陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

絵本のたのしみ 6.

2005-09-22 21:58:54 | 
6.せっかくめぐり逢えたのだから
―コミュニケーションという観点から『わたしとあそんで』を読んでみる―

わたしとあそんで

「ああ わたしは いま、とっても うれしいの。
 とびきり うれしいの」(女の子)
マリー・ホール・エッツ 
『わたしとあそんで』(福音館書店)


この本の裏表紙に「読んであげるなら 3才から じぶんで読むなら 小学校初級むき」とあるのだけれど、この対象年齢の設定のしかたがよくわからなくて、出版社のサイトに行ってみた。

なんと「 野原にとびだした女の子と、バッタやカエルなどの小さな動物との交流を、このうえなくあたたかくうたいあげた絵本。生きとし生けるものが共感しあえる世界を、静かに語りかけています」なんだそうだ。
驚いた。
そんな本だとは、いままで一度も思ったことがなかった……。orz

ということで、今回も、超独断的に「子供にはもったいない」「お子様には分かってたまるか」という観点から読んでいきます。

今回は内容的には前回と続いている。誤解ときたら、つぎは、わかりあうことだ。

まず、絵について。
どういうわけかアマゾンの写真ではピンク系の色になっているのだけれど、この本は表紙も中の背景も、ネープルス・イエロー(Webの色見本の色とは少しちがう。ベージュが少し入ったクリーム色という感じ。とても暖かな色だ)。絵の背景も、色指定ではなく、白い紙に透明水彩で均一に塗られている。細部は黒いコンテで描かれ、女の子や動物の部分はパステルで彩色されている。色数は少ない。女の子の肌のペール・オレンジ、髪の毛のレモン色、あとは動物に使われている茶色、そうして、紙の白が印象的に使われている。
以前に紹介した『もりのなか』でもそうなのだけれど、これだけの色と線で、これだけ豊かな世界を創造できるエッツの画力というのは、すごいものだなと思う。

話は非常に単純だ。
「わたし」は原っぱに遊びに行く。

「ばったが 一ぴき、くさの はに とまって、むちゅうで
あさごはんを たべていました。
「ばったさん、あそびましょ。」わたしが つかまえようとすると、
ばったは ぴょんと とんでいってしまいました」

女の子はこうして、かえるに会い、かめに会い、りすやかけすやうさぎやへびに会う。
そのたびに、「あそびましょ」と言うのだが、みんなにげていってしまう。

「だあれも だあれも あそんでくれないので、わたしは
ちちくさを とって、 たねを ぷっと ふきとばしました。
それから いけの そばの いしに こしかけて、みずすましが
みずに すじを ひくのを みていました」

静かにしている女の子のまわりに、さっき会った動物たちが、しだいに戻ってくる。

「わたしが そのまま おとを たてずに じっとしていると、だあれも
だあれも もう こわがってにげたりは しませんでした」

すると、子ジカがやってきて、女の子の方を見ている。
女の子はそれでもじっとしていると、シカはもっと近寄って、女の子の頬をなめる。

「ああ わたしは いま、とっても うれしいの。
とびきり うれしいの。
なぜって、みんなが みんなが わたしと あそんでくれるんですもの」

* * *


まず、女の子は原っぱに行く。
後ろに小さく家が見える。
絵で見る限りこの子は六歳ぐらいだろうか。
ともかく、女の子が「その子」である、というだけで、一方的に愛情が与えられていた、家から離れて、新しい秩序の中に入っていこうとするのだ。

そこで「他者」と新たに関係を築いていくためには、これまでのように一方的に愛情を与えられるのではなくて、お互いに愛情を与え合っていかなければならない。

ところが女の子には、まだそのことがよくわからない。
だから、これまでのように、まず自分の欲求を口に出してみる。

「わたしとあそんで」
そうして「他者」を自分の側につなぎ止めておこうとする。

ところが当然「他者」は、自分の欲求になど応えてはくれない。
「他者」というのは、「自分の思い」とは無関係な存在だからだ。

女の子は、さまざまな「他者」に出会って、自分の欲求を繰り返す。みんな逃げていく。
そこで「自分の思い」は、自分の中でこそ、万能であるけれど、一歩外へ出た瞬間に、まったく無力なものになっていく、ということを、思い知らされるのだ。

「原っぱ」には、自分の延長上である家とはちがう、「原っぱ」独自の秩序がある。その秩序の中で、「他者」と関係を築いていくためには、自分の側を秩序に合わせて、変えていかなければならない。

そこで、女の子は欲求を口に出し、態度に表すことをやめるのだ。
じっと息を殺して待つ。なにもしない。

実は、「他者」との関係を求めながら、なにもしないでいる、というのは、簡単なことではない。
「わたしを認めて」
「わたしを見て」
「わたしの話を聞いて」
「わたしを理解して」
こう言いながら近づいていけば、「他者」は自分の言うことを聞いてくれる、と思っている人が、あまりに多いような気がする。

自分の欲求に寄り添ってはくれない「他者」に、欲求を容れさせるために、声高にそれを言ったり、さまざまな戦略を用いたりすることと、自分を変えていくことは、根本的にちがうのだ。

女の子は、強引に捕まえるのでもなく、罠をしかけるのでもなく、餌をちらつかせるのでもなく、動物たちの秩序に合わせて自分を変えていく。自然に、自分が変わっていく。

すると、逃げていった動物たちが戻ってきてくれる。
それだけでなく、子ジカまでやってきてくれる。

ただ、現実にはこちらが自分を変えたところで、相手がそれを受け容れてくれるかどうかはわからない。行ってしまったカエルやウサギが戻ってきてくれるとは、限らないのだ。

だからこそ、女の子は「ああ わたしは いま、とってもうれしいの。とびきり うれしいの」と言って、ほんとうに幸せそうな顔をするのだ。

Pet Shop Boysの歌ではないのだけれど、いま、コミュニケーションというものは、かつてないほど簡単なものになっているように思われている。人と“知り合い”になることは、全然むずかしいことではないのだ。けれど、簡単に知り合いになって、それでどうするのだろう。「重い」関係を避けて、曖昧に、緩く繋がって、それでなんとなく暇つぶしをするように、淡い関係で空隙を埋めて、どうするのだろう。
それでこの女の子のように、「うれしい」ということができるのだろうか。

「他者」と関係を築いていくのは、簡単なことではない。
「自分の思い」は、自分の中でしか意味を持たない、「他者」はそれには応えてくれないかもしれない。
けれども、だからこそ、誤解しかできない「他者」との間に、奇跡のように橋がかかった瞬間というのが尊いものなのではないか。

「他者」とそうした深いコミュニケーションを求めていくことは、その大変さを引き受けてでも、必要なことだと思う。だってほんとうに、気持ちが通じた瞬間っていうのは「とびきりうれしい」ものだから。それほどうれしいことって、ほかにはないんじゃないだろうか。

(この項 終わり)