暑いですねえ。
月末です、本来なら月一春馬君作品を選ぶのですが、何ともモチベーションが上がらず、別推しの作品を購入しました。こうして現実にガス抜きしないと心が持たない。そしてイライラしてる時は「我が祈り」一択、クラファンやら無断掲載開き直りやらでもう宮本さんのように叫びたい。というか何度も言うが⌒の叫びをエンドレスで当事者の耳元に流したい。
先日「太陽の子」を見てきました。
たぶん春馬ファンが良くも悪くもよく引用する「未来の話をしよう」って台詞、割とすんなり聞けました。裕行のこの先や、春馬君自身を想うと辛いという意見も目にして覚悟を持って聞いたんですが、いや普通に希望だよな、裕之さんは本心で言っているよな、ってすんなり受け止めました。確かに今、春馬君は不在で切ないですよ、でもこの作品を撮ってた時の彼の気持ちは他人には計り知れないし重ねる必要はないなと思いました。
むしろスクリーンにいたのは【石村裕之】しかなくてああ役者だなあって感心するしかなかった。どの作品にも春馬君の素はなくてその人物で生きているんだもの、裕之さんも同じ、遺作とか関係ない三浦春馬が演じた役の一人であるというだけです。
で、「未来の~」よりずっと心に残った台詞があったんです。
世津と修の何気ない会話です一冊の本から始まる【原子】の話
ヒトは原子で出来ている。水素、炭素、窒素。酸素、リン、硫黄...
「ほな私が死んだら、それはどうなる?」
私は祖父母を見送り骨も拾ったので、人は死んだら骨になるのは知っています。でもそれは形として見えたからそうであって見えない原子も一緒なんですね。
世津の両親の思い出の品、それも原子で出来てると彼女は言います。
小さい原子が組み合わせを変えて、水になったり、二酸化炭素になったりするという修に世津はこう問いかけこう自己完結します。
「じゃあヒトも水や空気になるの?・・でもそうかそうやって原子はこの世界を循環してるわけやね」(原作から意訳抜粋)
私がこの映画で最も響いた台詞です。
裕之がいなかったからこの時だけ春馬君の事を考えてしまいました。
彼の姿は形としては今は骨だけなのだろう。
でもその命は世界中を循環している。
空気になって水になって土になって緑になって
風が吹いても雨が降っても雪がふっても
側にいるんじゃないか
いつか目の前の花になって会えるんじゃないか
そう思うと人の死というものは決して消失ではないと思う。
春馬君に逢いたい人はたくさんいるから自分の所にはなかなか来てくれないよなー。もっと徳を積んで胸を張って逢いたい。
今はきっと彼が大切に思っていた人達の所に寄り添ってるはず。
魂は死なないってこういうことなんだな。