているからだ。
コーディーリアの気持ちはよくわかる。それでも、誤解を解こうとしないということは、父を誤解の内に取り残すということだ。コーディーリアは、自分の愛情の理解を、愛情を向けた当の相手にすら求めようとしない。それは、愛情といえるのだろうか?
リア王はその愚かさのために、王位を追われる。けれども、愚かさに追いやったのは、コーディーリアでもあるのだ。
さて、冒頭の問いに戻ろう。
誤解したらどうするか、誤解されたらどうするか。
ほんとうは、わたし自身、その答えを教えてほしいぐらいなのだけれど。
以前、別のところでリチャード・パワーズの『舞踏会に向かう三人の農夫』の一節を引いた。同じ箇所をもういちど引いてみよう。
わたしたちは、他者を理解することはできない。誤解することができるだけだ。けれども、理解しようとするなかで、言葉を換えれば、深く関わっていこうとするなかで、自分の誤解を休むことなく修正し続ける。それは、自分の見方を改めることだ。愛情、尊敬、相手のことを知りたいという気持ち、どのような言葉でそれを呼んでもかまわないのだが、相手と深く関わっていきたいという思いは、自分が、自分の見方を改める、そのたびごとに、少しずつ変わっていく。そうして、それはとりもなおさず、自分自身が変わっていく、自己像を修正していく、ということではないのだろうか。
ごんからずいぶん遠くへ離れてしまったけれど、やはり、兵十の誤りは、ごんを殺してしまったことにあるだろう。殺してしまった相手とは、もう関わることはできない。
そのひとと、関わることができない。誤解を、少しでも正しい理解へと近づけることはできない。だから、ひとは「他者」を殺してはいけない。
(次回 最終回)
自分が実際に子供のときに読んだ記憶がある本は、それほど多くない。
持っていた本は覚えているし、愛着があった本も記憶にある。
なにより母親から「アンタは買い物に行くっていったら、かならず“あたしもー”ってついて来たがって、それだけならいいけど、“ぶたぶたくんみたいにリボン結んでー、ぶたぶたくんといっしょの買い物かごー”ってうるさくて大変だったわよ」といった具合に、思い出話として繰り返し聞かされて、好きだったのだと刷り込まれている本もある(『ぶたぶたくんのおかいもの』。この本をわたしが読んだのは、発行年月日から考えて、ハードカバーの本ではなく、姉のために購読していた月刊誌の「こどものとも」だったのだと思う)。
だが、読み終わったときの記憶が残っているのは、『ごんぎつね』一冊だけだ。
幼稚園児だった。家にあったのは、例によってかつては姉の絵本だったのだと思う。
読み終わると、じっとしておれなくなって、本を放り出して、部屋をぐるぐる走ったのだ。
部屋のまんなかに放り出した本と、たたみの上をすべりそうになりながら走るくつしたをはいた足裏の感覚と、ぐるぐるまわっていくカーテンの模様が、いまでもはっきり記憶にある。
おそらく、ショックを受けたのだ。ひどく動揺して、坐っていられなくなって、部屋を走り回ったのだと思う。たぶん、こんなふうに終わってはいけないと思ったのだ。
それからずっと避けてきて、ちゃんと読み返してみたのは、ほんの数年前のことだった。
「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
(新美南吉『ごん狐』
青空文庫)
読み返したとき、当時の気持ちがよくわかるように思った。
これはほんとうにひどい話だ。
ごんはまだいい。自分の命と引き替えにしたとはいえ、誤解が解けて、自分がしたことを認めてもらえたのだから。
なにがひどい、といって、これではあまりに兵十がかわいそうではないか。
これからさき、ひとりぼっちの寂しく貧しい生活に加えて、なんの罪もない、自分に栗やまつたけをもってきてくれた、唯一の友人になれるかもしれなかった存在(ほかの登場人物である加助は、つきあいはっても、寂しい生活を送っている兵十を、ちょっとのぞいてみることすらしない「近所の人」である)を殺した、という罪まで背負って生きていかなければならないのだ。
そう、これはイアーゴーの陰謀によって、妻デズデモーナを誤解し、死に追いやったオセロと同じなのだ(ちょっとちがうが)。
オセロのように悪意の介在があればまだしも、兵十にはそれすらない。ひとえに自分が誤解し、ごんを殺してしまったのである。誤解というのは、かくも恐ろしいできごとを引き起こす。
ここで、兵十がなぜごんを「またいたずらをしに来たな」と思ったのかというと、物語の冒頭で、せっかく捕ったうなぎを、ごんが盗んだからだ。
ごんとしてみれば、盗むつもりはなかった。ちょっといたずらがしてみたかっただけなのに、どうやらそのうなぎは、死の床にある兵十のおっかあが食べたがったものらしい。ごんはそうしたことを知らなかったのだ。
ごんは兵十が魚を捕っている特別な理由があることを知らなかった。日常的な仕事の一環と誤解した、と言い換えることもできる。つまり、誤解というのは、積み重なっていくものである、と理解できる。
オセロがデズデモーナの不貞の確証を得ようと、自分がかつてプレゼントしたハンカチを出せ、とつめよる場面でも、デズデモーナは無邪気にも、自分が不貞を疑われている当の相手のキャシオーの復職を訴える。これもデズデモーナがオセロの真意を誤解しているのである。
つまり、誤解するものは、誤解されている。誤解されているものは、同時に誤解している側でもあるのだ。
シェイクスピアの戯曲は、『オセロ』ばかりでなく、『リア王』にしても、『十二夜』にしても、『真夏の夜の夢』にしても、「誤解」がドラマを動かす大きな要素となっている。
なぜ戯曲では「誤解」が大きな役割を果たすかというと、それは小説にあるような心理描写がないからだ。登場人物の心理の一切はセリフとト書きで説明される。登場人物の行動の理由も、心情も、セリフと行動から理解するほかないのだ。当然、ここには誤解が生まれる。
だが、戯曲のこうした特色は、何かのありようを思い出さないだろうか?
わたしたちが生きる日常生活そのものではないか。ちがうことといえば、戯曲では(多くの場合)、最後に「真実」が開かされるけれど、日常ではそれさえもない、ただ、その一点なのである。
わたしたちは他者を理解しようとするとき、戯曲と同じように、いくつかの言葉や行動をつないで、「物語」を作って、そうすることで理解しようとしている。
けれども、自分の心情すら、わたしたちははっきりと理解しているわけではない。
『ハムレット』をもとにした志賀直哉の『クローディアスの日記』は、この「誤解」と「真実」のぶれを描いたものだ。
当初、クローディアスはハムレットから父王の暗殺の疑いをかけられ、このように書く。
……乃公(おれ)が何時貴様の父を毒殺した?
誰がそれを見た? 見た者は誰だ? 一人でもそういう人間があるか? 一体貴様の頭は何からそんな考を得た? (志賀直哉『クローディアスの日記』『清兵衛と瓢箪・網走まで』所収 新潮文庫)
しかし、そのうち、このようなことを思い出してしまう。
眼を開くと何時かランプは消えて闇の中で兄がうめいている。然しその時直ぐ魘されているのだなと心附いた。いやに凄い、首でも絞められるような声だ。自分も気味が悪くなった。自分は起してやろうと起きかえって夜着から半分体を出そうとした。その時どうしたのか不意に不思議な想像がふッと浮んだ。自分は驚いた。それは兄の夢の中でその咽を絞めているものは自分に相違ない、こういう想像であった。すると暗い中にまざまざと自分の恐ろしい形相が浮んで来た。自分には同時にその心持まで想い浮んだ。
自分の心の内さえ、どのようにも言えるのである。いったいどれが「ありのまま」の自分の姿なのか、自分にさえわからない。まして、他者を「正しく」理解することなど、ありえない。
他者を理解しようとするかぎり、それは誤解を積み重ねていくことでしかない。そうした意味で、誤解は、理解のひとつのありよう、というか、誤解することでしか理解することはできないと言っていいだろう。
ただ、ここで問題になってくるのは、誤解をされるのは苦しい、ということだ。
誤解されている側からしてみれば、「あらゆる理解は誤解である」といってすまされる問題ではない。
* * *
もう話は果てしなく『ごんぎつね』からずれてきているのだが、続ける。
1972年、アメリカで「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」の表紙を、18歳の女の子、ジョイス・メイナードが飾った(これはそのときの写真ではないけれど、ほぼ同時期のもの)。
『十八歳の自叙伝』は、才気あふれる文章と、この少女のかわいらしさが相まって、大変な評判になる。
彼女が在籍していたイエールの寮には、何百通というファンレターが届いたが、そのなかに、J.D.サリンジャーからのものがあった。
サリンジャーとメイナードの文通が始まる。
<あなたはわたしを過大評価しています>わたしは書いた。
そうではないよ、と彼は答えた。きみは素晴らしい人生を創造する女性だ。誰も真似できないような。世界を従える女性だ。
(ジョイス・メイナード『ライ麦畑の迷路を抜けて』東京創元社)
こうして、メイナードはイエールを引き払い、サリンジャーとの同棲生活に入る。
厳しい食餌制限を課し、瞑想を中心とするサリンジャーの生活に、メイナードはなんとかあわせようとし、サリンジャーの期待に応えようとする。だが、どれだけ努力しても、メイナードは肉体的に、サリンジャーを受け入れることができない。結局、サリンジャーはメイナードに出ていくように、一方的に告げることになる。
苦しい年月を経て、別の男性と結婚し、出産したメイナードは、小説を書く。そうして、出版されたその本をサリンジャーに送る。
「ジェリー・サリンジャーだ」彼は名乗った。心臓をナイフでひと突きされたようだった。彼だとわからないとでも、思っているのだろうか。「きみが送ってきた本を読んだ……この……きみが小説と読んでいるしろものを……。ぼくがこれを見たがるとなぜ思ったのか、想像もつかない」その口調は、腐った肉のことでも話題にしているかのようだった。
「あなたが気に入るかもしれないと思ったの」わたしは言った。
「吐き気がするよ。うんざりだ。きみがここに送りつけてきたものは、ゴミだ」
「どこがいけないの? あなたは自分が愛しているもののことを書けといったわ」
「愛している? ばか言っちゃいけない。恥を知らないのか? こいつは、下品で卑劣なこじつけ以外のなにものでもない」
メイナードがサリンジャーとの日々を含めて、半生を回想した『ライ麦畑の迷路を抜けて』(野口百合子訳 東京創元社)を読んでいると、サリンジャーがメイナードのなかに見ようとしたものに思いをはせずにはいられない。
最初から、メイナードはずっとメイナードだったのだ。「下品で卑劣なこじつけ」を書いたのも、才気にあふれる「自叙伝」を書いたのも、同じメイナードだ。
おそらくサリンジャーが見たかったのは、メイナードにごく一部を負ってはいたのかもしれないけれど、メイナードの外見をした「エズミ」(『エズミに捧ぐ』『ナイン・ストーリーズ』所収)であり、「フィービー」(『ライ麦畑でつかまえて』)であったのではないだろうか。
ひとは誰でも、他者に自分を理解してほしいと思う。
とおりいっぺんのつきあいなら、他者が自分のことをどれほど誤解しているか、わかることはない。けれど、それを越えて、深く関わり合おうとするとき、他者が紡いだ「自分の物語」が、自分が紡いだ「自分の物語」と食い違うことに気がつく。そのとき、ひとは苦しむ。深く関わる、ということは、とりもなおさず深い理解を求めているからなのだ。過大評価であろうが、過小評価であろうが、同じこと。サリンジャーの例を見てもあきらかなように、過大評価は容易に逆転する。
ここでもういちどシェイクスピアに戻ろう。
誤解がもとで起こった悲劇というと、まず思い出すのは、やはり『リア王』だろう。
「誰が一番この父の事を思うておるか、それが知りたい。最大の贈物はその者に与えられよう」(福田恆存訳 新潮文庫)
ゴネリル、リーガンがそれぞれ美辞麗句を並べたてて王を喜ばせるのに対し、コーディーリアは「申し上げる事は何も」(引用同)としか言わないのだ。
コーディーリアは父親が誤解していることを知っている。それでも、頑なといえるまでに、自分の言葉を翻そうとしないのはなぜか。
おそらくそれは、甘い、口当たりの良い言葉で、自分の愛情を口にすることは、自分の愛情を汚すことであるし、父王に対する侮辱であるとも考えているからだ。
コーディーリアの気持ちはよくわかる。それでも、誤解を解こうとしないということは、父を誤解の内に取り残すということだ。コーディーリアは、自分の愛情の理解を、愛情を向けた当の相手にすら求めようとしない。それは、愛情といえるのだろうか?
リア王はその愚かさのために、王位を追われる。けれども、愚かさに追いやったのは、コーディーリアでもあるのだ。
さて、冒頭の問いに戻ろう。
誤解したらどうするか、誤解されたらどうするか。
ほんとうは、わたし自身、その答えを教えてほしいぐらいなのだけれど。
以前、別のところでリチャード・パワーズの『舞踏会に向かう三人の農夫』の一節を引いた。同じ箇所をもういちど引いてみよう。
他人を理解することは、おのれの自己像を修正することと不可分だ。ふたつのプロセスはたがいに呑み込みあう。
わたしたちは、他者を理解することはできない。誤解することができるだけだ。けれども、理解しようとするなかで、言葉を換えれば、深く関わっていこうとするなかで、自分の誤解を休むことなく修正し続ける。それは、自分の見方を改めることだ。愛情、尊敬、相手のことを知りたいという気持ち、どのような言葉でそれを呼んでもかまわないのだが、相手と深く関わっていきたいという思いは、自分が、自分の見方を改める、そのたびごとに、少しずつ変わっていく。そうして、それはとりもなおさず、自分自身が変わっていく、自己像を修正していく、ということではないのだろうか。
ごんからずいぶん遠くへ離れてしまったけれど、やはり、兵十の誤りは、ごんを殺してしまったことにあるだろう。殺してしまった相手とは、もう関わることはできない。
そのひとと、関わることができない。誤解を、少しでも正しい理解へと近づけることはできない。だから、ひとは「他者」を殺してはいけない。
(次回 最終回)