陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

絵本のたのしみ 2.

2005-09-16 22:21:46 | 
2.子供の自分に会う

もりのなか

「おとうさんだって、ほかに なにも できなくても いいから、おまえのように わらってみたいよ」(おとうさん)

マリー・ホール・エッツ
『もりのなか』
『またもりへ』(ともに福音館書店)


これは小さいときに持っていた本。

持っていたのは覚えているのだけれど、とりわけ愛着があった記憶はない。

横長の本の絵は、目の粗い画用紙に黒いコンテで描いただけの、きわめて地味なものだし、ストーリーも、主人公が冒険するわけでも、おもしろいことを経験するわけでもない。

ただ、おとなになってこの本を、ああそうだ、持っていたっけ、と本屋で開いたとき、衝撃を受けた。
一種異様なまでの静けさと、森の奥の闇の暖かな深さを感じたのだ。
とにかく、すごい絵だった。

話そのものは、ごくシンプルなものだ。

森の中へ散歩にいった男の子が、いろんな動物に会う。
動物はつぎつぎについてきて、みんなで歩いていく。
みんなでかくれんぼをしているときに、お父さんが迎えに来て、動物たちはいなくなってしまう。
「みんな まっててね」と男の子は森の中に声をかけて、お父さんに肩車されて帰っていく。

この話には続編がある。
『またもりへ』がそれだ。

こちらでは、男の子がさわがしい森の中へ入っていくと、動物たちが「とくいなことのうでくらべ」をするから、待っていたのだ、という。
動物たちがつぎつぎにいろんなことをしたあと、男の子はさかだちして、鼻でピーナッツをつまもうとして、おかしくなって笑ってしまう。
すると、動物たちはいっせいに立ち上がって、目を丸くして、「これはいい」と叫ぶ。
鳥も獣も、森の動物はだれも笑えないもの。

ここでも迎えに来たお父さんと入れ替わるようにして、動物たちは姿を消す。
笑っていた男の子に、「何がそんなにおかしいんだい?」と理由を聞いたおとうさんは、上で紹介したように、「おとうさんだって、ほかに なにも できなくても いいから、おまえのように わらってみたいよ」といって、ふたりは手をつないで帰っていく。

ただ、このふたつの話を比べてみると、いくつか重要なちがいがあることに気がつく。

まず、象は、『もりのなか』では二匹とも子供だったのに、こんどは一匹は年寄り、一匹は子供になっている。ライオンも、くまも、年取った感じだ。うさぎ、こうのとり、カンガルーがいなくなり、かば、へび、あひる、ねずみ、オウムが加わっている。

そして、なによりも、おとうさんが『またもりへ』では、若くなっているのだ。同じように口ひげを生やしているのだけれど、『もり』のほうが、前髪が薄いし、全体に老けているのだ。

『もり』では、画面奥の木立の間から、おとうさんが姿を現す。そして肩車された男の子とお父さんは、そちらに向かって後ろ姿になり、最後のページではふたりが去ったあとの木立ちが描かれるのだけれど、ふたりが行った先は暗く、なんだか森の奥へ向かったように思える(男の子がいたのは、森の反対側で、家に帰るためには、いったん奥へ向かわなければならないのかもしれないけれど)。

『また』では、おとうさんはいきなり横向きで、男の子の傍らに立っている。そうして、ふたりが手をつないで帰って行く先は、やはり木立が続いているのだけれど、心なしか『もり』より明るいような気がする。

男の子は、どちらも紙のぼうしをかぶって、ラッパを持っているのだけれど、同じ子かどうかはわからない。
むしろ、上にあげたことを考えると、ちがう子ではないか、と考えたほうがよいのかもしれない。

ちがう子、つまり、『もりのなか』の子が、『またもりへ』でおとうさんになって迎えに来たのではないだろうか、ということなのだ。

そう考えると、
「おとうさんだって、ほかに なにも できなくても いいから、おまえのように わらってみたいよ」
ということばは、かつて、同じように、動物たちを従えて、森を散歩していた記憶が遠くに響いているのではないか。

ここでの森の中とは、「子供時代」そのものだ。
ライオンがいて、ぞうがいて、カンガルーがいて、うさぎもいる。
そこでは生息区分もなければ、食う食われるの関係もない。
歩いていけばテーブルがあって、そこにアイスクリームやケーキがある。
そこでみんなで遊んでいると、おとうさんが呼びに来る。

こう考えると、おとうさんに肩車されて帰っていく先が暗いのも、納得がいく。それは、そこで「子供時代」の環が閉じられるからなのだ。

そう思って読んでいくと、『またもりへ』が、まったく別の物語として読むことができることに気がつく。
つまり、「おとうさん」は、子供を迎えに行くときに、もういちど森に帰ることができる、ということだ。
そのときの「おとうさん」は、もう「子供」と同じように笑うことはできない。ほかになにもできなくてもいからそんなふうに笑ってみたい。いったんは閉じられた環に、ふたたび戻ってくることはできたけれど、それは子供としてではない「おとうさん」のことばは、子供時代を過ぎてしまったわたしの内から発せられた言葉のようでもある。

この文章を書くために本を見たら、ガン末期の夫と暮らす日々に制作が進められ、夫の死後出版されたことがわかった(参照『絵本のよろこび』松居直 NHK出版)。
『もりのなか』の異様なほどの静けさと緊張感、そして、闇に向かって去っていく後ろ姿を見ると、確かにそうしたことが影響しているのかもしれない。

けれどもつぎの『またもりへ』は、「わいわい がやがや いう こえが きこえてきました」という言葉から始まるように、そうして、男の子が笑い転げている様子に(ほんとうにこの笑顔がかわいい)、最後のふたりが帰っていく先の、森の明るさに、いったんは閉じられた環が、また開くことが暗示されているように思えてならない。

わたしたちは、同じ「時」を、二度生きることはできない。
けれども、その「時」は、決して流れ去っていくのではない、と、この本を見ていると思うのだ。

わたしたちは、もう子供の時のように笑うことはできない。
それでも、過去、自分がそんなふうに笑っていたのだという記憶は、わたしたちの層のなかに刻まれているのだ、と。