日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

『歌物語 花の風』決定版(連続掲載)4章

2011年02月28日 | 日記
四の巻、別れ

 淡い粉雪が降っていた。

いもまてば ちりおくれたる はるのゆき まようこころを しりてふるらん
妹待てば 散り遅れたる 春の雪 迷ふ心を 知りて降るらむ
(あなたが来てくれるのを待っていると、季節はずれの春の雪が、私の心の迷いを知っているかのように、迷いながら降っています)

いもこいて わがまちおれば はるのゆきや ちりおしみつつ やみがてにふる
妹恋ひて 我が待ちをれば 春の雪や 散り惜しみつゝ 止みがてに降る
(あなたが来るのではないかと、恋しく待ちわびながら過ごしていると、春の雪は降りきってしまうのが惜しいかのように、降っては止み、降っては止みして、いつまでも降り止みません)

うめさきて さくらまちいる あおぞらに こしかたみえぬ ゆきまいちろう
梅咲きて 桜待ちゐる 青空に 来し方見えぬ 雪舞ひ散らふ
(あなたを恋しく思っていると、梅が咲いて、桜が待たれるこの季節、青空から春の雪が、こぼれるように降ってきました)

 桜の季節、女が去っていく日は、もう間もなくだった。建物の前の木陰に、女は誰かを待っているのか、しばらく立っていた。汗ばむほど暖かい中を、涼しい風が吹いていた。

かぜたちて このはさやげる したかげに いもたたずみて なにおもうらん
風立ちて 木の葉さやげる 下陰に 妹佇みて 何思ふらむ
(風が起こって、木の葉がざわめきます。その下に佇むあなたは、何の物思いにふけっているのですか)

 女は迎えに来た車に乗って、門から出ていった。車の音が遠ざかると、木立ちを吹きすぎる風の音が膨らんで、建物に囲まれた庭に充満した。

このにわに ふきゆくかぜも さくはなも さちにみてるわ いもありてこそ
この庭に 吹きゆく風も 咲く花も 幸に満てるは 妹ありてこそ
(庭を吹く風も、庭に咲く花も、このように幸せに満ちているのは、あなたがいらっしゃるからです)

帰り道、男はいつもより遠回りをして帰った。女の面影が、遠くの山並みに重なったり、道路沿いの家並みに重なったりした。

みねみつつ いもがかよいし さかみちの あとをしのびて ひとひあゆめり
峰見つゝ 妹が通ひし 坂道の 跡を偲びて 一日歩めり
(あなたが通った、向こうに山のみえる長い坂道を、今日あなたのことを思い出しながら、歩きました)

 女が去っていく前日は、取り返しのつかない思いがいつになく募って、男は落ち着かなかった。
 ベランダから平地をはさんで見る向かいの山は、深緑のところどころに薄色の花が群れ咲いて、脱色したようになっていた。

たかどのに まむこうおかの にきはだの みどりにはなや さきてまぎるる
高殿に 真向かふ丘の 和膚の 緑に花や 咲きて紛るゝ
(高台の高い建物から、あなたを生んだこの土地の丘を見渡すと、木々の緑のそこかしこに赤や白がうっすらと混ざっているのは、何の花が咲いているのでしょうか)

 女は仕事の片付けや挨拶で、忙しそうに動いていた。庭の噴水の前の円形の階段で、男は女と行き会った。男と女は会釈をしただけで、立ち止まりもしなかった。

いざやいも みてをこなたに たまえかし かのきざはしに なみていこわん
いざや妹 御手を此方に たまへかし かの階に 並みて憩はむ
(どうぞ、こちらに手を差し出してください。あの階段に、私とあなたと並んで休みませんか)

いつのよか なみていこわん わがいもわ いまはいずくと いでたたすらん
いつの世か 並みて憩はむ 我が妹は 今は何処と 出で立たすらむ
(いつの世にか、二人並んで休むことでしょうが、あなたは今、どこへ旅立って行こうとするのですか)

 すれ違った女のあとから、薄い化粧の匂いを含んだ風が、染み透るように吹き寄せてきた。

いもがてに いもがうなじに くろかみに はるめくきょうの かぜふきすぎて
妹が手に 妹が項に 黒髪に 春めく今日の 風吹き過ぎて
(あなたの手や、うなじや、黒髪を、今日になって春めいてきた風が吹いて、さわやかに通り過ぎていきます)

 日向の匂いと日陰の匂い、花の匂いと草の匂い、水の匂いと土の匂いが、生命の華やぎとなって、あたりに満ちていた。

このはるも さくらはなさき わかばふき いもがゆくえを さきおうごとく
この春も 桜花咲き 若葉吹き 妹が行く方を 幸ふ如く
(いつものようにこの春も、桜が花咲き、若葉が芽吹いていますが、それもこれも、あなたの行く先を祝福するかのようです)

暖かく晴れた春のある日、女は去って行った。女の暇乞いの挨拶は、ことのほか丁寧なものだった。置いていった小さな贈り物の中に、短い言葉が書かれていた。男は机の上を片付けてから、女に別れの便りを書いた。

「新たな出で立ちに、幸いを祈ります。
 あなたが帰ったあとの、いつもどおり閑散とした部屋で書いていますが、いつにない虚脱感と、安堵感が交錯します。長い一年でした。
 あらかじめ送るご許可を頂いていた歌を、送らせて頂きます。餞別というよりは、私の片恋歌になっていて、迷惑かもしれませんが、あなたのおかげで、これまで入れなかった世界に踏み込んで、どうにか詠むことのできた歌です。
いつ詠んだものか、わかるものがありますか? 
万一胸に響くものがあったら返歌をください。捧げ歌に値する人と相聞が詠めれば幸せなのですが。死を前に、平家の公達が和歌を後世に託した思いが、私にもわかるような気がします。……」

女からの返事は来ないまま、日々が過ぎた。

数ヶ月後、思いが薄れたころになって、女からの便りで、用事の序に近く立ち寄りたいという知らせがあった。男は胸が騒いだ。

当日、久しぶりに会った女は、笑顔と思いつめた様子を交互にみせて、気高さを増していた。男は当惑した。

女が語る話を聞くと、「普通の人には、この人の考えていることの意味は、よくわからないだろうな」と思われる内容だった。男には、女の求めているものが何か、よく理解できた。それは男の求めているものの一部と、同じものだったからだ。

われよりも いもをしるべき ひとやある さだめのときに いまわあらざるか
我れよりも 妹を知るべき 人やある 定めの時に 今はあらざるか
(私よりも、あなたの価値をわかる人がいるとは思えないほど、あなたは稀有の魂の人です。あなたの価値と、それを知る人間がここにいることに、あなたはまだ気づかないのですか)

このみちわ ひとりゆくべき かたにあらず いかにさだめの ときをまちてん
この道は 一人行くべき 方にあらず 如何に定めの 時を待ちてむ
(私とあなたのような人生は、誰もが行ける道ではありませんし、私とあなたも、それぞれが一人で行ける道でもありません。この稀有な道を行くために、二人の準備が整う時を、いつまでも待とうと思います)

 職場の同僚が出入りしていて、それ以上の話を聞く勇気がなく、男は半ば世間話に紛らわせた。しばらくして、女は「他の方にも挨拶をしてから帰ります」と言い残して、部屋を出ていった。

のちのよも せめてあわんと ねがいしに きょういもをみる かくくるおしき
のちの世も せめて会はむと 願ひしに けふ妹を見る かく狂ほしき
(今度生まれ変わった世でも、せめてまた会いたいと願っていましたが、今日あなたとお会いして、このように狂おしく、心乱れます)
 
男はこの女が定めの人だとわかったが、若い女はこの縁がどれほどのものか、まだわからなかった。

女が部屋を出て行くときの、見たことのない弱々しい後ろ姿と、消え入るような最後の言葉が、何度も浮かんできて、男はたまらなく辛かった。

ながきよを ひとりあゆみて ゆくいもの こころぼそさの ゆめにうかびて
長き世を 一人歩みて 行く妹の 心細さの 夢に浮かびて
(あなたが長い人生を一人歩いていく後姿が、繰り返し目に浮かび、見たことのない心細い様子に、結ばれるべきなのに、何もしてあげられないことの悲しさで、胸がしめつけられるようです)

帰路、男は車中でも興奮がおさまらないまま、こんな稀有な人に出会えたことだけでも、いつか幸せに思う時がくるだろうかと、自分に何度も問いかけた。

ひびをへて あいみるいもが おもざしに あくがれいずる たまとどめえず
日々を経て 相見る妹が 面ざしに 憧れ出づる 魂留め得ず
(こうして久しぶりにお会いして、あなたのお顔を見ると、あなたにあこがれる思いを、とどめることができません)
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