陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

乾いた九月 ウィリアム・フォークナー 最終回

2005-09-11 21:20:42 | 翻訳
(承前)

 娘たちは映画館についた。そこはまるでミニチュアのおとぎの国のよう、ロビーは明るく照らされ、生が怖ろしくも美しい突然変異を遂げた瞬間をとらえた色つきのリトグラフがあった。彼女の唇はひくつき始める。暗くなって映画が始まってしまえば大丈夫、笑いたい気持ちがあっというまにしぼんでしまわないように、引き留めておくことだってできるわ。だから彼女は、ふり返る顔や、さざなみのような驚きの声のあいだを縫って急ぎ、四人はいつもの席に腰をおろした。そこからは銀色の光を背に、通路と、若い男女がふたり連れで入ってくるのがよく見える。

 明かりが消えた。スクリーンが銀色に輝くと、すぐに人生の幕が開き、美しく情熱的で悲しい物語が始まった。そのときになっても、若いカップルたちは、薄暗がりの中を、香水の匂いをさせ、ささやき声を交わしながら入ってくる。一対の後ろ姿の影は繊細で美しく、たおやかでいきいきとした身体はどこかぎこちなく、神々しいほど若さにあふれているのだった。彼らの向こうでは、銀色の夢が、いつしかつぎつぎと積み重なっていた。彼女は笑い始めた。抑えようとすればするほど、いっそう笑い声は大きくなる。頭がいくつもふり返る。なおも笑い続ける彼女を、仲間たちは立ち上がらせると、外へ連れ出したが、歩道脇に立っても、甲高い笑い声は収まらず、仲間たちは手を貸してなんとか彼女をタクシーに乗せてやったのだった。

 ピンクのドレスや薄い下着、ストッキングを脱がせ、ベッドに寝かせると、氷を砕いて額を冷やしてやり、医者を呼ぶ。医者の居場所がわからなかったので、ほかの娘たちは、叫びだそうとする彼女をあやしたり、氷を取り替えたり、うちわであおいでやったりと世話をしたのだった。替えたばかりの氷が冷たい間は、彼女も笑うのをやめておとなしく横になり、ちょっと呻くぐらいだった。だがじきにまた笑いの発作が起こって、金切り声をあげ始めるのだった。

「シィィィィ! シィィィィ!」娘たちはそういいながら、氷嚢を交換し、髪をなでてやっては白髪を見つけた。

「かわいそうなひと」娘たちはそう言い合う。「ほんとに何かあったんだと思う?」目を暗く輝かせ、声を忍ばせて、夢中になってそう言い合う。 

「シィィィィ! かわいそうなひと。かわいそうなミニー」

V


 夜中、マクレンドンは車で彼のこぎれいでま新しい家に戻っていった。手入れがいきとどいた新品の鳥籠のような家で、また鳥籠のように小さく、緑と白に塗ってある。車をロックし、階段をあがって中に入った。妻が電気スタンドのかたわらの椅子から立ち上がった。マクレンドンは歩を止めてにらみつけたので、妻は目を伏せた。

「何時だと思ってるんだ」手を上げて指さす。マクレンドンの前に立つ妻は、雑誌を両手でにぎりしめ、うなだれた。その顔は青ざめ、緊張し、疲労の色が濃い。
「おれの帰りを待って、こんな時間まで起きてちゃいけないといっただろう」

「ジョン……」雑誌を下におろす。マクレンドンは爪先立ちになって、顔から汗をしたたらせながら妻をにらみつけた。

「おれはそう言わなかったか」妻のほうに近寄る。彼女は顔を上げた。マクレンドンはその肩をつかむ。されるがままになりながらも、夫の顔からは目を離さない。

「やめて、ジョン。わたし、眠れなかったの。この暑さですもの。それだけじゃない、何かよくわからないけれど。やめて、ジョン、痛いわ……」

「おれは言わなかったか」マクレンドンは手を離すと殴り飛ばした。椅子に倒れ込んだ妻は、横たわったまま、部屋をでていく夫を静かに見送った。

 シャツを引きはがすようにしながら、マクレンドンは家の中を通り抜け、網戸を張った暗い裏口に出て、シャツで頭や胸や背中の汗をぬぐい、そのまま投げ捨てた。後ろのポケットからピストルを引き抜き、ベッドサイドのテーブルにおく。ベッドに腰かけて靴をぬぎ、立ち上がってズボンを脱いだ。それだけでまた汗まみれになっている。立ち尽くして、気が狂ったようにシャツを探す。やっと見つけてそれで身体をぬぐうと、ほこりまみれの網戸にその身体を押しつけたまま、喘いだ。動くものも、物音もなく、虫の鳴き声さえ聞こえない。冷たい月と、まばたきもしない星の下で、暗い世界は傷ついて横たわっているようだった。

The End


※近日中に手を入れて、サイトのほうに全文アップします。

おまけ
-----今日のできごと-------

 帰りがけ、ビルの一階、蛍光灯の白々とした光が車道のほうまで明るく照らしているところがあった。選挙事務所だ。自転車で前を通ったときにひょいとのぞいたら、パイプ椅子におじさんたちが疲れ切ったように腰をおろしていたのが見えた。四、五人しかいなかったのだけれど、どの人も緊張して毛穴の詰まったような表情をしていたのが印象的だった。開票が始まったら人も続々と集まってくるのだろうけれど、その直前の凪のような時間だったのだと思う。なんとなく、選挙のもうひとつの側面を見たような気がした。

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