日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

虫の声の歌

2011年07月17日 | 日記
 草深い中に小さな虫の声がする秋の情景は、日本文学の「音の風景」の典型でしょう。それに次ぐのは、風音です、水音に気付く歌は、やや少なくなります。これに対して、鳥の声、とくに鶯、ホトトギスの声を詠む歌は、あまりに聞こえすぎ、陳腐すぎて、今日では興を削ぐと思います。
 玉葉の秋歌・上に、虫の声の歌が続いている中で、私が好きなものを3首。

降りまさる 雨夜の閨の きりぎりす 絶え絶えになる 声も悲しき(永福門院)

月すみて 風はださむき 秋の夜の まがきの草に 虫のこえごえ(今上御製)

ふけ行けば 虫の声のみ 草にみちて 分くる人なき 秋の夜の野べ(院御製)

 この後に、前時代の著名な歌(人麿、西行、和泉式部)が出てきますが、玉葉風の「近代的」な歌と比べてみると、叙景と人情のあいだに緊張感がありません。

鈴虫の 声ふりたつる 秋の夜は 哀れにものの なりまさるかな(和泉式部)

分けている 袖に哀れを かけよとて 露けき庭に 虫さえぞ鳴く(西行法師)

草深み きりぎりすいたく 鳴く宿の 萩見に君は いつか来まさん(人麿)

 西行法師の歌は、境地としてはすばらしいのかもしれませんが、作者の心情が前面に出ており、親鸞上人に感じるのと同じような、人間臭さを感じます。これを極端に推し進めたのが、折口信夫が「人臭い」といったような、近代の啄木短歌です。そこが西行や啄木の人間的な魅力でもあります。
しかし私が和歌で目指したいのは、人間臭さの対極、時空の細部あるいは全体が、非日常的に前景化する瞬間の描写です。人臭い日常的な描写の中に、突如として非日常が現前するときに緊張感は、一度味わうと、ほかのものでは替えがたい魅力があります。

『花の風』から、虫(蝉)の声を詠んだ玉葉風のものを、あげてみましょう。

世の憂ひ 人の憂ひも 鳴く蝉の 今をかぎりと 音をのみぞ聴く(麟伍)
(世には多くの憂いがあり、人にも多くの憂いがあります。蝉はそんな憂いは何もないかのようにひたむきに鳴き、私はその蝉の音をひたむきに聴いています)


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