古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

今年も味噌を仕込みました。

2012年01月27日 02時34分20秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 前前日寝る前に大豆を水にかしておき、前日は電磁調理器と石油火鉢、携帯ガスコンロ、練炭コンロを総動員して五つの大鍋で大豆をじっくり煮て、今年も味噌を仕込みました。大豆は1,5キロ×5鍋、麹の注文は24キロで、これが一日で仕込む我が家の限界のようです。
 電動ミンサーがあるからできることです。3年前このブログで「どういう了見か自分でもわかりませんが、70歳を過ぎてから年に一度だけ使う《電動ミンサー》を買いました」と書きましたが、これで3回は使いました。あと10回は使いたいと思いますがどうでしょうねえ。なおコメントに「ミンサーを借りて味噌を仕込みたい」と書いていただけばお貸しします。どうぞ。
 ミンサーの部品を組み立てるとき、桶とか鍋をどこに置いてどんなふうに作業していたか、イメージが出てきません。「おかしいな。味噌の仕込みは10数年ずっとやってきたことなのに」イメージを思い出すのにしばらく時間がかかりました。だんだんこうなるのでしょうね。自分の参考のために写真を載せます。ミンサーでつぶした大豆と麹を混ぜてつくった《味噌玉》も写っています。
 そういえば母・妙子さんが下着のシャツを何枚も重ねて着て、それでも寒いから「シャツを買ってほしい」といいます。見るとセーターを着てなくて、シャツの上に直接ジャンパーを着ています。「シャツを着たら、その上にセーターを着る」というイメージが出なくなったのでしょうか。目につくところにセーターを置いて、「シャツを着てセーターを着る」というイメージを思い出してもらいました。98歳の妙子さんのすることを見ていると、これからの『さらなる老い』の参考になることがあります。
 寒くて外の仕事をする気にならないので本を読む時間があります。先日は『「戦争責任」論の真実』(戦後日本の知的怠慢を断ず) - 牛村 圭 著 2006年PHP出版 という本を東条図書館で借りて読みました。中に『木村久夫上等兵』が敗戦後の現地の戦犯裁判で捕虜虐待の罪でBC級戦犯として処刑されたことがくわしく書いてありました。ニコバル諸島の現地人をスパイ容疑で処刑した責任を問われたのです。
 木村久夫は京都帝国大学の学生で召集され、インド洋のニコバル島に行かされました。英語ができたので現地人との通訳としてつかわれ、現地人のスパイ活動を摘発したとしてほめられました。敗戦後スパイ容疑の現地人を処刑した責任を問われたとき、上官たちは木村久夫上等兵に「命令を下した」という真実を話すことを禁じ、罪をかぶせました。
 そのことを、塩尻公明、神谷美恵子、作田啓一、五十嵐顕、鶴見俊輔などの著作を引きながら著者は詳述しています。精読はしませんでしたが気持ちは波立ちました。
 生きてあれば世のため人のために誠実に仕事をして一隅を照らす役目を果たしていたであろう人たちが死地に追いやられ、他人に罪をなすりつけ、ずるく立ちまわった人たちが生き残って敗戦後の社会をつくったのであれば、私たちの暮らす社会はよい社会になれるでしょうか。あの戦争と敗戦後のできごとは、私たちの心と血管がつながっており、まだ歴史に送り込むことができません。
コメント
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