今日は宮本さんは岐阜にいるんだ、二日連続ご苦労さまです。
今、「ボクらの時代」を見てます。(寝坊したからティーバーありがたい)
優君と翔平君がいるから彼の話も出てきた。
こういうのでいいんだ、さりげなく普段の会話にポンって出てくるような、彼らの中で思い出になって不意に語られるっていいなあって思う泣いたけど。
本当の姿や本当の関係って周りからは見えない。ましてや一視聴者が分かる訳がない。だから好き勝手言う。自分達の憶測を世界発信するからおかしくなるんだよな。
高岡さんのインスタを見た。
城田君は周りにこういう叱咤激励してくれる人がいて幸せだ。
何か書いてる事が春馬君がいなくなった後にコメントを出した佐藤浩市さんと被った。
周囲や共演者が優しい言葉や彼の人柄を偲ぶ中でただ一人「反面教師にする」と言った人だ。(こう書くと誤解されがちなのでちゃんと調べて全文読んでね)
当時はその言葉が強すぎて厳しい人だなって思ったけど、今思うと己の死生観から出たものなのかなって感じる。高岡さんのは己の価値観から、共通するのはどちらも相手を思って出た言葉だという事。
じゃあ「自死は悪い事、人を悲しませる事」という死生観を持つ一部の追及派の人達は何故彼を責めずに「春馬君は自死なんて無責任な事はしない、だから自死じゃない」っていうのか。それは己の死生観や価値観をを否定されたくないからだと思う。それと同時に春馬君を否定したくないのだろう。その信念がが今の行動に繋がっているのは分かる。でもそれと現実を受け止めないのとは違う。
証拠がない限り彼は自ら旅立った、これは事実だ。
彼女らの死生観を否定する行動を取ったのだ。
自分の愛する人、尊敬する人が自分(の価値観)を否定する、これが辛くて悔しくて理由を探して彼を無理やり肯定する。その傲慢さが今の状態を作っているのだ。
佐藤浩市さんにとって春馬君の行動は理解できなかっただろう、自分の死生観、価値観を後輩に否定された事は悔しくて悲しかったと思う。でも全部受け止めた上であの言葉を彼に言った。あれは彼の価値観では春馬君を否定したけど、人間として肯定した言葉ではないだろうか。(ちょっと難しいけど私も書いてて混乱してきた)熟練した大人の追悼だと今ではつくづく思う。
自分がもし「自死は悪い事」という死生観があったら春馬君を否定していたかもしれないし、追及派側に行っていたかもしれない。
でも自分の人生は自分だけのもの、ならば終わりだって自分で決めたっていいじゃないかと思う自分は彼の選択が少し理解出来た。的外れかもしれないし彼の死生観がどうだったかなんて一ファンの私には分かるはずはない。
でも彼は自分で終わらせた
この行動は重いけど自分の中でストンと受け止めたのもまた事実だ。
誰かの為に生きるとか頑張るというのはその人の愛であり励みになる。
でも誰かの為に生きてとか頑張ってとか言うのはその人のエゴだ。
自分でない他人に願うことは愛でなくすべてエゴだと思っている。
でもそのエゴで人は生き、生かされているのかもしれない。
エゴをちゃんと認めた上で尊敬や愛が生まれる。
追及派は自分達のエゴを認められない人達なんだろう。
だから簡単に「彼を返して」とか呟けるのだ。
返してくれる人は当人しかいない。
エゴを愛と勘違いして押し付けられる世界に別れを告げたと思うのに。
ああ~暗い事をかいてしまった。
まあ、いいや
そう言えば宮本さんが書いた歌詞の「愛のかたまり」ってワードがすごく好きなんだけどその前に「諸刃で行くぜ気を付けな」って言ってるんだよね。そうなんだよ「愛のかたまり=エゴのかたまり」って捉えると確かに危険な物、この人は本当に人間の本質ってものを描くのが上手い、苦悩したからこそ出た歌詞なんだろうなあ、だから自分に響くのかもしれない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます