陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

石を投げないでください ~この話、したっけ~

2005-09-14 22:28:55 | weblog
――わたしがフェミニストにならないわけ――


 夏休み、ものすごくきれいな女の子と会う機会があった。

 たいがい、十八歳ぐらいの女の子というのは、肌なんかもけっこう脂ぎっているし、身体つきだって全体にずどんとした感じ、ほんとうにきれいになる前の段階という感じがして、全体に粗野で荒っぽい印象が否めない。こんなふうに考えてみると、大学受験がその年代にあるというのは、なかなか理にかなっているのではないか、と思ってしまう。

 ただその子は、一般的にいう美人の基準にあてはまるかどうかはよくわからないのだけれど、前髪を真ん中分けにしておでこを出していて、その生え際から額のなだらかなカーブがほんとうに見事というしかなくて、そこからこめかみ、頬を伝ってあごにおりていく線が、うっとりするくらいきれいだった。骨のかたちの美しさ、みたいなものがあるのだな、と、つくづく思ったものだった。

 その子がそこにいるだけでうれしくなってしまって、その週は、毎日その子の顔を見に仕事にいっていたようなものだった。その子の声は、顔ほどステキではなくて、話すことも書くことも、まぁふつうの、その年代らしいものだったのだけれど、そんなことはどうでもいい、ただその子の顔を見ているだけでその時間がずいぶん楽しいものになっていたのだった。

 わたしはきれいな女性が好きだ。電車に乗っていても、街中でも、きれいな女の人を見るとうれしくなってしまって、あまり失礼にならないように気を多少は遣いながら、それでもついつい、じーっと見てしまう。あきらかに好みのタイプの顔があって、「好きな男性のタイプはどういう感じ?」と聞かれたら、「タイプで恋愛するわけじゃないから、そんな質問には答えられない」とたいてい答えるくせに、女性の顔には好きなタイプがはっきりあったりする。

 映画でも、小津の何が好きかというと、実は原節子が好きだったりして、ヒッチコック作品に出てくるジョーン・フォンティーンとか、グレース・ケリーとか、彼女たちがどの場面でどんな表情をしていたか、相当細かく覚えているはずだ。

 こういうとき、見ているわたしの「目」というのは、おそらく女性という生まれつきの性別を離れたものになっているのだと思う。

 同じように、わたしはきれいな顔の男優にはちっとも惹かれないのだけれど、スコット・グレンとか、ニック・ノルティとか、『七人の侍』の宮口精二とか、やっぱり好きな人は何人かいて、そうした映画を観ているときは、画面に出てくるだけで幸せな気持ちになる。

 このとき、わたしの「目」は女性になっている。

 何が言いたいかというと、性差というのは、そんなに固定的なものなんだろうか、ということなのだ。

 たまに、男性から「女性としてこういう描き方はどう感じますか」みたいなことを聞かれて、困ってしまうことがある。困ってしまう(というか、そういうことを聞いてくる男性というのは、たいがい、自分はフェミニズムには理解があるのだ、ということを示したがっているケースが多くて、内心、「けっ」と思ってしまう、といったほうが正確なのかもしれないのだけれど)というのは、たとえ生まれつきの性別が女だからといって、「女性として」の意見が言えるわけではないからなのだ。わたしは「女性の代表選手」にはなれないし、なれるはずもないし、なりたくもない。

 本を読むとき、わたしは「女性として」は読まない。たとえば、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読むとき、わたしは語り手であるニック・キャラウェイの目を通してギャツビーを見、彼の胡散臭さを感じ、得体の知れない魅力に惹かれ、デイジーに対する思いに胸を打たれる。女性として、ギャツビーの魅力を感じるのではないのだ。

 逆にいうと、本は生まれつきの性差で読み方が変わってしまうのだろうか?

 もちろん、読み手は読み手の状況に応じてしか読めない、という事実は、歴然とある。たとえば、アフリカに行ったことのないわたしが思い描くンゴング丘陵は、アイザック・ディネーセンが過ごしたンゴング丘陵とはずいぶんちがっているだろう。それでも

 この風景、そしてその中での暮しの一番の特色は空気である。アフリカの高原ですごしたことのある人なら、あとで思いかえしてみると、しばらくの時を空の高みで生きていた気がして、おどろきに打たれるにちがいない。空は淡い青からすみれ色よりも濃くなることはほとんどなく、そこには巨大な、重量のない、絶えずかたちを変える雲がゆたかにそびえたち、ただよっていた。だがここの空は青い力を内に秘めていて、近くの丘や森を鮮やかな濃い青に染めあげて見せる。日ざかり、大気は炎と燃えたち、いきいきと大地をおおう。そして流れる水のようにきらめき、波うち、輝いて、あらゆるものを写しだし、二重の像をつくり、大きな蜃気楼を産みだす。
(アイザック・ディネーセン『アフリカの日々』横山貞子訳 晶文社)


この部分を読めば、わたしなりにアフリカの高原の空を思い描くことができる。それはそれで、随時更新されつづける、わたしにとってのアフリカの空なのだ。

 同様に、作者の導きによって、わたしたちはみずからの持って生まれた性を乗り越えることが可能ではないかと思うのだ。そこで、持って生まれた性差に拘泥する必要があるのだろうか、という疑問がある。

映画の編集者が、首を回している女性のショットから、通りの向かいに並ぶ店の中距離ショットにつなぐとき、我々はその女性のまなざしの動きをたどっている。みずからの意志でその動きに注意を向け、彼女とともに見ているのだ。モンタージュを理解するということは、編集者の基準に従って、カットを逆方向に組み立て直すということだ。見る行為として、モンタージュを動的に作り出すということだ。……我々は写真の向こうを漁ってまわる。「ここにどんな世界が保存されているのか?」と問うのではなく、「私はこれを保存した人間とどう違うのか、ここに保存された人間たちとは?」と問いながら。他人を理解することは、おのれの自己像を修正することと不可分だ。ふたつのプロセスはたがいに呑み込みあう。写真が我々を惹きつけるのは、何よりもまず、写真が我々を見返すからだ。
(リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』柴田元幸訳 みすず書房)


ここでパワーズがいうように、「見る」(あるいは「読む」)行為というのは、あくまで動的なものである。つまり、女性、日本人、黄色人種、といった固定されたものとしての「自分」があるわけではなく、あるいは読まれる対象、見られる対象として固定された「作品」あるいは「見られる人」があるわけではない、ということだ。

 そこでは自分の性的アイデンティティに固執することに意味はないと思うのだ。

 実際、日常生活において、女性・男性という性差に、否応なく縛られる場面は少なくない。その一方で、本を読んだり、映画を観たり、あるいは美しい女性を見たり、カッコイイ男性を見たり、という場面では、意外なほど自由に、両性の間を行き来しているのではないだろうか。

 と、いうことで。わたしは「女性のアイデンティティを高く掲げて」作品を読むという読み方はしないのです。

(この項おわり)