(※原文はこの前まで読めるところがあったのだけれど、いまはWeb上で読めるものがありません。
Selected Short Stories of William Faulkner (Modern Library) を底本としています。
邦訳は新潮文庫『フォークナー短編集』龍口直太郎訳 などに所収されています。
なお、"nigro"、"nigger"の訳語として、いわゆる「差別語」を当てていますが、その点はご了承ください。)
なにもかもが血に染まったような九月のたそがれどき、六十二日間続いた日照りのあとで、乾いた草原を渡る火のように駆け抜けたものがあった――流言、噂話、それをなんと呼んでもかまわないが。ミス・ミニー・クーパーとひとりの黒人にまつわることだ。襲われた、辱めを受けた、怖ろしい目に遭わされた。土曜の夜、床屋に集まった者たちは、天井の扇風機がよどんだ空気を入れ替えることもなくただかきまわすだけで、澱んだポマードとローションの臭いと一緒に、自分たちのすえたような息と体臭を、繰り返し強く感じながら、だれひとり、実際には何が起こったか知ってはいないのだった。
「ウィル・メイズじゃないってんなら、話は別だが」と、理髪師のひとりがいった。中年の、痩せて沈んだ肌の色をした穏やかな顔つきの男で、いまは客の顔を剃っているところだ。「ウィル・メイズならよく知ってるんだ。あいつはいい黒ん坊だよ。それにミス・ミニー・クーパーってひとも、よく知ってる」
「ミス・ミニー・クーパーの何を知ってるっていうんだ?」と、もうひとりの理髪師がいう。
「その人はだれなんだ?」客が割り込んだ。「若いお嬢さんかい?」
「とんでもない」理髪師が答えた。「四十ってとこでしょう。嫁かず後家でね。だからあたしはどうしても信じられない……」
「信じるだって、ええ?」シルクのシャツに汗をにじませた、大きな図体の若い男が声を上げた。「あんたは白人のご婦人がいったことより、黒ん坊の話を聞くってのか」
「ウィル・メイズがそんなことをしたなんて、あたしには信じられない」理髪師は繰り返した。「やつならよく知ってんです」
「ならあんたはだれがやったか知ってるってんだろ。きっとそいつをこの町から逃がしてやったんだな。まったくたいした黒ん坊贔屓だぜ」
「あたしが言ってるのは、それがだれにせよ何かしようなんてな人間がいるとは思えない、ってことなんです。ほんとに何かが起こった、なんてね。おたくら、好きなように考えてくれたらいいんだが、嫁にも行かず、歳ばっかり食っていくご婦人がたにはわからないこともある。男がそんな気にはならない……」
「こりゃまたあんたはたいした白人だな」客はそういって、クロスの下で身を動かす。若い男はがばっと立ち上がった。
「信じられないっていうのか? 白人の女が嘘をついたと言うんだな?」
理髪師は、身体を起こしかけた客からカミソリを離して頭上高くかざした。
「いまいましい天気が続いてるからな」もうひとりの理髪師がいった。「男なら何かしたくなるかもな。たとえ相手がおばちゃんだって」
だれも笑わない。理髪師は持ち前の、穏やかだが梃子でも動かない調子でいった。「あたしはだれかがどうかしたからけしからん、なんてことが言いたいんじゃありません。ただ、あたしが知ってるように、それからみなさんだってよく知ってるように、男を知らない女ってもんが……」
「この黒ん坊贔屓めが!」若い男が毒づいた。
「やめろよ、ブッチ」もうひとりの理髪師がいった。「ことを起こすには、十分時間をかけて事実を知らなきゃダメだ」
「だれがそんなことをするんだよ。事実だって? 事実なんてクソ食らえだ。オレは……」
「あんたは立派な白人だ」客が言った。「そうだろ?」あごひげを泡だらけにした客は、まるで映画に出てくる砂漠のタレコミ屋のようだ。「お若いの、みんなに言ってやってくれよ。もしこの町には白人がひとりもいないんだったら、このオレを頼ってくれてかまわない。オレはただの旅回りのセールスマンで、ここじゃよそ者に過ぎないが」
「そのとおり」理髪師はいう。「まず事実ってものを明らかにしなくちゃ。あたしはウィル・メイズをよく知ってるんだから」
「まったく結構なことだよ」若い男がいった。「考えてもみろよ、この町に一人だって白人の男が……」
「いいかげんにしろよ、ブッチ」と別の男が止めた。「オレたちにゃ時間はたんとあるんだからよ」
客はすわりなおすと、声のしたほうに向き直った。「あんた、白人の女に黒ん坊が襲いかかったとしても、何かいいわけすりゃ聞いてやろうって言うのか? 白人の男として、そんなことをおめおめと見ていられるとでも? あんたが来た北部へ、とっとと帰ったらどうだい。ここ南部じゃ、あんたみたいなやつはお呼びじゃないんだ」
「北部とはどういうことだ。オレが生まれたのはここだし、大きくなったのもここなんだ」
「えい、くそっ」若い男がいった。強ばり、途方に暮れたような目をしてあたりを見回した。自分が何が言いたいのか、何をしたいのかわからなくなって、なんとか思い出そうとしているようにも見えた。袖を引っ張って、汗まみれの顔を拭った。「もしおれが白人の女に勝手なまねをされても……」
「それをみんなに言ってやるんだよ、兄さん」セールスマンが声をかける。「神かけて、もしやつらが……」
(この項つづく)
Selected Short Stories of William Faulkner (Modern Library) を底本としています。
邦訳は新潮文庫『フォークナー短編集』龍口直太郎訳 などに所収されています。
なお、"nigro"、"nigger"の訳語として、いわゆる「差別語」を当てていますが、その点はご了承ください。)
なにもかもが血に染まったような九月のたそがれどき、六十二日間続いた日照りのあとで、乾いた草原を渡る火のように駆け抜けたものがあった――流言、噂話、それをなんと呼んでもかまわないが。ミス・ミニー・クーパーとひとりの黒人にまつわることだ。襲われた、辱めを受けた、怖ろしい目に遭わされた。土曜の夜、床屋に集まった者たちは、天井の扇風機がよどんだ空気を入れ替えることもなくただかきまわすだけで、澱んだポマードとローションの臭いと一緒に、自分たちのすえたような息と体臭を、繰り返し強く感じながら、だれひとり、実際には何が起こったか知ってはいないのだった。
「ウィル・メイズじゃないってんなら、話は別だが」と、理髪師のひとりがいった。中年の、痩せて沈んだ肌の色をした穏やかな顔つきの男で、いまは客の顔を剃っているところだ。「ウィル・メイズならよく知ってるんだ。あいつはいい黒ん坊だよ。それにミス・ミニー・クーパーってひとも、よく知ってる」
「ミス・ミニー・クーパーの何を知ってるっていうんだ?」と、もうひとりの理髪師がいう。
「その人はだれなんだ?」客が割り込んだ。「若いお嬢さんかい?」
「とんでもない」理髪師が答えた。「四十ってとこでしょう。嫁かず後家でね。だからあたしはどうしても信じられない……」
「信じるだって、ええ?」シルクのシャツに汗をにじませた、大きな図体の若い男が声を上げた。「あんたは白人のご婦人がいったことより、黒ん坊の話を聞くってのか」
「ウィル・メイズがそんなことをしたなんて、あたしには信じられない」理髪師は繰り返した。「やつならよく知ってんです」
「ならあんたはだれがやったか知ってるってんだろ。きっとそいつをこの町から逃がしてやったんだな。まったくたいした黒ん坊贔屓だぜ」
「あたしが言ってるのは、それがだれにせよ何かしようなんてな人間がいるとは思えない、ってことなんです。ほんとに何かが起こった、なんてね。おたくら、好きなように考えてくれたらいいんだが、嫁にも行かず、歳ばっかり食っていくご婦人がたにはわからないこともある。男がそんな気にはならない……」
「こりゃまたあんたはたいした白人だな」客はそういって、クロスの下で身を動かす。若い男はがばっと立ち上がった。
「信じられないっていうのか? 白人の女が嘘をついたと言うんだな?」
理髪師は、身体を起こしかけた客からカミソリを離して頭上高くかざした。
「いまいましい天気が続いてるからな」もうひとりの理髪師がいった。「男なら何かしたくなるかもな。たとえ相手がおばちゃんだって」
だれも笑わない。理髪師は持ち前の、穏やかだが梃子でも動かない調子でいった。「あたしはだれかがどうかしたからけしからん、なんてことが言いたいんじゃありません。ただ、あたしが知ってるように、それからみなさんだってよく知ってるように、男を知らない女ってもんが……」
「この黒ん坊贔屓めが!」若い男が毒づいた。
「やめろよ、ブッチ」もうひとりの理髪師がいった。「ことを起こすには、十分時間をかけて事実を知らなきゃダメだ」
「だれがそんなことをするんだよ。事実だって? 事実なんてクソ食らえだ。オレは……」
「あんたは立派な白人だ」客が言った。「そうだろ?」あごひげを泡だらけにした客は、まるで映画に出てくる砂漠のタレコミ屋のようだ。「お若いの、みんなに言ってやってくれよ。もしこの町には白人がひとりもいないんだったら、このオレを頼ってくれてかまわない。オレはただの旅回りのセールスマンで、ここじゃよそ者に過ぎないが」
「そのとおり」理髪師はいう。「まず事実ってものを明らかにしなくちゃ。あたしはウィル・メイズをよく知ってるんだから」
「まったく結構なことだよ」若い男がいった。「考えてもみろよ、この町に一人だって白人の男が……」
「いいかげんにしろよ、ブッチ」と別の男が止めた。「オレたちにゃ時間はたんとあるんだからよ」
客はすわりなおすと、声のしたほうに向き直った。「あんた、白人の女に黒ん坊が襲いかかったとしても、何かいいわけすりゃ聞いてやろうって言うのか? 白人の男として、そんなことをおめおめと見ていられるとでも? あんたが来た北部へ、とっとと帰ったらどうだい。ここ南部じゃ、あんたみたいなやつはお呼びじゃないんだ」
「北部とはどういうことだ。オレが生まれたのはここだし、大きくなったのもここなんだ」
「えい、くそっ」若い男がいった。強ばり、途方に暮れたような目をしてあたりを見回した。自分が何が言いたいのか、何をしたいのかわからなくなって、なんとか思い出そうとしているようにも見えた。袖を引っ張って、汗まみれの顔を拭った。「もしおれが白人の女に勝手なまねをされても……」
「それをみんなに言ってやるんだよ、兄さん」セールスマンが声をかける。「神かけて、もしやつらが……」
(この項つづく)