幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

心を休ませる

2011年05月16日 19時06分52秒 | ひとりごと
 「オーガニックライフ メッセージ
          都会で自然に暮らすには」 より




“ある時、僕は、ひどいストレスに押しつぶされそうになって
禅の先生に相談しました。

すると彼は
「休んでください」
と言ったんです。

僕が
「仕事が大変で、休む暇などありません」
と答えると、先生はおっしゃいました。

「そうではありません。心で休むのです
と。

忙しさで、パニックになり、
ほかの事が何も考えられなくなる事はだれにでもあります。

その時、僕たちは目の前に花があっても
その美しさに気づく事もできません。

けれど
立ち止まってその美しさに心奪われ集中できたら
忙しさも仕事の事も
その瞬間は心から追い出す事ができます。

明日のことだけ考えて行動していたら
“今”という時は何ひとつ味わえずに過ぎてしまう


今、ここだけにしかないものの素晴らしさを受け止めるこころを持つ事が大切なんです。





・・・できそうで
なかなかできないこと。


でも
私たちは
過去には戻れないし
未来に行く事もできない。

「今」「現在」「この瞬間」
にしか生きることが出来ません。


だのに、それを意識せずに
それを味わわずに
流してしまっている事が多いのではないでしょうか。


明日を、いえ、
一分先を心配したり憂いたりしている暇があるのなら
「今」「このとき」を
ステキにして、味わう事に一生懸命になったほうがよさそうです。

ピエールというバラ

2011年05月16日 17時45分56秒 | ひとりごと
 ピエールが咲いた。

数年前に大好きな友人から貰った苗が
今は1メートルくらいに成長し
今年も花を咲かせてくれたのだ。


手入れがいまいち上手ではないからだろう。
茎はヒョロヒョロしていて葉の茂りも少ない。


それでも
直径10センチ以上の花を初めとして
7つの花が咲いてくれたのだ。

なんでも、今、女性に最も人気のあるひとつらしい。





 このピエール、
全体的に丸みがあって
ポテッとしている。

丸みのある花びらが
幾重にも重なり
細い茎から大きな花が
重たげに首をうつむかせて咲いている。


なんだか、西洋の優しい貴婦人を思わせる。

こういうのを、オールドローズっていうのかしら・・・?


つぼみの時はクリーム色で
咲くと優しいベビーピンクになり
日を追うごとにそのピンクが濃くなっていく。
ショッキングピンクとまではいかないけれど
かなりはっきりした色になるのだ。


そういえば、日本には
「酔芙蓉」という花がある。

たった一日でしぼんでしまう、いわゆる「一日花」なのだが
この花、
咲いたときは真っ白なのに
夕方になるにしたがって
まるでお酒を飲んだような紅色になるので
「酔」という名がついたそうだ。

大きくて華やかで
でも、静かで、はかない花だ。



ピエールはなんだか
「酔芙蓉」の長時間版みたい。



・・・そんな事を思いながら
7つの花の
微妙に違う大きさや色合いを楽しんでいると
ふと、
誰かに似ている気がしてきた。




だれだろう・・・・・?




と、友人や知人たちの顔を
その花の上に重ねてみる。




ああ、彼女に似ているんだ。



そう、この花の苗をくれた本人。
彼女にそっくりだわ。


うん、うん、似ている、似ている。

このポッテリとした丸み。

この華やかな花びらの重なり。

それに何よりも全体から醸し出される暖かさ。

全く彼女そのもの。



などと、ひとり妙に納得したりして悦に入る。





ところが!!


・・・あれ?!・・・でも・・・



と、別の顔が横切る。


そういえば、
彼女といつも一緒に
私に私に会いに来てくださる他の三人にも似てるなぁ。


ま、彼女たちは仲良しグループで
本当にみんな素敵な人たちだから
似ていて当たり前、かも。

仲良しだから波動や雰囲気もよく似るのよね、

と、これまた自分で納得した。




しかし!!だ。

奇妙な事に
その後もピエールの花の上に
次から次へと違う人々の面影がどんどん出てくるではないか。



私の一番大切な中学校時代からの大好きな友人。

彼女にも似ている。

おまけに、私が人生の第一の師とした彼女のお母様の笑顔にも似ている。



さらには
この間このブログにも登場した教師をしている愚痴りやの
でも素直で純真な彼女の横顔が浮かんだり、


栃木に住んでいるとってもピュアな若い友人に見えたり、

とにかく、次々と
大切で、大好きな人たちが思い浮かんでしまった。



これはいったいどうしたことか?!

どうして、一つの花に
こんなにたくさんの人が重なるのか。


第一、彼らは皆
それぞれに全く違った個性を持っているではないか。


だのになぜ・・・?




不思議だった。



どうしてなんだろう?

どうして、似ている人が
そんなにたくさんいるのだろう。

どうして、この花は
みんなに見えてしまうんだろう。





 ひとりひとり
みんなのことを思い出し
ピエールを眺め
さんざん考えて気がついた。



私が大好きな人たちは
みんな、優しい。
みんな愛がいっぱい。
みんなピンクの波動を持ち合わせている。



ピエールのように
みんな
柔らかくて
暖かくて
美しくて、けなげ。


そして
みんな、一生懸命、精一杯に生きている。






ピエールも
優しくて
柔らかくて、
暖かで、
けなげに精一杯自分の命を咲かせている。

そして静かに美しい。

見るものを一瞬にして包み込む「愛」を放っている。



その愛こそが
ピエールと彼女たちの共通点なのかもしれない。




愛を持って生きるどんな命にも共通する美しさだから、

だから、

きっと、

誰を思っても
「似ている」と感じてしまうのかもしれない。







 ピエール、
咲いてくれてありがとう。

私の大切な人たち。
美しくいてくださってありがとう。


なんだか
今、わたし、確実にしあわせです。

ありがとう。ありがとう。ありがとう。







神社参拝の心得

2011年05月14日 22時43分43秒 | ひとりごと
 パワースポット巡りや
神社参拝の流行っているこの頃ですけれど・・・・・

ご存知でしたか?

神社って参拝する2週間ほど前から
神様にアポを取らなきゃならないって・・・・・


今日読み終えた本
「運はいつでも変えられる」白伊風あまね(しらいしあまね;本当は伊ではなくこれの人偏を取った字です)
に書いてありました。



まったく   でした。





今まで
たくさんの神社をお参りしてきましたけれど
アポを取った事は一度もないんですもの。

第一、アポが必要だってことさえ知りませんでした。

皆様、ご存知でした?????




では
ご参考までに
そこの部分をご紹介いたしますね。



「神社のパワーを頂く方法」P.154

 {神社にお参りする前に}
   
   誰かにお願い事するのに、突然訪問し
   自分のお願い事だけ言って帰るような
   失礼な人はいませんね。
   あらかじめアポを取り
   紹介状や菓子折りを持参して先方に向かうはずです。
   神社の参拝も同じ。「事前の段取り」が必要です。

   神社に行く2週間ほど前から、
   その神社に向けて徹底的に祈りましょう。
   ---略ーーー
   「○○に住む○○と申します。
    ○月○日に参ります。
    どうぞよろしくお願いいたします」

  あわせて、その神社の神様が幸せでありますように、
  その神様の願いがかないますように、
  そして、その神域全体が発展繁栄しますよう祈ります。

  参拝の当日までこの祈りを毎日続けましょう。
  すると、その神社の御祭神はあなたの祈りを
  事前に受け止め知っているので
  参拝した際に、喜んで迎えてくださいます。

 もちろん何も祈らず突然お参りするときよりも
 祈りは数倍通りやすくなります。



・・・とのことです。




ひぇ~~~

今まで、一度もしたことなかったわ



神様、いつも突然で申し訳ありませんでした   
ご無礼の段、平にお許しのほどを・・・・・   





ま、最も、別の本には

神社で願い事はしない。
 ひたすら感謝だけを捧げなさい」



とも書かれていますけれど・・・




ちなみに最近の私は神社での
お願い事はやめました。

どこの神社にうかがっても

「本日ここへ来させていただいたことに感謝申し上げます。
 どうぞ、世の中が平和で、愛と光に満ちますように。
 ありがとうございました、ありがとうございました、ありがとうございました」

とのみ、お参りする事に決めています。


なぜなら

「全ては十分に与えていただいている」
という意識を持つ事により
その現象を実現させる

という宇宙のエネルギーの法則を信じているからです。


そしてもうひとつ、
招かれなければ参拝できない、

というのも信じていますので。




でも、まあ、失礼だと言われてみれば
そんな気もするので、
突然ではなく、一度くらいは
事前アポの祈りも捧げてみようかしら   

本当にしたいことはできる?!

2011年05月14日 21時41分31秒 | 波動
 友人は自称「女優」である。

5年前から名古屋にある劇団に所属し
今、名古屋の芸術劇場で上演されている「泰山木の木の下で」という芝居に出演している。

それは山田昌という
名古屋弁を売りにしている地元の女優が主演している。


以前、
そう、もう20年位前
私はこの人の出ているNHKのドラマを見てこの人のファンになった。
そして4年前
縁あって
彼女の主宰する劇団の研修生になった。

しかし、一日おきの夜のレッスンはまだしも
成果を発表する公演のための準備は
主婦でありながら
下準備の必要な仕事を持っている
50過ぎの私には
肉体的にかなりの負担があった。

真夜中まで続く稽古
深夜に帰宅し
翌朝の朝食や仕事の準備
おまけに
大道具の製作や
会場設定
時間的にも体力的にも
そして、家族への負担も
限界に近かった。


・・・で、舞台は楽しくやりがいがあったが
一年でリタイアーしてしまったのだ。

ところが、友人は
その1年先輩で
歳は5つ下、というだけの
ほとんど条件の同じ主婦なのに
頑張って今日まで続けているのである。


出会った頃に彼女は言った。

「おこがましいかもしれないけれど
 昌先生と同じ舞台に立つのが私の夢なの」


何十年も女優をしてきた人と
始めて間もない彼女が同じ舞台に立つ。

それを彼女は
「おこがましい」と表現したのだ。



しかし今、
その思いは実現した。

二人の絡みこそないものの
彼女はしっかりと山田昌と
同じ舞台の同じ場面に出ているのである。


願いは5年でかなったのだ。

山田昌はもう80歳に近い。
いつ、引退するかもしれない。

けれど
きっと二人の絡みのある舞台に
彼女は立つだろう。


彼女が具体的にそれを想像し
必ずかなうと信じて努力を続ければ
間違いなくかなうはずだ。



だって、宇宙のエネルギーは
そういう風に出来ているのだから。



私たちは
「本当にしたい事」は
絶対に出来るようになっているのだから。




彼女は

“しっかりとビジョンを持ち
 それを信じて疑わずに努力し
 いつも明るく素直に感謝して生きれば
 必ず思いはかなう”

ということを見せてくれたのだ。


被災者の幸せ

2011年05月11日 21時48分15秒 | ひとりごと
 連休中、いろいろ遊ばせていただいて
たくさんの事が本当にありがたく、
なんだかんだといっても
今の境遇を支えてくれている夫に感謝した。

でも、そうであればあるほど
心の片隅で
あの言葉がこだまし
心が疼いてくるのだ。


「私は何もかもを失った。
 大事なお店も道具も、家も・・・
 これからどうするのかと思うと絶望的になる。

 ・・・だから、楽しそうにしている人を見ると腹が立つ。
 有難いなどと言っている人を見ると腹が立つ」




石巻の湊小学校で受付のボランティアをしていた時に
被災者である同年代の女性に言われた言葉だ。



 
 “実際には
  私のように
  中年以上の年齢で
  被災未経験の
  特に何の資格も持っていないような女性が
  現地へ赴いても
  役に立てる事は少ないです。


  泥かきや水汲みは体力のある若者や男性でなければ無理ですし
  炊き出しは
  自衛隊や避難民の中の有志がすでにチームを組んでいます。

  物資の運搬も力仕事なので
  私たちでは自分自身が身体のどこかを傷め
  迷惑をかけかねません。

  ですから現地に赴くよりも、
  むしろ
  こちらにいて
  自分に出来る事考えたほうが良いと思います。



  例えば
  募金活動をしたり、寄付したり
  あるいは
  救援物資の分別のお手伝いをしたり・・・


  さらには
  現地に近いところへ旅行したりして、お金を使い
  経済をまわす事も一つの援助になるのではないかと思います」



・・・石巻から戻り
「どうでしたか?」
と問われる都度
私はそう応えてきた。


そうして
自分はささやかな募金活動をし
物資の分別ボランティアにも参加した。


被災地以外の経済が元気でなければ
支援も出来なくなる・・・という考えもあり
「遊ぶ」事も大事だと自分に言い聞かせ、
夫と温泉に行ったりもした。




 でも、何をしていてもどこにいても
何だか罪悪感がつきまとう。

「東北の人たちは今も避難所暮らしなのに、こんな贅沢させてもらって・・・」

「被災者たちは絶望と不安で一杯だというのに、私たちは幸せで・・・」

と、辛くなる。

そうして、湊小の人々や
自衛隊の人たち
福島の避難民たちの顔が浮かんできてしまうのだ。





そんな中
石巻で知り合った被災女性の一人から手紙が届いた。


彼女は一階が津波にやられ
かろうじて住める母親の家の二階に暮らしている。
もちろん
ライフラインは全て寸断された。

手紙には
津波の被害から20日後の3月31日の出来事が書かれていた。

その中の一節


“泥の中から長男が拾ってきたボロボロの自転車を押して
 末っ子の祭(まつり)と一緒に
 被害が小さくて営業を再開したスーパーへ
 買い物に行きました。

 この自転車はカゴはグラグラでいまにも取れそうなうえ
 チェーンはさびて、よく動くなぁ、といった状態でした。

 だから、自転車で行ったとはいえ
 ほとんど、歩きの状態。

 でも、この長時間を要したお買い物&お散歩がとても楽しかったです。

 その道すがら
 祭りが突然
 「震災に遭い、しあわせだね」
 って言いました。
 驚いて
 「どうして?」
 って聞き返す私に彼は応えました。

 「電気もつかなくて、水も足りなくて、とってもエコだもん」

 今までと違う不自由な生活の中でも
 それを不自由と受け止めない彼の強さに励まされました。 ” 





この後
彼女はさびた自転車の荷台に息子を乗せ、
自分はそれを押しながら歩いて帰ってきたようだ。
瓦礫と汚泥と悪臭に満ち、廃墟と化した町の中を
幸せを感じながら。



彼女は無くしたものが少ないから・・・と言ってしまえばそれまでだろう。


でも、祭りちゃんのように
あるいは彼女のように
目の前の現実を「幸せ」に変換する力を持っていれば
同じ被災者であっても「辛さ」や「絶望」から救われる、

と思わずにはいられない。


そして
先の女性の言葉に胸の疼きを感じながらも
彼女が祭りちゃんやのそのおかあさんのように
「まだ、手元にあるしあわせ」の種を
大きく大きく変換できるようにと祈る事も
今私にできる事のひとつなのかもしれないと思うのである。