彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

閏2月4日、平清盛死去

2012年02月04日 | 何の日?
治承5年(1181)閏2月4日、平清盛が亡くなりました。享年64歳。


清盛の死は、源氏が平家に対して兵を起し、源平の争乱の最中におとずれました。

『平家物語』に記された話によると、2月27日に清盛の息子である宗盛が東国へ出陣しようとした矢先に、清盛が発病した報せが入り出陣を見合わせ、翌日に清盛重病の噂が都中に広まったとされています。
側近の平盛国の屋敷で寝込んでいた清盛でしたが、発病した日から高い熱が伴い、水も喉を通らないばかりか4、5間(10mくらい)に近付く者はその熱さに耐えられず、清盛自身も「熱い熱い」と言うばかりだったそうです。
比叡山から霊験あらたかな霊水を運ばせて、浴槽に入れて清盛を入れるとすぐに熱湯に変わり(それなら人間は死んでる気もしますが…)、樋のような物を付けて流してかけても、その水が散ってしまって身体に届くことがありませんでした。

このように苦しんでいる清盛の妻の二位殿(平時子)は、激しい火に包まれ「無」という文字が書かれた牛車が屋敷の中に入る夢を見ました。この牛車に従っている牛や馬の顔をした従者にどこから来たのかを訪ねると「地獄の閻魔庁から迎えに来た。この無は東大寺の大仏を焼いた罪で清盛が無間地獄に落ちて永遠に焼かれる無だ」と答えたのです。

閏2月2日、二位殿は泣きながら、熱さに苦しむ清盛に思い残すことが無いか訊ねると、清盛は「源頼朝の首が観見れなかったのが残念だ、自分が死んでも供養はいらないから、墓前に頼朝の首を供えろ、それが供養だ」と答えたのです。
そして病はますます悪化して、閏2月4日に苦しみ抜いて亡くなったのでした。

これは『平家物語』の記述なので全てを信じるわけにはいきませんが、熱病に冒されたのは確かなようで、マラリアだったのではないかともいわれているのです。


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