今日、名古屋の東別院へ行って、
救援物資の仕分けのボランティアに参加させてもらってきた。
ここは
愛知ボランティアセンターの活動拠点。
いま、石巻で中期支援に頑張っているチーム神戸の
金田真須美さんと直結している。
現地で、あまりお役に立てなかった私は
少しでも後方支援をと思い
チーム神戸が作ってくれた
「Smile Again 石巻」
と言うステッカーを使っての募金活動を始めたが
そのほかにも、少しでも、と思い
今日
知り合いを同行して東別院へ行って来たのだ。
老若男女、たくさんの人が来ていた。
みんな、何かしたくて
少しでも力になりたくて来ているのだろう。
土、日、月とかけて集まった山のような物資が
手際よく分けられていく。
タグもしくは袋のない洋服ははじかれ
少しでも汚れているものもはじいていく。
ではそれらはどうするのか。
フリマやリサイクルショップでどうにかなりそうなものと
ゴミになるものとに分けられる。
誰かが良かれと思って出したもので
他の誰かが労力を使わねばならなくなるのだ。
被災地に行く前
私はなぜ、提供する物資が新しいものでなければならないのか
よくわからなかった。
まだ使えるもの、それなりにきれいな物ならばよいのではないかと
腑に落ちなかった。
けれど、
今は、
なぜ、
新品を送ろうとするのか
その一つの理由のようなものを感じることができる。
被災した人たちは
本当に何もかもをなくしている。
もし、そういう人たちに少しでも何かしてあげたいと思ったとき
それは
自分の分を割いてこそではないだろうか。
うちにある物で
とりあえず
もう、未練のない物や
もったいなくはない物ばかりを出すのでは
廃品回収と同じになってしまう。
それでは「愛」を差し出した事にはならない。・・・と私は思う。
地雷村の人たちのように
貧しい自分たちの境遇を省みず
収入のほとんど全てを寄付してしまえば
その後の自分の生活はどれほど苦しくなる事か。
それを承知の上で、なおも身銭を切って寄付をする。
誠、頭の下がる人間性が潜む。
これこそ究極の「愛」であろう。
それにくらべ、古着や使い古したいろいろな物を
「いらないから出す」
とき、そこに、大きな愛は存在するのだろうか。
もちろん、われわれも、何も買えず、何も求められない状態であるなら話は変わる。
けれど、そうではない今
痛くも、もったいなくもないものを出し
何かをした気になってしまわないでほしいと、
ちょっと複雑な思いに駆られてしまうのだ。
さらには
その物資を現地に送るためには
大きなトラックを依頼しなければならない。
その費用が馬鹿にならない。
ではそれをどうするのか。
誰が出すのか。
“とりあえず物資を出した人”は其処から先をも考える必要があるのではないか。
もし何かをしてあげたいと思うなら
そこまで考えて欲しいと
現地に2週間いて、思うようになった。
救援物資の仕分けのボランティアに参加させてもらってきた。
ここは
愛知ボランティアセンターの活動拠点。
いま、石巻で中期支援に頑張っているチーム神戸の
金田真須美さんと直結している。
現地で、あまりお役に立てなかった私は
少しでも後方支援をと思い
チーム神戸が作ってくれた
「Smile Again 石巻」
と言うステッカーを使っての募金活動を始めたが
そのほかにも、少しでも、と思い
今日
知り合いを同行して東別院へ行って来たのだ。
老若男女、たくさんの人が来ていた。
みんな、何かしたくて
少しでも力になりたくて来ているのだろう。
土、日、月とかけて集まった山のような物資が
手際よく分けられていく。
タグもしくは袋のない洋服ははじかれ
少しでも汚れているものもはじいていく。
ではそれらはどうするのか。
フリマやリサイクルショップでどうにかなりそうなものと
ゴミになるものとに分けられる。
誰かが良かれと思って出したもので
他の誰かが労力を使わねばならなくなるのだ。
被災地に行く前
私はなぜ、提供する物資が新しいものでなければならないのか
よくわからなかった。
まだ使えるもの、それなりにきれいな物ならばよいのではないかと
腑に落ちなかった。
けれど、
今は、
なぜ、
新品を送ろうとするのか
その一つの理由のようなものを感じることができる。
被災した人たちは
本当に何もかもをなくしている。
もし、そういう人たちに少しでも何かしてあげたいと思ったとき
それは
自分の分を割いてこそではないだろうか。
うちにある物で
とりあえず
もう、未練のない物や
もったいなくはない物ばかりを出すのでは
廃品回収と同じになってしまう。
それでは「愛」を差し出した事にはならない。・・・と私は思う。
地雷村の人たちのように
貧しい自分たちの境遇を省みず
収入のほとんど全てを寄付してしまえば
その後の自分の生活はどれほど苦しくなる事か。
それを承知の上で、なおも身銭を切って寄付をする。
誠、頭の下がる人間性が潜む。
これこそ究極の「愛」であろう。
それにくらべ、古着や使い古したいろいろな物を
「いらないから出す」
とき、そこに、大きな愛は存在するのだろうか。
もちろん、われわれも、何も買えず、何も求められない状態であるなら話は変わる。
けれど、そうではない今
痛くも、もったいなくもないものを出し
何かをした気になってしまわないでほしいと、
ちょっと複雑な思いに駆られてしまうのだ。
さらには
その物資を現地に送るためには
大きなトラックを依頼しなければならない。
その費用が馬鹿にならない。
ではそれをどうするのか。
誰が出すのか。
“とりあえず物資を出した人”は其処から先をも考える必要があるのではないか。
もし何かをしてあげたいと思うなら
そこまで考えて欲しいと
現地に2週間いて、思うようになった。