幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

夫との一泊は・・・

2011年05月10日 18時13分44秒 | 暮らし
夫はトヨタ系の会社に勤めている。

今回の東日本大震災の影響でトヨタが順調に機能できず
したがって
彼の会社もゴールデンウィークが延びた。


で、彼はどこかにお泊りで遊びに行きたくてたまらない。

が、こちらは
春から、伊勢だ、宮城だ、実家だと
出歩いてばかりなのでと
ゴールデンウィーク中の渋滞を承知で出かけるなど
まっぴらごめんだった。



「一般の人の連休の明けた
 近場の疲れない所なら付き合うけど・・・」

と、生返事で濁しておいた。


すると、
近場も近場
浜名湖の舘山寺温泉を
知らないうちに予約してしまったではないか  

い、いまさら
わざわざ一泊で
舘山寺?!

家から1時間もあれば行けるような
日帰りで十分な舘山寺   


・・・・・とは思ったけれど・・・・・

そこはホラ
心やさし~い妻の事
イヤとは言えない。

それに
これだけ自由気ままをさせてもらっている以上
これ以上、彼を無碍にするわけにもいかない 



確かに疲れるほど遠くないし、
一般的には連休明けだし・・・


ま、しかたないか・・・




と言うわけで
8,9日の両日
星野リゾートが再開発した「花乃井」へ行って来た。




 去年、母の誕生日に父と娘と四人で
山代温泉の「白銀屋」へ行って来たが
ここも
星野リゾートによって再興された老舗旅館だった。

この白銀屋の接遇と夜のお食事がとてもよかったのが
まだ記憶に新しいため
ちょっぴり期待しながらのれんをくぐった。



まず、車寄せに出迎えてくれたのは青年が一人。
なかなかの好男子   


どこぞやの旅館のように仲居さんがずらっーと並んで・・・などと言う光景はないし
「女将」と言う立場の人もいない。

旅館だけどホテル、と言う雰囲気。


ロビーのフロントに二人と迎えに出てくれた彼の三人だけ。


デザイナーが入ってるよね、と言う感じのレイアウト。

いまはやりの、都会的な雰囲気に改装されている。




う~ん、確かに白銀屋との共通点が多い。


あたりまえか、同じ経営なのだから・・・

などと思いつつ
さきほどからの青年の接遇を受けていた。



この青年が実に感じいい。

おほほほ、私好みのさわやかで、可愛げのあるイケメン   

・・・これだけで
気分が良くなる私はすでに十分におばさん?!


そういえば
白銀屋で夕食の接遇をしてくださった若者もとっても感じの良いイケメンだったっけ・・・



と思うと同時に
おばさんはついそれを言葉にしてしまっていた。


「星野リゾートさんて
 フロントと食事の接遇には
 あなたのようにとても感じのよい美しい人ばかりを配置なさるの?」



可愛いぼうやは真っ赤になって
でも
とても嬉しそうに

「い、いえ、私など、そんな・・・・・」

と謙遜していた。


おばさんは追い討ちをかける 

「あら、あなたは十分に素敵だし、
 なんといってもとてもさわやかで感じがいいわ 

 白銀屋さんでも、夕食のお世話をしてくださったのが
 とても綺麗で感じのよい方でね。
 おかげで、幸せなお夕食をいただけたのよ。


 ね、あなた?!
 田中さんはとてもいい感じよね?!」


すばやく胸の名札を読み、
相手の名前を口にしながら
となりの夫にまでも相槌を強要(?)する。




彼はますます嬉しそうに
それでも、謙遜しながら


「ありがとうございます、

 私など、とんでもない話ですが・・・
 では
 お夕食の際はお楽しみになさってくださいませ」


そう言って下がって行った。





さあ!!
いよいよ、そのお夕食。


おばさんはウキウキしながらお食事どころに向かった。




この頃つくづく思うのだ。

夫と二人で宿泊するときは
絶対に部屋食にするべからず!!
・・・と。

だって、いまさら、部屋で二人きり
差し向かいで、
一体何を話せと言うのか。

ほとんど話す事もなく
家にいる時と同じようなパターンで
へたすりゃ、二人ともテレビを見てたりする。

高いお金を払って、
なんでわざわざ、
そんなつまんない食事会をしなけりゃなんないの?!



その点、食事どころだと、
他の家族の観察ができておもしろいし
なによりも、給仕してくださる方との会話が楽しめる。


うふふ、今夜はどんな人かなぁ 


席についてお絞りを使っていると
さっきの坊やがやってきた。


そして照れ臭そうに言った。

「今夜は、私が担当させていただく事になりました」



「あら!!うれし~~~


間髪いれずに応える

これで、今夜のお夕食会はだいせいこう  



お料理に合わせたお酒選びにも気持ちよく真剣に応じて下さり、
終わりごろには、彼女の話まで飛び出して
最初から最後まで
おいしさと笑いに満ちた
とっーても幸せなお夕食と相成りました  



で、本日の教訓です。

「夫と二人の旅行は
 部屋食にするべからず。

 先手を打って
 給仕する人を喜ばせよ。

 されば
 満ち足りた幸せな夕食とならん」





P.S.

星野リゾートの
舘山寺温泉「花乃井」の田中君。

お世話様でした

あなたのおかげで、楽しい一泊でした。
ありがとうございました。
とてもとても感謝です。




さてさて
星野さん、
白銀屋と花乃井の共通点をひとこと。

従業員はみな、感じがいいし、夕食はとてもおいしいです。
館内の室礼も悪くはありません。

ただ、朝食はがっかりです。

前夜までが、気分良く過ごさせていただいたが故に
最後の締めくくりの朝食に
もう少し気配りが欲しいと思います。

品数は、今ほどなくてよいので
もっと
おしゃれに
朝のさわやかさを演出なさってはいかがですか?


今の朝食では
リピートする気が失せてしまいます。

以上、ご参考になれば
 
 

 

幸せは訓練?!

2011年05月07日 09時49分02秒 | 暮らし
 

教師をしている親友と半年ぶりにランチした。

高校からの友人で
同級の女性教師が教頭、校長へと出世するなか
彼女は「平」の現場が好きで
その試験さえ受けようとはしていない。


私はそんな彼女の生き方も素敵だと思っている。

オマケに彼女は
ある意味「天然ボケ」なところもあり
万年子供的なおもしろさがある。

一番良いところはとっても素直だということだ。



 ただ、残念な事に
彼女には、心配性なところがあり、「愚痴」をたっぷり溜める癖がある。

だから
その「愚痴」を吐き出す相手が欲しくなるのだ。


普段は同僚たちと「愚痴」を言い合い、共感しあって
翌日への精気を養っている・・・


とは、本人の弁明だ。



 その日
彼女は私の顔を見るなり
自分の仕事の話をしだした。

4月から
今までより、町の中にある大きな学校へと転任になり
まだ要領がつかめなくて大変なのだ。

最初のうちは
同情して聞いていた。

事務手続きの違いや同僚たちへの気遣い、
確かに
新しく入った者は一年ほどは小さくなっていなければならないだろう。
ところが
それなりの歳になっているから
仕事だけはたくさんまわされる。
そこでまた、負担と混乱が生まれてくるのである。


ああ、考えただけでも大変そう   

だいたい、今時
学校教師ほど大変な職業もあるまい。

上からの圧力、モンスターペアレント、
信じられないような言動の子供たち・・・


マイナス面だけを考えれば
絶対になりたくない仕事の一つだ。

何を好き好んで!!・・・とさえ言いたくなる。

けれど
その仕事にさえ、いい面はあるはずだ。

でなければ、
世の中の教師は成る者がいなくなる。

大変で、苦労も多いけれど、
得るものもたくさんあるから
多くの人が今なお、その職業に従事していられるのではないだろうか。
(もちろん、ノイローゼになって辞める人もいるが  )




彼女の愚痴は延々と続いた。

それでも私はそんなに苦ではなかった。


が!!
彼女の話が児童への否定と投げやりな対処に及んだ時
私は切れた   


自分に与えられた大切な事柄を
「否定的に捕らえる」態度に腹が立ったのだ。


今までも
私はこのブログに書いてきたような事を
機会があるたびに彼女に話してきた。

心配や不安は何の特にもならないし
むしろそういう現状を引き起こしてしまうのだから
考えるのなら「良い」映像を浮かべよ、と。


ところが彼女は
その時も
クラスの問題児を否定し
その子が起こすであろう事件を口にしたのだ。
そうして
それが起きた時の自分の態度さえ口にしたのだ。

まったく、投げやりで否定的な態度を、だ。






心にイメージした事は起き得る

という事を忘れてはならない。

自分が幸せになり
人が幸せである為には
自分の思考に留意しなければならない。


彼女のように教師として児童に影響を与える立場にあるものが
その子の近未来を
「最悪」の映像で予想することは
絶対にしてはならないのだ。

その事を私から聞きながらも
自分に許してしまっている彼女に
私は怒りを覚えた。

で、その事に切れて、彼女に告げた・・・つもりだった。


が、切れた私の言葉はすでに冷静さを失い
本意を彼女に伝える力はなかった。


愚痴を延々と聞かされて
私が切れた・・・と、彼女はとった。

そうして、言った。

「ごめんね、

 愚痴でも言わないと溜まる一方で辛くなるの。

 聞いてもらうだけでよかった。

 全部吐き出してしまえば、楽になって明日への活力が沸いてくるもの。

 保健の先生とはそうしあっている。


 ・・・もう、二度と、あなたには言わない」

と。






 友達として、黙って聞いてあげればよかったのかもしれない。

会うたびに、彼女は必ず不安や困りごと、愚痴を話す。

それを黙って聞いてあげるのが優しさなのかもしれない。



 それでも、大切な友人だからこそ思ってしまうのだ。


「愚痴」は何の救いにもならないんだよ。


 そもそも
「愚痴」を溜め込むような「思考の仕方」に問題があり、
「愚痴」を溜め込まない考え方をしない限り
 吐いても吐いても、溜まり続けるんだよ。

 「愚痴」にはたくさんの毒素があって
 それを聞かされた者、
 つまり、聞いてくれている相手はもちろんのこと
 それを言った本人もその「愚痴」の毒素に
 どんどん冒されていくんだよ。

 その「愚痴」を一番たくさん、一番近いところで聞いているのは
 言っている本人自身なんだよ。

 だから、言えば言うほど
 その現象から逃れられなくなるんだよ。


「愚痴」は吐く事よりも溜めない考え方に変換することの方が大事。

 そして、その「考え方」は「性格」ではなく
 訓練なんだよ。
 長い年月の間に「愚痴る」思考回路は誰かによって訓練されてきたものなの。
 だから
 「愚痴など溜まりもしない」思考回路も訓練によって育成されるんだよ。


・・・って。


「愚痴」は不幸を招くけれど
「幸せ」は思考回路の訓練でいくらでも作り出せるんだよ。

・・・って。





それでも、きっと彼女は言うかもしれない。

「・・・でも」
って。

いいじゃん!!

2011年05月07日 08時32分36秒 | ひとりごと
 長澤まさみと小栗旬が共演する「岳」と言う映画の事を
二日連続で目にしてしまいました。

これも一つの共時性かな?
と、思うので
今日はこれを糸口として書き始めてみようと思います 


 


昨日、それを目にしたのは、
何かの雑誌の長澤まさみのインタビュー記事。

そして、今日は
お試しで5日間のみ入れてくれている朝日新聞の土曜版(?)


これらによれば
「岳」は
青年漫画誌「ビックコミックオリジナル」に
2003年から連載されているらしい。

コミックスとしてはこれまでに14巻発行され
累計380万部を突破しているとか。


残念ながら
私はまだ読んではいない。


山岳遭難ボランティアの主人公「島崎三歩」は

どんな苦境に陥っても
「いいじゃん!」と
笑顔で全てを受け止めてしまう


・・・らしい。

そして、そこに、
時代の「渇き」から生まれる人々の共感を得るという。





さて、一方
昨日の伊勢白山道のブログの言葉の中には

“愚痴や文句を言う前に、
 それを体験できる命があることに感謝しましょう”


と書かれていた。


いつもいうことだが
私が読んだいろいろな本によれば
これから数年の間に
日本を始めとして
地球や人間は大きな変化を成し遂げなければならない。

けれど、人間は、
手にしてしまったものを手放す事がなかなかできない。

哀しいかな、

このままでは良くはないだろう

と気づいていることさえも、
今より状況が「悪く」なるかもしれないと思うと
怖くて、手放せないのだ。

本人が意識していないこととなればなおさらだ。



だから、“大いなる力”は
そうせざるを得ない現状を与えてくれる。


それは往々にして
見た目には
このうえなく辛く哀しい事であったりするのだ。





今朝の新聞は
管首相の「浜岡原発停止」要請の一面記事に始まり
それに対する多方面の反発や不安の意見が多かった。


東北の大災害
福島の原発問題
経済の停滞
アメリカのヴィン・ラディン殺害記事


いずれも
どうしてこんなに?!・・・と
辛くなるような事ばかりだ。



けれど
こんな時だからこそ

“大いなる力”を信じ

“全ては良くなる方向に流れている”

のだと信じ

自分たちの意志だけでは捨てる事のできない「手放すべきもの」を
「手放さざるを得ない状況」にしてもらっているのだと受け止め

「それを体験できる命を与えてもらっている事」に感謝し

「いいじゃん!!」と

笑顔で、対処することを堪能したい。

そうして

根拠なく自分たちの未来を信じ

  みんなで本当の幸せへとクリヤーする  



って思ってみましょうよ、ね  


まさに

万事如意

ですぞ   

自分の直感を磨く

2011年05月04日 16時53分39秒 | 波動
 私たちの中にこそ神は在る
と、伊勢白山道はいう。

だから、人ににたずねるのではなく己に聞けと。

答えは必ず己の中にあると。




さて
ここしばらく
私には、好きで、何度も読み返している本がある。


その本の帯にはこう書かれている。


「信じて耳を澄ませば、
 あなたを導く『声』がきこえる」



その本とは
「直感で生きる」 リン・A・ロビンソン


私たちの「無意識」は
私たちがなすべき使命や目的を全て知っており
それをちゃんと教えてくれている。

その方法さえも教えてくれる。


それが「直感」である。

と言う趣旨のもので
具体的にどうすればその力を強く出来るか、

という事の書かれた本だ。



今、このブログにその中の何かを書こうと思って開いた241ページに以下の言葉を見つけた。

(わたしはいつも「今日の私に必要な事を与えてください」と祈ってから開く事にしている)




“ 直感には自由回答式の質問をしなさい

   「仕事として楽しくできるのは何だろう?」

   「正しい方向に向かうために、次にどんな手段を取ることができるだろう?」

   「自分がやって楽しくて、人助けにもなる事は何か?」
   このような質問を自分にしましょう。

   毎朝、一日を始めるときは、
   
   新しい方向性を教えてくれる、直感からの刺激や衝動に関心を払ってください”


さらに
その後の項には次のように書かれている。

“  「わからない」「行き詰っている」を禁句にする


   あなたの状況をわかっていて、成功への指針となるわくわくする情報を
   
   すぐ提供してくれるもの

   それが直感です。

   「次に何をしたらいいのかわからない」と口にすると、

   直感からの声はさえぎられてしまいます。

   この点をしっかり覚えておいてください。

   心の中でいつも「行き詰っている」と繰り返しているなら

   「徐々にわかってきた」

   「毎日浮かんでくる新しいアイディアを進んで実行しよう」

   という言葉と取りかえてください。”




ポジティブな言葉に置き換えると新しい可能性が生まれてくるようになる


  ・・・らしい。



私はこの頃まさに上の思いを抱いている。


「自分がやって楽しくて、人助けにもなる事は何だろう?

 仕事として楽しく出来るのは何だろう?

 そのためには、まず、何をしたらよいのだろう?」



ちょっと前に私は自分の将来像を決めた。


80歳になった時
まだまだ、身体もあたまもしっかりしていて
自分のしたいことをする為の
時間とお金にたっぷりのゆとりがあって
人様の為にもその時間とお金を使っていて
「今が一番幸せなの」とにっこり笑って言う

そんなおばあちゃんになる、のだ。


なれるという根拠など微塵もない。

が、決めたのだ。

そうなると決めたのだ。

ちょっと前に書いた
「何の根拠もなく自分の未来を信じよう!!」
に、忠実に、それを決めて、ひたすら信じることにしたのだ。


だから、その方法を教えてくれる「直感」を大切にし、より磨きをかけねばならない。

まずはポジテイブに毎朝のひらめきを実行してみよう   


と、思える今の自分が楽しい。


あなたも、是非、試してみてくださいな。

毎日が、軽くなるだけでも儲けものですよ


いかに楽しむか。

2011年05月03日 17時49分31秒 | ひとりごと
 ある人に言われた。

「何か一つの事に打ち込んでこそ、大成すると言うものよ」


・・・何やかやと手を出し
結局はその道の大家にはなれていない私への
好意的な諌めの言葉だった。


若い頃から野の花が好きで
娘が三歳の頃から
つい数年前までは
山野草、とりわけ、
雑草と呼ばれている花たちを生け
生活の中に取り込む教室を開いていた。


けれど
いつ頃からか
草花の命を絶つことに苦しさを覚えるようになり
今はほとんどのレッスンを止めている。


今でも花は大好きで
庭には
小さな花たちがたくさん咲いている。

けれど、その中の一輪、二輪にはさみを入れる時でさえ
うっすらとした痛みを覚え
「ごめんね」とつぶやいて、やっとなのだ。


また、「文工房」という
手紙の教室も開いている。

いわゆる「絵手紙」とは違い、
時には俳画的であり
時にはイラスト的であり
コラージュも用いれば
はんこ遊びをしたりもする。

とにかくありとあらゆる手法で
色々な手紙や葉書
額入りの作品を作って楽しみ、
心を伝えるためのお教室だ。

会員は皆、もう何年も学んでくださり
私のヒントを元にそれぞれがとても素敵な作品を仕上げるまでに
上達している。

けれど、
この教室もまた
そう、発展させようとはしていない。



三年ほど前は
「女優になる!!」と宣言して
ある劇団に通った。


俳優たちの
カーテンコールの時の
あの満足げな
光輝く満面の笑みが羨ましくて
自分もそれを味わいたくてやってみたかったのだ。


しかし
小さな劇団は
大道具つくりから
照明つりまで
全部自分たちでやらねばならない上
毎日が真夜中の帰宅となり
50歳を超えた、仕事もちの主婦には
体力的に続かなかった。


で、舞台はとても面白かったのだが
一年でリタイアーしてしまった。

もちろん、いまでも未練タラタラだ。


テーブルコーディネイトや、ラッピングもそれなりにこなし
いくつかの賞を貰ったりもした。

が、これも
続けようとは思わなかった。



若い頃はお花の道で大成したかった。
教室を大きくし、生徒数も増やした。

いわゆる「成功」したかったのだ。

そして、そうなってこそ
人生に成功した、と言えるのだと考えていた。

だから、大きくなりたかった。
人に認められたかった。





ところが・・・だ。

50歳を越えた頃から
(スピリチュアルを学び始めてから、と言ったほうがよいのか・・・?)
一つの事を追求して
ひとかどの人物になる事が素晴らしいのはもちろんだが
そうならないからと言って
素晴らしくないなどとは言えないのではないか、
と強く思うようになってしまったのだ。


ずっと一つの事に従事して
名をはせる人になる道を選んで生まれてきた者と
いろいろ、あれもこれもと手を出して
体験する事を楽しむ為に生まれてきた者の
単なるプログラムの違いではないのか・・・

と考えるようになってきたのだ。



そうして、
私は
後者として生きても
全然いやじゃない!!
という事に気づいてしまったのだ。



だから
今は「どう生きるか」「どう成功するか」ということよりも
「いかに楽しむか」の方が大切になってしまったのだ。


目の前にある
フツーに言えば「ねばならない」ことさえも
いかに楽しんでこなすか、を考えるし
一見大変そうな事も、どうやって「楽しい」と受け止めるか
を意識してしまう。



この世が三次元と言う
重い波動の体験的テーマパークであるならば
その全てをしっかり体験して楽しまねば損ではないか・・・
と思ってしまうのだ。