彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

1月24日、村木砦の戦い

2010年01月24日 | 何の日?
先にお断りしておきますが、この話自体は、彦根にも井伊家にも全く関係がありません。
もし少しでも関連を求めるなら、村木砦が築城された当時の今川家家臣には井伊直盛という人物がいて、直盛も多少はこの砦に関する軍議を聞いたり、物資の援助をしたかも知れない程度です。

ただ、2010年に450年を迎える桶狭間の戦いに繋がる重要な攻城戦であり、その桶狭間では井伊直盛は戦死し井伊家の危機を迎える要因となり、また戦国史に必ず登場する織田信長がその陣営の全てを考え直し、この為に明智光秀や豊臣秀吉と言った戦国期の著名人が台頭できるきっかけともなった戦いでした。

戦国史を語る上で村木砦を語らないのは、木を語るのに根を無視するのと同じくらいの罪があると管理人は思います。
彦根では『井伊直弼と開国150年祭』が終わった後で『戦国』をテーマとしたイベントを行うと発表されていますので、必要な情報として村木砦の戦いを書きたいと思います。



【本編】

天文23年(1554)1月24日、織田信長が今川義元の最前線となっていた村木砦に攻撃を仕掛け、村木砦の戦いが行われました。

村木砦は、今川義元の家臣だった石川新左衛門康盛が義元の命を受けて改修工事を行った砦で、城主は松平甚太郎義春という人物が務めていました。
現在の地形を見ると信じられないのですが、当時は近くの刈谷城との間に海が広がっていてこの2城で制海権を抑える役割も持っていたのです。そして村木砦の近くには織田信長方の水野信元(徳川家康の伯父)の居城・緒川城があり織田方にとっては目障りな砦だったのです。

天文22年11月頃から石川康盛による大掛かりな改築工事を目の当たりにした水野信元は信長に援軍を請います。そして信長は舅である斎藤道三に応援を願ったのです。
この間に村木砦の改修は完成してしまいます。
記録によれば砦内には三千余りの兵が配置され、東は細い陸地を海が挟み・西は東西に百間(180mくらい)南北に百二十間(220mくらい)の巨大な空堀が掘られその外側には泥田が広がり・北は泥地の向うに海が続き・南も半分は海であと半分は瓶掘りに掘られた空堀の向うに大掛かりな壁が建っていました。
それぞれの空堀の底には杭も立って居たそうですよ。
特に南側の備えは堅固で、『信長公記』には“南は大堀霞むばかり、かめ腹にほり上げ、丈夫に構へ候”と書かれているそうです。


当時21歳だった信長は、村木砦攻略軍の主軍として一番堅固な南を攻める事とし、斎藤道三が派兵した援軍である安藤守就に西側・水野信元と信長の叔父である織田信光に東側の攻略を任せたのです。

午前7時に始まった戦いでは、織田軍は鉄砲で撃ち掛けながら近くの林で木を切って梯子を作り空堀に下りてまた梯子を掛けて砦側に登ろうとします。そこを今川軍が弓や鉄砲で攻撃し撃たれたり落ちた拍子に底の杭に刺さったりした織田軍の兵の死体で空堀は埋まっていったのです。
これでは被害が増えるばかりと悟った織田軍は、近所の住民にも召集をかけて木を切り丸太を堀に投げ入れてついに空堀を埋めてしまったのです。
そして、鉄砲の集中連射(たぶん、長篠の戦の前にここで三段撃ちが行われたであろうとの説も有力です)で今川軍の隙を作った信長軍は壁を破壊して砦内に雪崩込んだのです。

それより少し前に東側から攻めていた水野信元・織田信光連合軍が砦内に侵入。村木砦は織田軍優勢に転じました。
これを見た砦主・松平義春は降参の意を示そうとしますが石川康盛がこれに逆らい義春を殺して砦内の櫓(今の城で言う天守の様な役割の場所)に火を放って信長の目前で自害して果てたのでした。

こうして村木砦の戦いは午後5時頃に終わります。
戦の後に死傷者の確認を行うと、信長の側近の多くがここで戦死したのです。
『信長公記』の記述では“信長御小姓衆歴々、其数を知らず、手負死人目も当てられぬ有様なり”と書かれています。
若い信長にとっては初めて体験した消耗戦となり、将来活躍する筈だった近臣を多く失ってしまったのです。


世に“武田二十四将”“徳川十六将”“毛利元就座備図(二十将)”と戦国大名には一族・譜代・外様を含んだ20人近い重臣団が形成されます。
小和田哲男先生の話では大体どんな規模の大名でも重臣の数は20名前後で落ち着いていて極端に増減する例はないそうですが、信長にはこう言った家臣団が形成されていません。
信長が家臣とした人物は、筆頭家老の林通勝や柴田勝家などの中核は信長の弟・信行を当主にする為に信長に逆らった人物ですし、羽柴秀吉や明智光秀・滝川一益は余所者。
そして俗に“織田四天王”と称されているメンバー(柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀)も丹羽長秀以外は信頼おける譜代の家臣が含まれない状況だったのです。
これは、この村木砦の戦いで重臣予備軍が戦死してしまった影響なんですよ。


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