陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ 買い物ブギ その3.

2005-09-28 22:32:18 | weblog
3.花を買う

ミセス・ダロウェイは、お花はわたしが買ってくるわ、と言った。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』 丹治愛訳 集英社)



 ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』はこの言葉から始まる。

 ミセス・ダロウェイではないけれど、花を買うというのは、わたしにとって特別な行為だ。
 まず第一に、花は安いものではない。本のように買って残るというものでもないし、食べられるものでも、それを身につけることができるわけでも、生活が便利になるわけでもない。言ってみれば、何の役にもたたないものだ。ただ、部屋に花があるとないとでは、全然ちがう。わたしが思う一番贅沢な買い物が、お香を買うことと、この花を買うことだ。

 ただ、わたしはあまり普段から花を絶やさない、という生活をしているわけではない。いかにも園芸植物然とした切り花よりも、どちらかといえば木に咲く花のほうが好きだし、花を買うより、鉢植えを買ってきて育てるほうがコストパフォーマンスも高いような気がして(ついコスト・パフォーマンスを考えてしまう貧乏性のわたし…)、花よりも、小ぶりの木の鉢植えを買う機会の方が多いかもしれない。

 それでも、どうかした拍子に、ふっと花がほしくなることがある。何かのついでではなく、花を買おう、と思って花屋へ行き、カルヴィン・トムキンスの評伝のタイトル『優雅な生活が最高の復讐である』などを思い出しながら、あれか、これかと迷うのである。

 そうするうちに気がついた。多くの場合(もちろんそうでないこともあるのだけれど)わたしが花を買おうという気になるのは、相当に落ち込んだときなのだ。ゾシマ長老が言うように、悲しんで悲しんで、どこまでも悲しんで苦しんだ後、もうこれ以上落ち込むことができなくなるあたりまで落っこちて、さて、もう上向きになるしかないというころで、花でも買おうかな、という気分になるようなのだった。

 この夏、まぁそんなふうなことがあり、そういった心理的経過をたどって八月も終わりに近くなった頃、花を買いに行ったのだった。
 何を買おうか、あれこれ目移りしていると、一隅に黄色いプラスティックの漬け物樽があるのに気がついた。近寄ってみると、水が張ってあり、平たくて丸い、絵本だとカエルが乗っていそうな、だが実際には薄くてカエルなど乗れそうもない、ユーモラスだけれど繊細な葉っぱがいくつも浮かんでいた。
「これ、睡蓮ですよね?」と、花屋のおじさんに聞いてみた。
「温帯性の睡蓮はこれが最後やね。夏も終わりやから」
「これから咲くんですか?」
「ここ、見てみ」
おじさんは水の中に手を突っ込んで、茎を引っ張り出した。ぐなりと曲がった茎の先に、緑色の萼に覆われた固いつぼみがついている。
「これがな、もうちょっと延びたら、水の上に顔を出すからな。そうしたら、待っとってみ。花咲きよるから」
「花、咲いた後も育てられます?」
「もちろん、ちゃんと世話してやったら、来年もまた咲くよ」
「ウチ、ベランダの結構が日差しきついんですけど」
「ああ、大丈夫。結構強いよ。ボウフラが湧くこともあるけど、鉢のなかでメダカや金魚、飼うたらええねん」

 金魚!?
 ウチには現在六台の水槽に、三十七匹の金魚が生息している(詳細は「金魚的日常」参照のこと。この記事を当時は68匹いたのだが、順調に里子に出すことに成功し、何匹かは死なしてしまい、現在の数に落ち着いている)。
 ベランダに睡蓮が咲く鉢があり、そのなかで金魚が泳いでいる図が脳裏に浮かんだ(断じて漬け物樽ではない)。

 物欲番長が降臨してきた気配を感じる。
おじさんにもわたしの背後の物欲番長の姿が見えたか、さらにこう続けた。
「いまからやったらそんなに暑い日も続かへんし、育てるのは簡単やで。水さえ切らさんようにしとったらええねんから」
「でも、これ、中に泥も入ってますよね。ちょっとわたしには持って帰れないなぁ」せめてもの抵抗を試みるわたしに、おじさんはこともなげに
「ええよ、これからねえちゃんとこへ持っていったるわ、ねえちゃん、帰るとこやろ、ついでに乗せていったるわ」と、あごをしゃくって表に停めてある軽トラックを示した。
「でも、わたし、自転車なんです」
「軽トラの後ろに積んでいったらええやんか」

 かつてアメリカでホストマザーがわたしに言ったことがある。
「どんなときでも帰るときは遠慮なく電話して。知らない人の車に乗るってことは、トランクの中に入らなきゃいけなくなるかもしれないってことなのよ」
「トランク?」
「あなたがbody(死体)になるかもしれない、ってこと。rapeではすまなくて」

 その言葉が頭をよぎる。だが、この花屋からウチまであっという間だし、外はまだ明るいし、人通りは多い道ばかりだ。おまけに軽トラにトランクはない。
その間も、わたしの背後にべったりと取り憑いた物欲番長は「買え~、買え~、買わないと後悔するぞ~、さっきおっちゃんも“最後”と言ってたじゃないか~」と囁き続けるのである。

「じゃ、お願いします」
こうして漬け物樽とわたしの自転車を後ろに乗せて、わたしは花屋の軽トラックに乗って帰っていったのだった。

 おじさんはベランダまで持ってきてくれて、ついでにベランダの鉢植え(というには大きくなりすぎたナツメの木)の剪定までしてくれた。金魚の飼育水がいい肥料になっているらしく、どれも青々と茂っている鉢植えを見ながら、おじさんは
「あんた、ほんまに育てるのうまいわ。大丈夫、来年も睡蓮、咲かせられるて」と太鼓判を押してくれた。どうやらわたしは食い詰めたら、金魚屋だけでなく、植木屋?にもなれるのかもしれない。

 毎日毎日、睡蓮の樽をのぞく日が続いた。水温を測ってみると、夕方でも優に30度を超えている。さすがにこの温度では金魚は育てられないだろう、と思って、漬け物樽に金魚を放流するのはあきらめた(この水量では、小型の金魚2匹ぐらいがせいぜいか)。

 そうして九月に入って数日が過ぎた頃、やっとつぼみが水面に顔を出してきた、と思うと、夕方帰ってみると、萼にはっきりと十文字の切れ目ができ、そこから中の白い花が顔をのぞかせていた。明日の朝か、そのつぎぐらいには咲きそうだ、と思うと、朝起きるのが楽しみだった。

 それから、二日後。
 毎朝、起きるとすぐベランダに出てみて、そこで日の出を眺めるのが日課のようになっていた。
 それからコーヒーをいれて、マグカップを持ってもういちどベランダに行く。今日あたりそろそろではないか、と思っていた。できれば仕事に行く前に咲いてくれたら。

 ほんの少し、開いていた。
 睡蓮は開くとき、音がするという。その瞬間はどうやら逃してしまったらしいのだけれど、閉じた手を開くように、ゆっくり、ゆっくりと咲いていくのには間に合ったのだった。

先の尖った花びらが開いていく。
白は寒色なのだということをあらためて思い出す。
胸の底が、しん、と冴えかえっていくような白だった。

自分の胸の中が溶け出していくようだった。
ずっと、ずっと、つらかった。
なによりも、自分で自分の気持ちをがんじがらめにしていたからつらかったのだ。
ずっと自分を責めていた。何がいけなかったんだろう、自分は何を間違えたのだろう、どこで失敗したのだろうとそれだけを考えていた、だがそれは、誤りが自分の側にあるとすることで、それを繕いさえすれば、自分が正しく考えて、正しく行動すれば、またそこからやり直せる、と、意識のどこかで思ったからだったのだ。
 けれど、おそらくそれはわたしの手の届かないところですでに終わってしまっていたのだ。なのに、わたしはそれを認めたくなくて、認めるかわりに自分を責めていたのだ。
だれでもない、わたしが、わたしを苦しめていたのだ。

睡蓮は、水の上に静かに咲いている。
だんだん冷えていくマグカップを両手ではさんで、わたしはすがるような気持ちで睡蓮の花を見ていた。

睡蓮はそれから七日間、開き続けた。最後の日は花びらの先にすこし色がついて、しぼんでいくのがわかった。それから、静かに水の中に返っていった。
その間、わたしは、文字通り、朝な夕な、睡蓮とともに過ごした。

おそらくそのときのことは、これから先、忘れることはないだろう。
こうして漬け物樽に入った睡蓮は、忘れられない買い物となったのだった。

* * *

4.これも買い物 ~かくて日は続く

 つい先日、わたしは書類を提出するために、市役所に行って証明書をもらってこなければならなかった。書式に記入し、窓口に出して、待つことしばし。名前を呼ばれたので寄っていくと、身分証明書の提示を求められた。

「ありがとうございました」窓口のおねえさんはIDを返してくれると、一枚の紙切れを差し出し、こう言った。
「三百円、いただきます」

 え? お金、いるの?
 実は市役所に着く前に、ある場所に立ち寄り、思いがけない買い物をし、銀行に行くつもりでたいして現金を持っていなかったわたしは、財布をはたいた直後だったのだ(何を買ったのかものすごく話したいのだけれど、これを話し始めると、とんでもない方向に話が逸れるので、この話はまたいつか)。まぁいいや、あとで銀行に行くんだから、と思いながら市役所に来たのだけれど、まさかここでお金がいるとは思わなかった。
 そういえば、以前戸籍抄本を取ったときも、住民票を取ったときも、お金を払ったような気がする。読んだ本の中身は決して忘れない(これはウソ、最近は全然ダメ)わたしなのだが、こういう記憶は全然残らない。

 とにかく、小銭入れに残ったなけなしの百円玉と十円玉、五円玉一円玉総動員すると……286円……。14円、足りない(涙)。
 値切るわけにはいかないし(一瞬、カード使えますか? と聞いてみようかと思った)、Oh,my gosh! と天を仰いだ瞬間、自分がたったいま、市役所の建物に入る前に、銀行のキャッシュ・ディスペンサーの横を通ってきたのを思い出す。
「すいませんっっ。ちょっと待ってくださいっ」
おねえさんに頭を下げて、走ってお金をおろしてきたのだった。300円の持ち合わせがない市民が証明書を取りに来たことに、おねえさんもさぞ驚いたことだろう。

 うーん、それにしても、300円というのは、どういった性格の費用なんだろう。
市役所を後にしながら、わたしの頭のなかではニール・テナントが"We're buying and selling your history"(きみの経歴をぼくたちは売ったり買ったりできるのさ―"Shopping" by Pet Sho Boys)と歌い始めていた。
 
 ううむ、わたしのhistoryは300円。それさえも買えなかったわたし……。
 
 ♪We're S・H・O・P・P・I・N・G、we're shopping♪

 人生何が起ころうと、ショッピングだけは続けていこう。ショッピングとはつまり、好奇心が旺盛で、生きていて、先の楽しみがある、ということだ。
(ポール・ラドニック『これいただくわ』小川高義訳 白水社)

(この項終わり)