喜♪きりん

人が苦手なのに何故か販売員をしてる人の日々あれこれ

空に思う。

2020-08-14 12:06:46 | ある役者の喪失(20207月19日~2021年7月19日)
三浦春馬君が亡くなってもうすぐ一か月経つ。
ファンではなかった私が毎日彼のドラマを見て歌を聴いている。

死によってその才能が認められたと揶揄する人達もいるけれど、出会いなんてタイミングだ。絶対的なスターがいない現代ではエンターティメントの多様性も含め、「誰もが知っている」存在なんて皆無だ。。だからこそ事件や死でクローズアップされる。これは仕方ない事だ。

けれど、その死で初めて彼の存在を知った人、前知っていた人が再び作品を目にする。これを再評価と言う簡単な言葉では表したくはない。何故ならこれは新たな出会いだからだ。夭逝してしまった存在が画面の中にいる。紙の中にいる。インクの匂いと共に彼の命の息吹がそこにある。

亡くなってからずっとずっと考えていた。
何故なんだろう?あんなに綺麗で無垢な青年がどうして自ら旅立ってしまったのだろう。

簡単に自〇で終わらせる事に疑問を持った。
何も言わない事務所に不信感を持った。
憶測や次々に現れる自称〇〇に怒りがこみ上げた。
共演者の言葉に涙があふれた。

占い動画も見た。自分なりに矛盾点を探しこれは違うと納得させた。
掲示板に行って他殺論も陰謀論もいろいろ読んできた。見てきたかのように断言する人達が悲しかった。

春馬君の家庭環境の複雑さは到底私には理解できないもので、こんなドラマのような生い立ちが本当にあるのかと驚いた。
彼を追い詰めた理由の一つに「機能不全家族」」はあったのかもしれない。
だからといって彼を可哀想な子として同情するのは間違っている。
そう思われたくなくて今まで懸命に頑張ってきたとしたら、その行為こそ彼が最も怒り、悲しむものではないだろうか。

後になって。「あの時は無理して笑顔を作っていた、誰も気付かなかったの?」と言う人がいる。彼は居場所を作りたかった、愛されたかったんだと言う。そんなの本人にしか分からないけど、自分が見た映像ではいつも屈託なく笑っていて微塵も感じなかった。愛されたいと人に気を使っているというより人を愛しているそんな感じがした。

彼にとって親友の存在があまりにも多く出てきて、自称では?とか胡散臭い、本当の親友ならべらべらしゃべらないと非難があった。
確かに親友の定義は分からないし、彼自身もよく分かってなかったんだろうと思うが、共通するのはそこに彼の愛があるということだ。これは私の憶測に過ぎないが、彼は他者を慈しみ、愛することで自分の存在を認めたかったんだと思う。もし彼が多くの親友と同じように自分自身を親友として愛していれば結末は違ったのではないだろうか。自分を愛して欲しかった、誰よりも自分を大切にしてほしかった。ロケやスタジオで時々腕組みをして語る彼を見て思った。もっとワガママに生きて良かったのにな。自分本位で良かったのにな、失敗したっていくらでもやり直しできたのにな。もしかすると何度も解放しようとしたのかもしれない。それを阻んだものは何だったのか今となっては分からない。ただ最後に選んだ手段が自由をつかむためだったなら誰が彼を責められるだろうか。

私はにわかファンだ。

彼の作品は「ファイト」と「14歳の母」と「ラストシンデレラ」しか知らなかった。でも「ファイト」で初めて彼を見て衝撃を受けた「何て無垢で綺麗な少年なんだろう」と特にその後を追いかけなかったが、二度目に会った「14歳の母」で無垢なままさらに綺麗に成長している姿に「この子はきっと伸びる」と確信した。その通りになった。
三度目の出会いは「ラストシンデレラ」で無垢な面影を残したまま色気をまとっていて驚いた。当時ライバル役ファンだった自分は「でもまだ若いよねー」と悪態をついていたが、三浦春馬の成長にそのライバル役が完全に食われていたのを認めたくなかったんだと思う。
その後の彼は見ていない、ただダンサーとの熱愛は「才能のある人は同じような人を選ぶんだな」と何故か感心した。それが最後だった。

順風満帆だと思っていたから四度目の出会いは言葉が出なかった。
いろんな作品を見まくった。ミュージカルにも進出していたことを知った。
ああ彼はこんなに多方面で才能を開花させていたのか。見れば見るほど後悔した。もっと踏み込めば良かったのにな今更遅い。

後悔と喪失感を抱えながら自問自答した。
自分に出来ることは何だろうとその答えは大嫌いな週刊誌のオンライン記事に有った。

「彼の死ではなく彼の生を記憶する」

それを読んで思い出した。祖父が亡くなった時にお坊様から言われた言葉だ。
「人が本当に死を迎えるのはこの世にその人を知っている人が一人もいなくなった時です。どうか残された方々で故人の生きざまを伝えて行ってください」

三浦春馬は生きている
映像に歌声に、クリック一つで彼の姿が声が蘇る。
誰かが彼を忘れても新たに彼を知る人が生まれる限り、彼は生き続ける。
私は彼の書いた本を買い、読んで伝えたい。
彼を作品を見て何度も感動したい。

CDを買ってもそのお金が事務所に行くのは嫌だ、親の所に行くのも嫌だと思ったりもした。でも今は違う。

彼が生きた証をも残すために払う対価だ。
形はどこへ行こうともその思いは彼に届くと信じている。
血の通った産業を未来へ繋げていくために
私は彼を忘れない。

願わくば彼がどうか今は心安らかでいられますように。

書きながらあふれ出す涙とともに支離滅裂ですがようやく思いを吐き出せました。これでやっと追悼できたかな。

今日も快晴、いい天気です。

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