陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

電脳的非日常 最終回

2005-09-02 19:12:38 | weblog
3.インストール

さて、その翌日のこと。
次の日からわたしは家を空けることになっていた。
とにかくその日のうちに再セットアップは完了させておかなければならない。

夕食はすんだし、皿もナベも洗った。無印良品で買ってきた新しいシーツも敷いた。やるべきことはすべて片づけ、最後に机の上を整理した。普段、山と積まれた本やプリントアウトが取り除かれた机の上は、こんなに広かったのか、と思うほど。

真ん中にノートパソコンを置く。
買ってきたハードディスクの中身に比べてえらく大きな箱と、マニュアル、そして以前師匠から譲り受けたWindows2000の箱を揃えた。

わたしには密かな野望があった。
OSのヴァージョンアップである。
使っていたMeは、立ち上げ時に実によくフリーズするのだ。

だいたい立ち上げにえらく時間がかかっていた。
朝起きて、まずパソコンの電源を入れる。その間に顔を洗って着替えをすませ、コップに入れた飲み物を持って机の前に戻ってくると、やっとスタートメニューが完了している、という具合なのだ。
ところがときどき戻ってみると、青い画面にタスクバーが出ただけの状態で、固まっている。こうなるとあとはもうウンともスンともいわない。強制終了させようとしてもいうことを聞かず、電源を切るしかないのだ。

再度電源を入れると、スキャンが始まり、いっそう時間がかかってしまう。これは苛立たしいだけでなく、ハードディスクの寿命を確実に縮めているのだと思うと、ほんとうに心臓には悪かった。

以前師匠にそれを話すと、Windows2000professionalを譲ってくれたのである。
「何かあったらこれでヴァージョンアップするように」と。
そのときはありがたくいただいたのだが、まさか自分でする羽目になるとは夢にも思わなかった。

とにかくわたしの座右の銘(これがまたいっぱいあるのだが)のひとつは、「転んでもタダでは起きるな」である。ついでに全部やってしまえ、というわけなのである。

さて、サポートセンターに電話をかけてみるが、全然つながらない。マニュアルを読むうち、なんとなく自力でできそうな気がしてきた。

考えてみたら、わたしは人から教えてもらった経験もずいぶんあるけれど、本を読むことで学び、習得した技術も少なくない。

たとえば大学に入るまで、家庭科の調理実習以外では、ご飯ひとつ炊いたことがなかったし、洗濯機だって使ったことがなかった。
けれどもわたしは全部本で調べ、本を片手にひとつずつやっていったのではなかったか。ときにそれはマニュアルであったし、『オレンジページ』などの雑誌であることもあったし、『父からもらったごちそう帖』(陳健一)や『アメリカの食卓』(本間千枝子)というハードカバーの本のこともあった。文字を追い、それを理解しつつ、行動に移していったのだ。
そう、本はわたしにとって、いつだってつぎのアクションを起こさせる契機となってきたのだ。

よし、マニュアルを見ながらやってみよう、と覚悟を決めた。

大きな箱から、薄っぺらいハードディスクを取り出す。
まずマニュアルを読む。日本語がおかしい。なんでもう少しまともな日本語が書けないのだろう。だが、とりあえずの手順は頭に入った。
要は昨日の手順を逆にたどればいいわけだ。

緊張か、暑いせいか、汗が流れ落ちる。タオルで手を拭きながら、カバーを持ち上げ、ディスクを押し入れる。うまく入らない。もう一度。さらにもう一度。三度目にやっと入った。これだけで20分が経過していた。カバーを下げて、ネジを留める。

祈るような気持ちで電源を入れる。胸がドキドキする。
動いた!
身の凍るような音もしない!(少なくともそれは当たり前だが)
ここまではうまくいったのだ。
一瞬、画面が涙でかすみそうになったが(含嘘)、まだまだやることはどっさりあるのである。

インストール用のCD-ROMを入れる。リセットボタンを押して、再起動。
ここからマニュアルはWindows用に交代。

黒い画面一面にアルファベットと数字が現れる。実は英語を読むのがキライなわたしは、目だけ走らせて、最後の"Press any key"を見つけてEnterキーを押す(どれを押してもいい、と言われても、必ずEnterキーを押してしまうのはなぜなんだろう)。

ありがたい、つぎからは日本語である。だがやっぱり日本語がおかしい。
「セットアッププログラムのこの部分はWindows2000のインストールと設定を準備します」
いわゆる英語の原文が「透けて見える」ような日本語である。どういう日本語にしたらいいんだろう。おそらく原文は……。
いや、そんなことを考えている暇はない。
どんどん手順を進める。

ところがひとつの手順ごとに時間がかかるのなんの。
最初はひとつずつできているかどうか気になって、マニュアルと首っ引きで液晶画面に張り付いていたのだが、そのうち飽きてしまう。マニュアルの日本語の推敲もおもしろくないし。
なかなか進まないハードディスクのフォーマットの画面を見ているのがイヤになって、ナイポールの『中心の発見』を読み始める。おもしろい。これはマズイ。没入して自分がやっていることを忘れそうだ。本を変える。雑誌なら良かろう、と、たまたま目につくところにあった月刊『言語』を取り上げる。前に飛ばしていた記事を見つけ、それを読み始める。
タイとラオスにまたがる先住民の「ムラブリ族」には結婚式や葬式、農耕儀礼も祭祀もない、とあるのだが、ほんとうにそんなものを何も持たない民族というのは、存在するんだろうか、みたいなことをああでもないこうでもないと考えていたところで、フォーマット終了。それでもじっと待つことが続く。

お茶を入れる。

初期化が完了した、という表示がでる。でも、勝手に再起動してくれるので、ただぼけーっと見ていればよい。

「Windows2000 Professionalセットアップを開始する」という宣言がなされる。わたしなんかが畏れ多くも「professional」などと名のつくOSをインストールして良いものだろうか、という既に五十八回は考えた疑問が、また浮かび上がってくるが、これも縁というものなのだろう、と受け入れることにする。
「次へ」「次へ」と機械的に押していき、プロダクトIDを間違えないように、一文字ずつ確かめながら入力していく。

「コンピュータの名前」
ネットワークとは無関係の自分のパソコンに名前をつけるのは、なんとなくばかばかしいような気がするのだが、前のときも確かそう思いながら名前をつけたのだ。……思い出せない。しかたがないのでかわいい名前をつけてやった(秘密)。

パスワードを入力し、日付を入力し、さらに待つ。
ネットワークの設定は、プリンタのドライバーをインストールしてから(というのも、以前プリンタを接続しようとしてどうしてもうまくいかなくて、師匠にやってもらったことがあるのだ。今回も帰国した師匠にやらせようという魂胆である)、ということで、標準設定にして、次へ、次へと進んでいく。ネットワーク識別ウィザード終了が宣言される。なんでウィザード(魔法使い)なんだろう?
とりあえずこれでやっとOSのインストールが終わった。
作業を初めて約二時間半が経過。

それからウィルスバスターを入れ、さらにWindowsのUpdate。時間ばかりがどんどん過ぎていく。とりあえずないとこまる辞書関係のアプリケーションも入れ、メーラーの設定もする。
まだやらなければならないことはあるが、時間は二時を回った。自分が何をしているのか判然としなくなってきた。また今度にしよう、と寝ることにする。かくしてわたしのハードディスク交換と再セットアップは、こうして一応の完了を見たのである。

教訓:マニュアルを熟読すると、なんとかなるものである。


実はそれからあとやったのは、解凍アプリとテキストエディタをインストールしただけ。いや、残りはそのうちと思っているのだけれど……。
そのなかにはi-podがどうしてもほしくて、当時のMeで使えるようにと買ったXPlayも含まれている。うーん、こんなに早く2000になるとわかっていたら……。いや、とっても便利なんですけどね(と負け惜しみ)。


そうそう、あれから一週間が過ぎようとしているが、結局シーツは出てこないままだった。一体どうなってしまったのだろう……。
さまざまな想像が可能であるが、モハヤ出てきてほしくない気持ちでいっぱいである。あれから一週間、雨も降った。出てくるとしたら、確実に想像を絶する状態になっているにちがいない。管理人からの電話を、密かに怯える毎日なのである。


Imagine if every Thursday your shoes exploded if you tied them the usual way. This happens to us all the time with computers, and nobody thinks of complaining.
Jef Raskin(Macの生みの親)


――もし毎週木曜日、いつもどおり靴ひもを結んだ君の靴が爆発したとしたら、と想像してみてほしい。コンピュータってのはそういうことがしょっちゅう起こってるんだよ、なのに、だれも文句を言おうなんて、思いつきもしない。


(この項終わり)