彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根生糸

2006年10月21日 | 井伊家以外の人物伝
江戸時代には、一生涯お金を目にしないで過ごした武士達も沢山居ました。よく時代劇で目にするような、
「山吹色のお菓子ですお代官様」
「越後屋、そちも悪よのう」
「いえいえ、お代官様には叶いません」
なんて会話は殆んど無かったのです。そもそも、代官は能力に合った人物が選ばれてい多た為に清廉潔白な人物が多く、悪代官や悪郡代と言うのは数える程しか居なかったそうです。

幕末の会津藩にはこんな回顧録も残っています。
「お祭り音に誘われて、藩士の子どもが母親にお祭りに行く事を告げると、母親は幾らかのお金を財布に入れて子どもに渡したのです。その子は、夜店を覗くと、好きな商品を手にとって財布をそのまま夜店の主人に渡します。すると主人は必要な分のお金を取って子どもに財布を返したのです」武士の子はお金を目にしないままで済んだのでした。

実は武士達にとっては、お金は穢れている物だったのです。

しかし、多くの藩では江戸中期辺りから借金に追われる藩が多く彦根藩もその例外ではありませんでした。江戸末期には藩が経営する商売も始まったのです、特に高宮上布が有名ですし、12代藩主・井伊直亮と13代藩主・直弼が力を注いだのは湖東焼でした。
湖東焼は桜田門外の変の後に衰退しますが、高宮上布で培った商売法を、藩の勢力を盛り返す為に長浜縮緬に着目して応用したのでした。

家老・木俣清左衛門、重臣・長野主膳、町人・中村長平が中心となって松原町の木俣別邸で事業が始まりますが、文久二年の政変で、木俣が失脚し長野が斬首されて頓挫します。

明治に入り、武士の世の中が終わり、お金すら見た事がない藩士の救済のために宇津木家下屋敷跡に“彦根製糸工場”が建てられました。
製糸工場といえば、群馬県の富岡製糸工場が日本初の官営模範工場として有名ですが、そこに勤める女工の3割が彦根出身だったのです。こうして富岡製糸工場の技術を持った人々によって彦根製糸工場での指導が行われたのです。
近くを流れていた平田川は水が澄んでいて場所にも恵まれていたそうですよ。

ここで生産された生糸は「彦根生糸」と呼ばれ、滋賀県だけではなく近畿一円からも人々が働きに来る大規模な工場へと発展し、彦根だけではなく日本を支えた製糸産業の一角を担ったのです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。