彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

廊下橋

2006年10月25日 | 彦根城
彦根城を表門から天守に向かうと、最初に迎えてくれる櫓が天秤櫓です。

天秤櫓の話は後日に紹介しますが、その天秤櫓と手前の鐘の丸と呼ばれる広場を結んでいる橋が廊下橋です。
築城当時は、屋根や壁が付いた橋だったので、廊下橋と命名されたそうですが、いつの間にか屋根や壁は取り払われてしまたのです。

何度も改修工事を繰り返す内に予算や戦略上の都合(彦根城はこの橋を落とす事で本丸部分に対する堅城度が上がる為、設計者の早川幸豊が「例えどれ程の軍勢で攻められても何重もの備えで敵が撃退できる天下無双の要害」後々まで自慢していたという話も残っています、ですから落とし易い橋の方が良かった)から、屋根が無くなったのだと云われていますが、一つ興味深い伝説が残っています。

彦根城の築城に関わった人物に、徳川家康の次男・結城秀康が居ました。
秀康は次男という立場でありながら、家康に嫌われて、早くから豊臣家に人質に出され結城家に養子に入った人物だったのです。
このため、徳川家の家督は三男・秀忠に譲られます(長男・信康は織田信長の命令で早い内に切腹させられている)。
これに納得できない秀康は、家康に反発する態度をとります。また、豊臣家に居た事から豊臣贔屓に大名の一人だったのです。

1607年、彦根城の第一期工事が終わり、完成を祝う祝宴が井伊家の主催で開かれ、秀康を始めとする諸大名が招かれました。

これより前に、家康に呼び出された井伊家当主・井伊直継は、家康から秀康に毒を盛るように命令されます。
しかし、直継はこれを拒否しました。
横でこのやり取りを見ていた直継の弟・直孝は、兄を制止して家康の命を拝命したのです。

祝宴の当日、直孝は秀康の酒に毒を盛りました。

毒を呑まされた事に気付いた秀康は、祝宴場を離れ、廊下橋まで辿り着いた時に血を吐きます。
その血を掌で受け止めた秀康は、廊下橋の羽目板に叩き付けたのです。
秀康はこの後すぐに亡くなってしまいます。

秀康の血の跡は何度拭いても羽目板から消える事はありませんでした。
人々は秀康の祟りと噂したのです。

この後、井伊家では奇怪な現象が多く起こります。
まずは当主だった直継が、家康の命で突然当主の座を追われ、直孝が彦根藩の藩主となります。
しかし、直孝が期待をかけていた嫡男・直滋は直孝が亡くなる前の年に急に出家して藩主になる事を拒みます。
また直孝の後を継いだ直澄に対し、直孝は正室を持つ事を禁じて、後継ぎを勝手に決めるという不思議な行動に出たのです。

直孝の言い付けに従った直澄は直興に跡を譲りますが、直興の子が次々に若死にした為に調査すると、亡くなった子は全員廊下橋を渡っていた事が解かり、この時に橋の屋根が外され、羽目板は焼かれたそうです。

しかし、これだけでは終らず、元禄年間には廊下橋の上で2名の家臣が斬り合って亡くなり、その斬り合いに巻き困れた11名が怪我をするという事件も起こったのでした。

秀康の祟りは桜田門外の変にも影響を与えたという話もあるくらいで、彦根城内では密かに恐れられていたのかもしれませんね。


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