陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

乾いた九月 ウィリアム・フォークナー 総集編

2005-09-12 21:43:43 | 翻訳
昨日までブログで連載していたフォークナーの『乾いた九月』こちらで読めるようにしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/september.html

まだ決定稿ではありません(二つ、三つ、どうしても気に入らないところがある)ので、明日には正式にアップしたいと思っています。

誤字脱字変換ミス、あるいは主語のねじれ、意味の通じにくいところありましたら、どうかご指摘お願いします。

***

で、以下は余談なんですが。


『乾いた九月』も、漱石の『第三夜』も、闇のなかで進行するのが気になって、ずいぶん以前に、ある方に紹介していただいた『夜は暗くてはいけないか ――暗さの文化論』(乾正雄 朝日選書)を読みました。いや、実は今日、ずっと読んでて、さっそくここに書いてるんですけど。大変おもしろく読むことができました。

「寒暑の文化」対「光の文化」という比較の仕方には、目を開かれるようなおもいでした。

ただ、思ったのは、アメリカのことです。
乏しいわたしの経験では、アメリカの一般家庭は、日本の家庭に比べてはるかに暗い、間接照明が中心で、たとえばTVがついている部屋では、一切の照明を落としていたような記憶があります。

いっぽう、建材は日本と同じ、板としっくい? ではなかったでしょうか。少なくともヨーロッパのような石造りではありませんでした。

この本のなかでは「高層建築」というカテゴリーでしかアメリカにふれられていなかったのですが、このところアメリカの「郊外」(サバーヴィア)についていろいろ考えているので、ヨーロッパとも、もちろん日本ともちがう、アメリカのサバーヴィアの独特な感じについて、もう少しそこらへんのことを読んだり考えたりしてみたいと思いました。
たとえば、日本人は夜になって明かりをつけると、外から見えないようにカーテンを引くけれど、郊外の住宅ではカーテンなんて引きません。だから、中の様子が浮かび上がって見えてくる。たとえばヒッチコックの『裏窓』にしても、どこの部屋もカーテンなんて引かないから成立する映画なわけです(これはサバーヴィアじゃありませんが)。
そこらへんのこととか、もう少し考えてみたい。

以前スウェーデンから来た人が、冷蔵庫が熱を使って冷やすことができるように、光を使って闇を作り出すような発明は不可能だろうか、と話していたのを思い出します。スウェーデンの夏は、真夜中の二時ぐらいには夜が明けてしまうらしい。そうなると、鳥が一斉に鳴き始めて、うるさくてかなわないのだそうです。そうなると、どうしても寝不足になる。だから、スイッチをパチッと入れて、光を反転させて、人工的に闇を作り出すことはできないだろうか。そんな話を聞きました。読みながらそんなことも思い出したりしていました。

フォークナーの闇、漱石の闇、あるいはマクベスの闇(闇といえば、わたしはどうしても森の中で三人の魔女に会ったマクベスを思い出すんですが)、そこらへんについて思ったことを、そのうちに何かの形で書けたらな、と思っています。
なんだかまとまらない雑感ですが。

こんなところに書いて、本を紹介してくださった方の目に留まるかどうかわからないのだけれど、ご紹介ありがとうございました、とここでお礼を言っておきます。ずいぶん読むのが遅くなってしまったけれど、見てくださってるとうれしいな。

お元気でいらっしゃるといいのだけれど。

それじゃ、また。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿