幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

いまどきの回転寿司 

2011年01月30日 12時46分04秒 | 暮らし
 富山の新鮮な魚が売り物という回転寿司が地元にオープンした。

なんでもテレビで取り上げられていたとかで
近くに住んでいるわたしは、
場所や内容を知り合いにたずねられ、
リサーチすることを請け負ってしまった


 そもそもが、回転寿司を好まない私は
行ってびっくり!! 
見てびっくり!!   



 なんと、注文はタッチパネル  
いまどきみんなそうなんだとか・・・ 


しかし、カウンターの前方、やや高めのところへと仰向き
タッチパネルで注文するなんぞや
もうその段階で、食欲は損なわれてしまった。



オープンしたてで、夕食時ともなれば
客は順番待ちをしている。

機械から押し出される番号札をとり、
館内どころか館外にも聞こえるような
大きな呼び出しマイクの声が広い館内に
始終響き渡っている。


なんだかまるで、混んだサービスエリアの食堂にいるような雰囲気だった 


やがて、タッチパネルで注文した寿司(?)は
新幹線、もしくはサーキットカーに乗せられてやっきた。
そして目の前のカウンターの上に止まりブザーが鳴る。

それを自分で取って食べるのだ。

話には聞いていたが、なんとも味気ない。
「こどもたちはよろこぶよ」
なんて、そんな子供たちにして欲しくない 



オマケに
寿司飯はだらんとしてしまりなく、
いわゆる上手な職人が握ったときの「気」が全く入っていない。

ま、あたりまえのことか、機械が固めるだけなのだから

しかし、これではうたい文句の「こしひかり」がかわいそう
お米だって、おいしいご飯になってこそ昇華できるというもの。



ネタは・・・?と言えば、
すでに、お店の空気で食欲をなくしてしまった私は
紋甲いかと、ホタテを一個ずつしか食べなかった 

ので、なんともコメントしかねる、

が、
その二つについては新鮮は新鮮だったように思うものの
既存の回転寿司とそんなに違いがあるかと問われれば・・・・・
あまり利用しないので、わからない 

ただ、はっきりといえるのは
握りずしというものはシャリとネタとの調和あってのものでしょう!!

すくなくとも
このシャリではわたしは二度と食べたくはありません、
と言う感じだった。




それにしても、もし
このようなお店が世間で成り立っているとするならば
人間もどんどん家畜化しているということなのか。


いつかどこかで目にした、牛だったか鳥だったかの飼育場のえさやりの光景が重なってしかたない。


人手を省く為に
ラインに沿って餌は勝手に運ばれ
そのラインに沿って並んでいる家畜たちは
そこへ顔を突っ込んでいっせいに食べるのだ




みんなが食べる姿を見て思った。


ああ、これは食事をしているのではないな、
「エサ」をあさっているのだ・・・と。




一方では「食育」などという言葉さえ飛び交っていると言うのに
子供を育てる大人たちがこんな「エサ」場を作り、連れて行く、
ということに
憂いを感じる私は「古い」と片付けられてしまうのだろうか。



どういわれようが
「食べること」が「生きかた」でさえあると思っている私にとって
これは食物への冒涜であるとともに
人間性への冒涜でもあり
子育ての大切さをないがしろにする以外の何者でもないような気がしてならない。

葉桜の季節に君を想うということ

2011年01月30日 12時46分04秒 | ひとりごと
人生の黄金時代は老いて行く将来にあり、
過ぎ去った若年無知の時代にあるにあらず。
 
 ーーー林語堂ーーー



「葉桜の季節に君を想うということ」と言う本の本文最終ページに書かれている言葉です。 

この本はミステリーものです。

私は普段はミステリーを読みません。

たまたま、読む本がなくなって本屋に行ったら目に付いて、
カバー裏にかかれていた
あらゆるミステリーの賞を総なめにした本作は
 必ず二度、三度と読みたくなる究極の徹夜本です
という言葉に惹かれて買ってみただけのこと。

ようするに暇つぶしに読んでみたのです。


確かに、徹夜本でした。
厚さ2センチ弱の文庫本は
途中で切ることができず、一気に読まずにはいられませんでした。
さすが、ミステリーの賞を総なめにしただけのことはあります。


・・・でも、内容は、といえば
私にとってはやはり暇つぶしでしかなく、あくまで娯楽の範囲でした。
買ったことももったいなければ、まあ、読まなくてもよい本でもあります。


ただ、終わりの方で主人公が口にする言葉のいくつかは
すでに身体や脳の衰えを感じ始め
決して若くはないことを痛感し始めた私にとっては
心せねばならないことでした。

最後の四ページに作者の哲学がこめられており、
それはとりもなおさず中高年者への応援歌になっています。




冒頭に紹介した言葉はそれら全ての言葉が終わり
ストーリーがTHE ENDになったのちの
次のページのどまんなかに一行で書かれているものです。



女優山本陽子が雑誌「婦人画報」のインタビューで語っていた言葉

「老いることなんてこわくもなんともない。
 そのぶんだけ抽斗は増えていくから」

と重なりました。




若い頃と比べれば
皺やシミが増え、運動能力、記憶力、瞬発力は確実に衰えています。
男の人にちやほやされることもなくなりました。


それでも私は今の自分が一番好きです。
若い頃の自分に戻りたいとは思いません。



『葉桜の・・・』の中で主人公は言います。


「花が散った桜は世間からお払い箱なんだよ。
 せいぜい葉っぱが若い五月くらいまでかな、見てもらえるのは。
 だがそのあとも桜は生きている。今も濃い緑の葉を茂らせている。
 そして、後もう少しすると紅葉だ」

「花が見たいやつは花を見て愉快に騒げばいい。一生のうちにそういう季節もある。
 葉を見る気がないなら見なくていい。
 しかし今も桜は生きていると俺は知っている。
 赤や黄色に色づいた葉は、木枯らしが吹いても、そう簡単に散りはしない」

と。

そしてさらに自分自信につぶやきます。

「桜の花は本当に散ったのか?

 ・・・俺の中ではまだ満開だ」




肉体的に花が散ることは避けようがありません。
けれど自分の中で
精神的に花を散らすかどうかは
ほかならぬ自分自身にかかっているのではないでしょうか。


そしてまた、葉桜や、桜もみじの美しさを堪能できるかどうかも
己次第なのではないでしょうか。


あなたはあなた自身で
花を散らせていませんか?


人生の黄金時代は老いて行く将来にあり
過ぎ去った若年無知の時代にあるにあらず。



・・・この言葉、私はいただきです 

ニーチェの言葉

2011年01月28日 18時31分45秒 | ひとりごと
「ニーチェの言葉」と言う本をお読みになりましたか?
昨年辺りから、若者に人気があって本屋では平積みになっている本です。

ご存じない方のために説明するならば
あの有名なニーチェの言葉が一ページごとに短い文章で
タイトルごとにまとめてあるのです。

いわゆる「名言集」のようなもので
その全てがニーチェの言葉なのです。


先日、ある人にあることの御礼に
ささやかなプレゼントがしたくて
あれこれ探したのですが
適当なものを見つけられず
あきらめて自分用の本を買いに本屋へ行きました。

本屋へ足を運ぶのは何ヶ月ぶり?!・・・というほど
久しぶりでした。

そこで、この「ニーチェの言葉」に出会いました。
と、言っても
散々自分の読む本を物色しての帰り際のこと。

何気なく手にとり
パラパラとめくったページの言葉が気に入り
これならば
好きな時に好きなページだけを読むことができるから・・・
と、その人へのプレゼント用と自分用に2冊買ってきました。



次の日
短い講演会を聴く機会があったのですが
一緒に参加していた彼女に
講演が始まる前にタイトルは言わずにその本を渡しました。

ところが、講演会が始まってびっくり!!
講師が「ニーチェの言葉」の本を話題にし始めたのです。
なんという共時性 

嬉しくなって彼女にそれを持っているかどうか尋ねました。
すると
「ここへ来る前に駅の本屋によってそれを見つけ、
 凄く欲しくなったんだけれど
 重そうだったから、帰りにしようと思って買わずに来ちゃったの」
と答えるではありませんか 

これまたなんというGOODタイミング

もし彼女が買っていたなら二重になっていました。

二重にもならず、講師が話題にした本を
その日にプレゼントできるとは・・・
しかも
前から計画したことではなく
偶然久しぶりに寄った本屋で
何気なく手に取った本です。


これこそ、共時性
ほんと、神様って凄い

欲しいと思っていらしたものを
一番良いタイミングでプレゼントできて
こちらも本当に嬉しくて・・・・しあわせでした。


ちなみ、その本をパラパラとめくって
一番初めに目にした文章は

“ 032

  人を喜ばせると自分も喜べる
   誰かを喜ばせることは、自分をも喜びでいっぱいにする。
   どんなに小さな事柄でも人を喜ばせることができると、
  わたしたちの両手も心も喜びでいっぱいになるのだ。   ”



・・・ありがたいことでした。

今年、どう生きる?!

2011年01月13日 17時57分35秒 | ひとりごと
 まだ、松の内。

この頃は、世間のお正月はすっかり短くなってしまって
三日正月だったり、一日しかなかったり
せっかく来てくださる歳神様を
あわただしく追い返しているようで申し訳ない気がします。

昔のように11日に鏡開きをし、14日の左義長に注連飾りをはずして
それでようやく松の内が終わって
歳神様もお戻りになる・・・という
ゆったりしたお迎えの仕方をしてみたいもの。



と、かなわぬぼやきはさておいて
せっかくの年頭なのですから
やはり
今年の抱負などを考えてみたいですね。

今年
何をするか。
どこへ行くか。


したいことも
行きたいところも
山のようにあります。



さてさて、
どれを優先させようか・・・と悩んでいると
去年観た、ある映画を思い出しました。


「幸せの作り方」????
だったか
「幸せの見つけ方」
だったか・・・・・・

題名は定かではありません。


ものすごい大金持ちの白人と
どちらかといえば貧乏な、でもまじめに働いて
家庭を守ってきた黒人の
初老のがん患者の話でした。

二人とも
もう余命は長くはなく
偶然に
病室が一緒になってしまった二人が
「死ぬまでにやってみたいこと」リストを作り
それを順番に実現していく、というストーリーでした。

一人が桁外れの大金持ちであるが故に
ほとんどの望みはかなえられていきます。

そんな二人の心の変化を表し
最後にたどり着く境地は・・・
という映画でしたが
ふと、その
「死ぬまでにやってみたいことリスト」
を、思い出し
私も今年末で命がなくなるとしたなら
絶対これだけはしておきたいという事を書き出してみようと思いたちました。


いや、きっちりそれを実行する為には
「今年中」ではなく「この一ヶ月のうちに」
と、期限を狭めたほうがいいわ、

と考え

ぜったいに死ぬ前にしておきたいこと!!

この一ヶ月のうちに死ぬとして
これだけは絶対にしておきたいこと!!


を真剣に考えてみたのです。



なんだろう・・・・・
なんなんだろう・・・・・・


あそこも行きたい、ここも行きたい、
でも、死ぬ前に絶対行っておきたい処って、どこ?!

あれもしたい、これもしてみたい、
でも、一ヶ月の余命の中で
絶対に、絶対にしておきたいことって何?!


考えました。
一生懸命に考えました。

・・・でも!!
ないのです
!!     

考えれば考えるほど、なくなってしまうのです。



あれもほしい、これもほしい、
あそこへ行きたい、ここへ行きたい、
あれがしたい、これもしたい、
それができないのは
お金も時間もないから・・・・・

と、普段、自分の境遇にやや不満を持ち
もっと、時間のたっぷりあるお金持ちならいいのにな、
などと願っている私なのに
「唯一絶対にしたいこと」
どうしてもしぼれないのです。


したかったことも
欲しかったものも
行きたかったところも
結局、みんな、たいしたものではないような気がしてきてしまったのです。



で、はたと気づきました。

なあんだ、わたしって、けっこう満たされているんじゃん 


そして
その後に思ったのです。



もし、あと一ヶ月しか命がないならば
どこへも行かず、特に何をするというのでもなく
ただ、
いままで、私に関わってくださった方々に心からのお礼とお別れがいいたいな。
主人と、娘と、父と、母に
おいしいご飯を食べさせてあげたいな。

・・・と。



なぁんだ、そんなこと、
すぐにだってできちゃう、超簡単なこと!!

・・・だったのです。



で、そこまで考えてやっとわかったのです。


一番大切なこと、一番やりたいことは
すでに与えられている



与えられていながら
それを一番大切なことにし切っていなかったのは私。


そのことに気づいていなかっただけ。

あーあ、愚かな私。

すでに持っている一番大切なことをないがしろにして
他ばかりを観ているなんて。

なんという、意識の低さよ 





ということで、
今年の私の目標は
「みんなに、最後の(つもりで)感謝の言葉と微笑を贈ること」
「ご飯を毎回、心をこめて作ること」
と、あいなりました 



すんごい平凡!!
なんというありきたり!!

でもいいのだ   

これでいいのだぁ 

それが、死ぬ前にやっておきたいことなのだから 



あっ、
もちろん、そこそこやりたいことや、行きたいところへ行くことは
しっかり、ぼちぼち、
昨年以上に実現しながらの話です。ホホホホホ・・・・・ 



せっかくの新年です。
一年の計は元旦にありと申します。

みなさんも、
「余命一ヶ月」の覚悟で考えてご覧になりませんか?

幸せになろうね

2011年01月05日 09時51分47秒 | ひとりごと
あけましておめでとうございます
今年も、訪問してくださってありがとうございます。


どんな年頭をすごされましたか?


私は去年の暮れから実家に帰って
御節料理を作ったり
屋根の雪を降ろしたりと、
結構、肉体的にハードな年末年始でありました。

おまけに、精神的負担を与える「夫」と始終一緒でしたから
よけいにハードでした。



でもそんな中でも、
小学校6年生の甥っ子とオセロをしたり(負けっぱなし・・・・・ 
久しぶりの屋根の上からの風景を楽しんだり
考えてみれば
それはそれで
面白い時間でもありました。



屋根雪を下ろすのって
危険ですし
重労働ですし
なれないと、とってもたいへんなんです 


でもね

肝心なのはここなんです!!

「たいへん」って思ったり言ったりすれば「たいへん」になるけれど
「なかなかいいじゃん 」って思えば
それはそれでよくなったりもするんです。



例のわが夫
「たいへん」「嫌だ」
が口癖の人 

だから、彼にとっては屋根雪下ろしはもちろん「たいへん」で嫌なこと。

始終、怒りながらやっていました 

「やっぱ、雪国なんて住むモンじゃないな」
とか
「だから、雪は嫌なんだ」
とか・・・・・



でも
私は雪かき(雪をよけたりすることをこう言うんです)嫌いじゃありません 

はじめのうちは寒いけれど
続けていれば汗をかくほどあたたかくなってきますし
体全体のいい運動になって
終わった後が気持ちいいんです。


屋根の雪下ろしをしたときなんて
久しぶりに晴れた青空と真っ白な雪のコントラストが
めちゃくちやきれいだったし
屋根の上だから
遠くの山が見渡せて
それが青空の中で白銀に輝いていて
美しくて、雄大で、
あんな光景は雪国でしか味わえません 


おまけに順番に屋根の上がきれいに軽くなっていくので
仕事の成果が目に見えて
とってもやりがいもあります。


だから
私にとって
数十年ぶりの雪下ろしは
とっても気持ちの良いものでした。



怒りながら
嫌々やっていた夫と
無心に雪に対することを楽しんでいた私とでは
傍からみれば同じ行為同じ時間を費やしていたのに
実は
全く幸せ感が異なっていたのではないでしょうか。


私のほうが得しちゃったもんね 


・・・・・とまあ、そんなことを新年早々感じていたのですが
珍しく今朝嫌いな新聞を読んでいたら
コラム欄にこんなことが書かれていました。



“何かを「よい」と評価するなど、自分がある行動をとる。
 すると、「そういう行動を取った以上、自分はそう思っていたのだ」
 と自覚する面が私たちにはあるそうだ。
 自己の振る舞いが自己の感じ方や意見に影響する。
 心理学では「自己知覚理論」というらしい。
 素人考えだが、ならば、元気に振舞えば元気になってくる、ということにもなろう。

 ーーーーー中略ーーーーー

 昨年の中日歌壇の年間優秀作にはこんなステキな作品があった。

  <街を行く人らの顔が去年より好意的に見え好意的に見る>
                        名古屋市 杉大輔

 
 今年は何事も、少し「好意的に見る」という行動を心がけようか。
 それが自分の考え方に影響し
 いろんなものが「好意的に見え」てくるなら悪くない ”

                    2011.1.5 中日新聞 中日春秋





・・・いい言葉だな、と、気をよくして
珍しく他のページにも目を通してしまいました。
(もちろん読みたくない、気の重くなりそうなものは避けてだが・・・)


そうしたら、一男三女を特別養子縁組した福井の家族の話
京都の山奥に移り住んだ一家の話
吉本バナナの「どんぐり姉妹」の情報

おまけに千葉の若い市長さんの「授かり婚」の話まで

なんだか心を優しくしてくれる記事に出会えたのです。


もしかしたら、
今まで私が望んでいた
「心が楽しくなる記事、ニュースの多く掲載された新聞」
に近づき始めたのかしら・・・・・????


と、ちょっと、新聞を「好意的に見る」ことができました。



幸せって
どんなことにでも潜んでいます。


でも、どんなに恵まれた環境にあっても
自分がそれを探せなければ幸せにはなれないのです。


しあわせになろうよ 


しあわせになろうね 



いろんな事を好意的に見て
いろんな苦労を楽しんで
遭遇する全てのことを幸せにしちゃおうよ 


それは簡単 

「しあわせだ」って思えばすむこと
   





・・・・・私の場合
まずは「夫」を好意的に見ること?!

あは
超、むずかしそう