(承前)
だが、だれもその場から動こうとはしないでいると、前方の暗闇からかすかな音が聞こえてきた。一同は車から下りると、息づまるような闇のなかで、緊張しながら待った。ちがう音が聞こえてくる。殴りつける音、ヒューッと息を吐く音、マクレンドンの押さえた罵り声。身動きできない一瞬ののち、みなは前方に駆けだしていた。なにものかに追い立てられでもしているかのように、よろめきながらひとかたまりになって走る。「やっちまえよ、やっちまうんだ」囁く声がする。マクレンドンは乱暴に一同を押し戻した。
「ここじゃない」マクレンドンがいった。「車に乗せるんだ」「やっちまえ、殺してやるんだ」声がつぶやく。黒人は車まで引きずられていった。理髪師は車の脇で待っていた。おれは汗をかいている、そのうち吐きそうになってくるんだ、と感じていた。
「いったいどうしたっていうんです」黒人が言う。「あたしは何もしちゃいません、神に誓って。ミスター・ジョン」手錠を差し出す者があった。一同はあたかも黒人が柱で、自分たちがそのまわりで忙しく働いてでもいるかのように、お互いがやっていることの邪魔をしながら、押し黙ったまま、必死になって動き回った。黒人はなずがままに手錠をはめられ、ぼんやりと浮かび上がる顔から顔へ、きょろきょろと視線を泳がせている。「みなさんは、どちらさんなんでしょうか」そういって頭を前に突き出し、顔をのぞき込もうとしたので、まわりの者にはその息がかかり、汗くさい体臭が鼻をついた。名前をひとつかふたつ、口にした。
「いったいあたしがなにをしたっていうんです、ミスター・ジョン」
マクレンドンは車のドアをぐっと引いて、「乗れ」と命令した。
黒人は動こうとしない。「みなさんは、あたしをどうなさるおつもりなんです、ミスター・ジョン。なんにもやっちゃいません。白人のみなさん、旦那がた、あたしはなにもしてないです、神かけて、なんにも」そうして、ちがう名前を呼んだ。
「とっとと乗るんだ」マクレンドンはなおもいった。黒人をなぐる。ほかの者も、かわいた息をひゅうひゅうと喘がせながら、手当たりしだいになぐりつけると、彼のほうもよろめきながらも罵り声をあげ、手錠をはめられたままの両手を顔めがけてふりまわし、理髪師の口をしたたかに打ちすえたので、理髪師もなぐりかえす。
「やつを乗せるんだ」マクレンドンがいった。みなで車の中へ押し込む。暴れるのをやめた黒人は車に乗り、おのおのが席につくまで静かに坐っていた。理髪師と元兵士にはさまれて、身体が触れることのないよう、できるだけ身を縮めて腰かけ、目だけは忙しく顔から顔へと走らせ続けている。ブッチは車のステップに乗った。車が動き出す。理髪師はハンカチを口に当てた。
「どうしたんだ、ホーク」元兵士が聞いた。
「なんでもない」と理髪師は答える。車はふたたび本道に戻り、街とは反対の方角に進む。後続の車は砂ぼこりのなかに見えなくなってしまっていた。車はスピードをあげて走り続ける。町の一番端にある家も、通り過ぎてしまった。
「畜生、こいつぁ臭いぜ」元兵士がいった。
「おれたちが治してやろうぜ」マクレンドンの隣の席にいるセールスマンがいった。ステップに乗っているブッチは、おしよせる熱風に向かって悪態をついている。理髪師は急に身を乗り出すと、マクレンドンの腕にふれた。
「ジョン、おろしてもらえないか」
「飛び降りろよ、黒ん坊好きめ」マクレンドンは振り返りもしない。スピードは上げたままだ。うしろから、姿の見えない二番目の車のヘッドライトばかりが、砂ぼこりをまぶしく照らし出していた。やがてマクレンドンは細い道に入っていく。普段使ってないために、でこぼこになった道だ。その先にあるのは、もう使っていない煉瓦窯、赤みを帯びた盛り土が並び、雑草や蔓草に覆われた底が抜けた大窯がうち捨てられた場所だった。後に放牧場として使われたこともあったが、それもラバが一頭、いなくなる日までのことだった。牧場種は長い棒で大窯をいくつもつついてみたが、その底さえ見つけられなかった。
「ジョン」理髪師がいった。
「飛び降りろっていったろ」マクレンドンはでこぼこの道を飛ばし続ける。理髪師の横で、黒人がいった。
「ミスター・ヘンリー」
理髪師は坐ったまま身を乗り出した。狭いトンネルのなかのような道が、迫ってきては過ぎ去る。走り去ってゆく景色は、死に絶えた溶鉱炉から吹き付ける爆風のようなものだ。冷たく、完全に死滅している。車は轍から轍へと弾みながら進んだ。
「ミスター・ヘンリー」黒人がもういちどいった。
理髪師はドアの取っ手を狂ったように引っ張った。
「気をつけろ、危ないじゃないか」元兵士がいったが、そのときには理髪師はドアを蹴り開け、ステップの上に身を移していた。元兵士は黒人の上にかぶさるようにして、理髪師の身体をつかもうとしたが、理髪師はすでに身を躍らせていた。車はスピードをゆるめることなく走る。
(この項つづく)
おまけ
-----今日のできごと-------
学生時代の英語の先生にばったりと会って駅で立ち話(わたしの文章にときどき出てくるアイルランド人とは別人)。
二年ぶりぐらいに会ったのに、いきなり"I've been thinking of you."と言われたので、何事かと思えば、翻訳をしてほしいのだという。
なんでもその先生、小説を書いて日本での出版を希望しているのだそうだ。出版社に持ち込みたいのだが、日本語でないと、と断られたらしい。翻訳者を依頼しようにも金がない。うまく出版の運びになった暁には何割かの金を払うという条件で、翻訳をしてもらえないか、という。eroticな描写があるため、学生にも頼みにくいんだとか。とにかく原稿を見てほしいので、そのうち郵送する、と言われたのだが、おそらくボランティアに終わる可能性の高いA4用紙70枚の小説のことを考えると、気が重い。唯一の楽しみはeroticだとかいう話(笑)。ただし、PlayboyとかPenthouseに載せるようなものでは全然ないんだそうです。
それにしてもひさしぶりに英語で話そうと思ったら、舌噛むわ、簡単な単語が出てこないわ、で、大汗かいた。最低だったのは、「三時」というのを、何を考えていたのか"third o'clock"と言ってしまったらしく(自分では気がつかなかった)、"You have three watches?" と聞き返されたこと(おまけにその先生、腕を出して、架空の腕時計を指さしながら、"first, second, third?"なんて言われてしまった)。自分がそんな間違いをしうるということに驚いた。読んでても聞いてても、話せない。ほんと、こりゃ別物だわ。
ところで近頃妙に「ちょうど**さんのことを考えていたところ」という人によく会う。今週になって三人目、しかも出る話は金にはならない仕事(泣)の依頼ばかり。どうやらわたしのことを思い出すのはそういうひとだけらしい……。
ま、求められてるうちが花、ということで。
だが、だれもその場から動こうとはしないでいると、前方の暗闇からかすかな音が聞こえてきた。一同は車から下りると、息づまるような闇のなかで、緊張しながら待った。ちがう音が聞こえてくる。殴りつける音、ヒューッと息を吐く音、マクレンドンの押さえた罵り声。身動きできない一瞬ののち、みなは前方に駆けだしていた。なにものかに追い立てられでもしているかのように、よろめきながらひとかたまりになって走る。「やっちまえよ、やっちまうんだ」囁く声がする。マクレンドンは乱暴に一同を押し戻した。
「ここじゃない」マクレンドンがいった。「車に乗せるんだ」「やっちまえ、殺してやるんだ」声がつぶやく。黒人は車まで引きずられていった。理髪師は車の脇で待っていた。おれは汗をかいている、そのうち吐きそうになってくるんだ、と感じていた。
「いったいどうしたっていうんです」黒人が言う。「あたしは何もしちゃいません、神に誓って。ミスター・ジョン」手錠を差し出す者があった。一同はあたかも黒人が柱で、自分たちがそのまわりで忙しく働いてでもいるかのように、お互いがやっていることの邪魔をしながら、押し黙ったまま、必死になって動き回った。黒人はなずがままに手錠をはめられ、ぼんやりと浮かび上がる顔から顔へ、きょろきょろと視線を泳がせている。「みなさんは、どちらさんなんでしょうか」そういって頭を前に突き出し、顔をのぞき込もうとしたので、まわりの者にはその息がかかり、汗くさい体臭が鼻をついた。名前をひとつかふたつ、口にした。
「いったいあたしがなにをしたっていうんです、ミスター・ジョン」
マクレンドンは車のドアをぐっと引いて、「乗れ」と命令した。
黒人は動こうとしない。「みなさんは、あたしをどうなさるおつもりなんです、ミスター・ジョン。なんにもやっちゃいません。白人のみなさん、旦那がた、あたしはなにもしてないです、神かけて、なんにも」そうして、ちがう名前を呼んだ。
「とっとと乗るんだ」マクレンドンはなおもいった。黒人をなぐる。ほかの者も、かわいた息をひゅうひゅうと喘がせながら、手当たりしだいになぐりつけると、彼のほうもよろめきながらも罵り声をあげ、手錠をはめられたままの両手を顔めがけてふりまわし、理髪師の口をしたたかに打ちすえたので、理髪師もなぐりかえす。
「やつを乗せるんだ」マクレンドンがいった。みなで車の中へ押し込む。暴れるのをやめた黒人は車に乗り、おのおのが席につくまで静かに坐っていた。理髪師と元兵士にはさまれて、身体が触れることのないよう、できるだけ身を縮めて腰かけ、目だけは忙しく顔から顔へと走らせ続けている。ブッチは車のステップに乗った。車が動き出す。理髪師はハンカチを口に当てた。
「どうしたんだ、ホーク」元兵士が聞いた。
「なんでもない」と理髪師は答える。車はふたたび本道に戻り、街とは反対の方角に進む。後続の車は砂ぼこりのなかに見えなくなってしまっていた。車はスピードをあげて走り続ける。町の一番端にある家も、通り過ぎてしまった。
「畜生、こいつぁ臭いぜ」元兵士がいった。
「おれたちが治してやろうぜ」マクレンドンの隣の席にいるセールスマンがいった。ステップに乗っているブッチは、おしよせる熱風に向かって悪態をついている。理髪師は急に身を乗り出すと、マクレンドンの腕にふれた。
「ジョン、おろしてもらえないか」
「飛び降りろよ、黒ん坊好きめ」マクレンドンは振り返りもしない。スピードは上げたままだ。うしろから、姿の見えない二番目の車のヘッドライトばかりが、砂ぼこりをまぶしく照らし出していた。やがてマクレンドンは細い道に入っていく。普段使ってないために、でこぼこになった道だ。その先にあるのは、もう使っていない煉瓦窯、赤みを帯びた盛り土が並び、雑草や蔓草に覆われた底が抜けた大窯がうち捨てられた場所だった。後に放牧場として使われたこともあったが、それもラバが一頭、いなくなる日までのことだった。牧場種は長い棒で大窯をいくつもつついてみたが、その底さえ見つけられなかった。
「ジョン」理髪師がいった。
「飛び降りろっていったろ」マクレンドンはでこぼこの道を飛ばし続ける。理髪師の横で、黒人がいった。
「ミスター・ヘンリー」
理髪師は坐ったまま身を乗り出した。狭いトンネルのなかのような道が、迫ってきては過ぎ去る。走り去ってゆく景色は、死に絶えた溶鉱炉から吹き付ける爆風のようなものだ。冷たく、完全に死滅している。車は轍から轍へと弾みながら進んだ。
「ミスター・ヘンリー」黒人がもういちどいった。
理髪師はドアの取っ手を狂ったように引っ張った。
「気をつけろ、危ないじゃないか」元兵士がいったが、そのときには理髪師はドアを蹴り開け、ステップの上に身を移していた。元兵士は黒人の上にかぶさるようにして、理髪師の身体をつかもうとしたが、理髪師はすでに身を躍らせていた。車はスピードをゆるめることなく走る。
(この項つづく)
おまけ
-----今日のできごと-------
学生時代の英語の先生にばったりと会って駅で立ち話(わたしの文章にときどき出てくるアイルランド人とは別人)。
二年ぶりぐらいに会ったのに、いきなり"I've been thinking of you."と言われたので、何事かと思えば、翻訳をしてほしいのだという。
なんでもその先生、小説を書いて日本での出版を希望しているのだそうだ。出版社に持ち込みたいのだが、日本語でないと、と断られたらしい。翻訳者を依頼しようにも金がない。うまく出版の運びになった暁には何割かの金を払うという条件で、翻訳をしてもらえないか、という。eroticな描写があるため、学生にも頼みにくいんだとか。とにかく原稿を見てほしいので、そのうち郵送する、と言われたのだが、おそらくボランティアに終わる可能性の高いA4用紙70枚の小説のことを考えると、気が重い。唯一の楽しみはeroticだとかいう話(笑)。ただし、PlayboyとかPenthouseに載せるようなものでは全然ないんだそうです。
それにしてもひさしぶりに英語で話そうと思ったら、舌噛むわ、簡単な単語が出てこないわ、で、大汗かいた。最低だったのは、「三時」というのを、何を考えていたのか"third o'clock"と言ってしまったらしく(自分では気がつかなかった)、"You have three watches?" と聞き返されたこと(おまけにその先生、腕を出して、架空の腕時計を指さしながら、"first, second, third?"なんて言われてしまった)。自分がそんな間違いをしうるということに驚いた。読んでても聞いてても、話せない。ほんと、こりゃ別物だわ。
ところで近頃妙に「ちょうど**さんのことを考えていたところ」という人によく会う。今週になって三人目、しかも出る話は金にはならない仕事(泣)の依頼ばかり。どうやらわたしのことを思い出すのはそういうひとだけらしい……。
ま、求められてるうちが花、ということで。