陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

絵本のたのしみ 3.

2005-09-19 18:49:21 | 
3.絵を見る、ひたすら絵を見る

 やはり絵本がほかの本とちがうのは、あたりまえのことだけれど、絵がある、ということだ。というわけで、絵がすごい! という本を。

もちろん、マリー・ホールーエッツにしても、ヴァージニア・リー・バートンにしても、絵がすばらしい絵本作家はたくさんいるのだけれど、なんといってもわたしが好きなのは
『いっしょにきしゃにのせてって!』(amazonに画像がなかったので、書名をクリックしてください)。

もちろんこの表紙の絵はターナー「雨・蒸気・スピード」を踏まえたものである。

画面の奥から走ってくる機関車の角度も、鉄橋を渡りつつあるところも、画面の左側に川があって、舟が浮かんでいるところも。
おもしろいのは、このターナーの画像をよくよく見ていると、バーニンガムの表紙のように、白い犬が横を向いて立っているような気がしてくる。バーニンガムの犬(実はパジャマ入れ)が、ターナーの絵の中に見えてくるのだ(このターナーは拡大できるので、どうか拡大して蒸気機関車の鼻先を見てください)。

作者のジョン・バーニンガムはイギリスの絵本作家。

なみにきをつけて、シャーリー

ガンピーさんのふなあそび


『ガンピーさんのふなあそび』のほうは、いかにもイギリスの田園地帯、といったのどかで牧歌的な話なのだけれど、『なみにきをつけて、シャーリー』は痛快、というか、なんともかとも。

見開き左に書いてある文章は、すべておかあさんのことば。
「みずが つめたくて とても およげないわよ、シャーリー」
こちらの絵は、ペンと水彩色鉛筆で描かれていて、全体に淡い。

ところが右側の、ガッシュを重ね塗りしたくっきりとした色合いのページでは、シャーリーの行動が描かれていく。
左側の
「いすをくみたてて ここに いますからね」
「きをつけて、あたらしいくつを きたないタールで よごしちゃだめよ」
浜辺に坐りこんで、小言ばかりいうお母さんとは無関係に、
右ページでシャーリーは、舟に乗って沖合に出、海賊船に乗り込み、海賊たちと戦い、海賊の旗と宝の地図を奪って、宝まで掘り出すのだ。

それほどの活躍をしたシャーリーも、最後のページでは、また淡い水彩色鉛筆の世界に戻って、一緒に帰ってしまう(ただ、来るときに一緒にいた犬がいない。犬はどこへ行ってしまったんだろう?)。すべてはシャーリーの想像のなか……(ここがちょっと不満なところ。たとえばモーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』では、行ったときは三日月だった月が、帰ったときには満月になっていて、それに気がついたとき、わたしは、おおっ、と思ってしまった)。

ともかく、大人はいかに子供のことを見ていないか、ということが、大人の側から見ると残酷なまでに描いてあって、そのぶん、ちょっと反抗心が芽生え始めた子供から見ると痛快な本だった。本の裏に「四歳から」と書いてあるのだけれど、さすがに四歳にはわからないと思う。

さて、『いっしょにきしゃにのせてって!』

最初に『なみにきをつけて…』のおかあさんによく似たおかあさんが部屋に入ってきて
「いつまで きしゃで あそんでいるつもり?」と、部屋で遊んでいる男の子のところにやってくる。例によってお母さんが言うのは、お小言。

ここではまっしろい背景、描き込んであるのは、簡単なドアと、男の子の部屋のようす。ここでも水彩色鉛筆の、淡い色だ。

 この子が遊んでいる模型の蒸気機関車、たしかに表紙や内表紙を走っている蒸気機関車と同じものだ。ああ、これがあの機関車なんだな、と思う。ただ、おもちゃといっても相当に立派な駅と、線路もついていて、この線路はページの端から端まで渡っている。

おかあさんはいぬのパジャマ入れを渡してくれて、男の子はそのパジャマ入れを抱いて、眠りにつく、というか、とにかく部屋は暗くなる。
と、つぎのページで、いつのまにか部屋は明るくなっていて、ベッドの足下、おもちゃの蒸気機関車が煙を吐いて走り出している。機関室に乗っているのは、もちろん男の子と、元パジャマ入れの犬。

そうして、例のバーニンガムのガッシュの絵が現れる。満月の月明かりの中、蒸気機関車は黒い煙を吐きながら、都会の明るい夜空から離れていくのだ。

ここから『なみにきをつけて…』ほどの規則性はないのだけれど、ガッシュの絵と、白い背景の色鉛筆の絵が、交互に現れていく。

そうしてさまざまな風景と光のなかを、蒸気機関車は疾走する。

「きりが たちこめてきたぞ。
おばけごっこができるぞ」

おばけごっこから戻ってくると、ぞうが乗ろうとしている。

「おーい! すぐに きしゃから おりろ」

そうなのだ。子供をなめちゃいけない。『なみにきをつけて…』のおかあさんも、「どうして あのこたちの なかまに はいらないの? いっしょに あそべばいいのに……」とトンチンカンなことを言っているのだが、同じ子供だからといって、見ず知らずの子と、いきなり遊べるはずがない。大人がいきなり見ず知らずのアカの他人と「やあやあ」なんて言えないのと同じで、子供にだって適切な距離というものがあるのだ。小さいとき、いきなり頭を撫でてくる大人がどれほどイヤだったか。

ところがぞうは、「きみの きしゃに ぼくも のせてってよ。ぼくのきばをきりおとして ぞうげにするひとがいる。それでは ぼくたちは いきていけない」

そうなんです。この本は、確かに環境保護を訴えてもいる。それがなかったら、ほんとうにいい本なんだけど(わたしは主題がはっきりしていて、しかも「正しい」ことを主張しようとしている絵本というのは、暴力だと思っているので)。それでも、もちろんバーニンガムだから、一筋縄ではいかないのだけれど。

とにかくぞうを乗せて汽車は走り、下りてみんなで遊び、するとつぎにあざらしが、それからつるが、とらが、しろくまが、順番に乗ろうとしてくる。そのたびごとに、みんなは
「おーい! すぐに きしゃから おりろ」(さっき乗せてもらったばかりのやつも、大きい顔をしてそう言う)と指さし、あとからやってきた動物たちは、自分が人間からどれほどひどい目に遭っているか話して、乗せてもらうのだ。

その間に何度も日は昇り、晴れたり、風が吹いたり、雨が降ったり、雪が降ったりする。

「もどらなくちゃ。あさに なったら ぼくは がっこうに いかなくちゃいけないんだ」

そうして絵本はこのなかでも、もっとも迫力のある絵のページになる。
蒸気機関車が、日が昇る直前、そらが金色に染まり、海にその光が反射する中を、疾走していくのだ。いくつもの煙突からは、煙が立ちのぼり、蒸気機関車も煙を吐いて走っていくのだが、ここで気になることがひとつ。蒸気機関車の煙だけ、たなびいていく方向が逆だ。

これはどういうことなのだろう?
たとえ風向きが汽車の後ろから前だったとしても、走っている蒸気機関車の煙は、かならず先頭から後ろへ流れていくものではないか?
おまけに工場の煙突の煙は、蒸気機関車の先頭から後ろのに向けての方角にたなびいているのだ。
これは風ではない。

どういうことなんだろう、と1ページ戻ってみる。

なんと、男の子が帰ることを決心したそのページでは、白い背景のなか、走り出した蒸気機関車の煙は、どういうわけか進行方向と逆向き、後ろから前へ前へと流れている。

どうやらこの煙は、男の子の意識を先取りしているようなのだ。

つぎは、また白いページ、男の子はベッドで寝ている。

「さっさと おきなさい。 ちこく するわよ」

なんだ、夢だったのか。
ところがおかあさんはつづけてヘンなことを言う。

「うちのなかが どうぶつで いっぱいよ。
げんかんに ぞうが、
おふろのなかに あざらしが
せんたくもののなかに つるが
かいだんに とらが
れいぞうこのそばに しろくまが いるわ。
いったい どうなってるの?」

そういうおかあさんの顔は、確かに少しにっこりしている。
男の子に抱かれた犬のパジャマ入れ、寝るときはぬいぐるみだったのに、ここでは男の子と一緒に、おかあさんを見上げているようだ。
ベッドの足下を見ると、蒸気機関車の煙突から、少しだけ、煙が上っている……。

これまでの絵本の「文法」では、動物たちは大人には見えなかったはずなのに。
ほんとうに、動物たちが戻っていけないほど、そういう世界は破壊されてしまった、ということなのだろうか。じゃ、このあと、どうなるんだろう。おかあさんは、なんで平気な顔をしてるんだろう。

絵本の楽しみ、というのは、結局は、細かいところを見つけて、どこまで想像をふくらませながら読めるか、につきるのではないのか、と思う。

朝起きて、階段にトラがいたら楽しいだろうなぁ。
シロクマは、冷蔵庫の中には入れなかったらしい。

だけど、ほんとに本屋さんに行ったら、この本、立ち読みでいいから、見てみてください。
夜明け前を走る蒸気機関車、ほんとにすごいよ。

(この項、つづく)