幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

いろいろ、いろいろ

2011年10月26日 18時21分07秒 | ひとりごと
 昨日、ふと、思った。

「この、伊勢白参道流先祖供養、本当に、いいのかしら?

 なんだか、これ始めたせいで、腰が痛くなったんじゃないかしら?」


・・・人間、どこかが悪くなると
自分のことを振り返るのを忘れ
何かのせいにしたくなるものだ。

勝手この上ない。


私の場合
統合医学的に見て
その原因は大きく二つがあげられよう。

ひとつには
夫に感謝していながらも
素直にその思いだけにはなれず
いつも彼のことでストレスをためてしまう。
それゆえに心が冷え
心が冷えると体温が下がり
結果、血液がドロドロになって
いろいろな病気を誘発してしまう。


もう一つは
なんといっても“運動不足”

犬の姫子が元気な時には
日に二時間は散歩し
週に一回は小高い山にも登っていたのに
彼女が死んで以来
ほとんど運動することもなく過ぎてきた。

それどころか
絵や文を描くことを仕事にしているために
ほとんど正座して一日を過ごす。

これが問題なのであろう。


と、わかっていながら
ふと
先述したようなことを思ってしまったのである。


「やれやれ、何かのせいにして
 情けないこと・・・」

と、思ったのだったが

しかし!!

さっき、偶然にも見つけてしまった!!
読んでしまった!!・・・のだ。


題して

「伊勢白山道に突っ込みを入れる」


そう、伊勢白山道を否定するブログである。

そのブログの
「白山道流 先祖供養の危険性」
の項。

そこに、私がふと自分で思ったことが
まさに言葉として書かれていたのである。




 
常々、私は
できるだけ
一人の人の考え方に傾斜するのはやめよう、
と考えてきた。

いろいろな人の考え方の中から
自分が楽になる方法を選び
自分流の救いの道を形成すればよいと思っている。

だから
小林正観も読めば
苫米地も読む。



どちらかといえば
目に見えないものを信じるが
それでも
自分自身は何も聞こえはしないし
何も見えもしない。


でもそれでよいと思っている。


伊勢白山道においては
「この世を楽しむ」「喜怒哀楽、全てを体験し味わう」「全ては変わる」
という考え方が好きだし
「自分には幸せの神様がついている」
という考え方も好きである。

その思いに変わりはないが
しかし、先祖供養に対しては
いつしか自分が「何か」に頼ろうとしていた気がするのだ。

この方法は
お金はかからないけれど
お金を出して誰かに「祓ってもらう」のと
たいして変わりがないのではないか、そう思わないでもない。



 


 人生を好転するのに大事なのは
感謝であることは絶対に間違いない。
そして、「心配しない」ことであることも間違いない。

苦しまない最っも簡単な方法は
「我」と「執着」を捨てることであることも間違いないだろう。



だから
自分の先祖に対してはもちろん
過去に生きた人々すべてに対して感謝するのは
とても大切だと思う。

そして
今の自分を支えて下さっている全ての物に対して感謝することも
忘れてはならないだろう。


けれど、だからと言って
果たして白山道流の供養が必要であったかどうか・・・

もしかしてら、私は
知らず知らずのうちに
「伊勢白山道教」に取り込まれていたのかもしれない。




 今の世の中
テレビも、新聞も、本も
傾向や内容を操作することなんていともたやすい。

だからこそ
相反するものをも見聞きし
いろいろ、いろいろ知ったうえで
自分自身が良かれと思うものを確立するしかない。

自分の直感を信じるしかない。



で、実に短絡的かもしれないが
白山道流の先祖供養は止めることにした。



 先祖に感謝することは頻繁にし
生かされていることにも毎日感謝し
太陽さんにも、もちろん感謝し
いろいろな出来事にも感謝し
とにかく
毎日を
明るく
感謝して
人を愛して(肝心の夫にこれができないが・・・
悩まず
愚痴らず
楽天的に生きていきたい。




でも、何かに頼ったり
祓ってもらったり
願いをかなえてもらったり・・・
は???なのである。





「人生、思うようにならないから面白い」

という、電気工事のおじさんの言葉を胸に

「何でも来い!!」

の気合で生きていたい。


それだけで、十分だと
今は思うのだ。



 




またまた「眺め」ざるを得ない?!

2011年10月23日 13時20分48秒 | ひとりごと
 今朝はいつもより30分早く起きた。

娘が駒ヶ根に預けている馬に会いに行くために
夫に彼の車を使わせてほしいと頼んだからだ。

そのために、夫は電車で会社に行くことになる。
そうすると
30分早く動かねば間に合わないのだ。

娘も夫を送った足で高速に乗ろうと段取りし
預け先のオーナーへの手土産をはじめとして
持っていかねばならないものを
昨夜のうちにを玄関先に出していた。



 ところが時間になっても当の彼女が起きてこない。

そういえば、
2,3日前から私たち母娘は体が異常にだるく
どうも、何かのウィルスに入られてしまっている気配だった。

今日、友人と半年ぶりに出かける予定の私は
昨夜のうちに例の遠隔治療を受けてやや復活していたのだ。

しかし
そのだるさは尋常ではなかったので
もしかしたら・・・と思い
夫に声をかけてくれるように頼んだ(私は朝食の準備で手が離せなかったので…)



「どうだった?」

「うん・・・、と返事しただけ・・・」


・・・???
いったい、どんな声掛けをしたんだろう。


「もしかしたら、熱とか出ていて
 しんどくて起きられないかもしれない。
 二、三日前から調子よくなかったから。
 ・・・ちょっと、見てきてくれる?」

と、頼んだのに、その回答の仕方って変じゃありませんか?

どうせまた、ドアのところから

「おい、時間だぞ」」

とか

「もう、起きろよ」

って声かけただけじゃないんですか?
私は様子を見てきてくれって頼んだのに・・・・・


と思いながらもそれを口にはせず
しばしの時間が流れた。



でも、娘は起きてこなかった。



確かにあの子は朝が苦手だ。
しかし
そのことについて、ついこの間、活を入れたばかりだし
第一
日持ちのしない手土産まで準備しておきながら
起きてこないというのはどう考えてもおかしい。
これは、身体の具合がかなり悪くて
起きるに起きれないとしか考えられなかった。




そこで、自己判断した私は

「パパ、今日は車に乗って行ってくれていいと思うよ。
 たぶん、彼女、身体の調子が悪くて起きられないんだと思うから・・・
 もしかしたら、熱も出ているかもしれないし・・・」

と、言った。


すると彼は、間髪入れずに

「うん、もう、そうするよ!!
 約束を守らないやつの、言う事なんか聞けないからな。

 自分で言い出して、約束しておきながら
 それを守らないなんてサイテーだ!!」

と応えた。


     
 

                 



それって・・・・・
なんか違いません?!

それが、
仮にも
父親の言う言葉、ですか?!

相手は、病気で苦しんでるかもしれないんですよ!!
(実際に、後で私が見に行ったとき、彼女は熱にうなされていた)
あなたが、言っていることは間違いではないだろうけれど
それとこれとは
話が違うのではありませんか?!
こういう時に、
そういうことをいうんですか?!

娘の病気を心配する気持ちや、感情は出ないのですか?!

それって、人としてどうなんですか?!



・・・と、私の中に
怒りと、失望と、やるせなさが噴出した。



が!!

今日もまた
あの言葉が甦る。


〝見詰めてはいけません。
 ただ、眺めなさい”



〝見詰めれば吸い込まれます。
眺めていれば達観して救われます”


そうだ!!
今、この感情に引き込まれては
自分が辛くなるだけ。

自分の夫を
「冷たい」」とか「優しくない」とか思えば
それは、私自身が情けなく、悲しくなるだけのこと。

ああ、この人はそういう人なんだな・・・

と、それだけの思いでとどめ
悲しんだり、寂しくなったり、批判したりするのはやめよう。
腹を立てるのもよそう。

ただ、眺めて、こだわらず、流してしまおう。


・・・そう、自分に言い聞かせた。
そうして
あえて
心を鎮めた。

ゆっくりと鼻から息を吐き
大きく鼻で息を吸う。

その吸った息を
丹田までおろす。

そうした深い呼吸にだけ意識を集中していると
やがて感情は波立ちを消し静かになる。

その静かさの中に己を置くのだ。


おかげで、そのあと、いつものように
彼の影に引きずられることなく
淡々と自分のことをこなせたのだった。


娘に、煎じ薬の処方をし
友達との約束をはたした。

夫に再会するときも
何もなかったかのように接した。


その間、私の心が
怒りや悲しさに振り回されることはなかった。




何かに書いてあったように

「自分を傷つけるのは相手ではない。
 それをどのようにとらえ、
 どのように受け止めたかという
 自分自身の感情なのである。

 この世には
 自分しかないのである」


とは、まさにこのことである。



己さえ、それを見詰め過ぎなければ
けっして、吸い込まれることはなく
すなわち、傷つくこともないのである。

これが、自我を失くすことの一つであり
ただ〝眺める”ということなのかもしれない。

どうでもいい話

2011年10月20日 08時58分24秒 | ひとりごと
 ひぇ~~~~~~~~~  

つ、つ、ついにできてしまった!!



これだけは嫌だと思っていたのに・・・・・

他の場所のはがまんできるけれど
ここだけは
ここにだけは勘弁してほしいと思っていたのに・・・


それが
ついに
一本
できてしまった・・・・・  


唇の上にタテに入った梅干し皺 
右唇の中央あたりに
確かに一本できているのだ



・・・ま、この年で
お手入れというたぐいのものをほとんどしないのだから
あたりまえといえばあたりまえなのだが・・・・・



それを見つけたその日から
なんだか
とーっても憂鬱


他にもすでに皺は顔中にいっぱいあって
それこそ
おでこの横皺なんて若いころからあるし
ほうれい線だって
目じりの皺だって
いやだっていうぐらいあるのだけれど
なぜかそれらはあまり気にならない。

ただ、この口の周りの梅干し皺だけはほしくなかったのだ。





 けさ、庭の秋を眺めながら
ふと、その皺のことを思い出した。

で、おもわずつぶやいた。


「・・・わたしも、ヒアルロン酸でも打とうかな・・・」




と!!!
それを聞いていた娘がすかさず言った。

「そんなもの打ってどうするの?!」




「もちろん、きれいになるんじゃん」


「えっ?!
 おかんの顔なんて
 だれも見ないのにぃ~?!」




    








自分をほめる訓練

2011年10月19日 15時32分36秒 | ひとりごと
 幸せになるための言葉


ありがとう

愛してます

大丈夫

がんばったね

ラッキー

楽しいね

よかったね

幸せです


 これらの言葉だけで思考し
生活していれば
絶対に毎日が幸せです。


反対に

どうして私だけが…

うらやましい

嫌い

いやだ

やめたい

辛い

などの言葉を頻繁に使っていると
毎日がどんどん面白くなくなっていきます。



人はどんな言葉を思い
どんな言葉で暮らすかで
幸せ度が変わってくるのです。

嘘だと思うなら3日間どちらかの言葉だけを考えて暮らしてみてください。
必ず実感できるはずです。



 なぜだか、私たちは自分を褒めることがあまり
得意ではないようです。

私ってどうしてこうなんだろう・・・


卑下したり悔やんだりすることはあっても

あら、私ってえらいじゃん!!

と、褒める回数は少ないようです。

何かをうまくこなせても
それを当たり前として受け止め
無感動に過ごしてしまったりします。

その時!!


ちょっと待って!!
これって
もしかしてすごいじゃん!!

とか

こんな風にできる私ってすきだなあ、

とか
自分で自分の行動を好いて、褒めて、認めてあげてほしいのです。




 私たちは
一人でいる時も
もう一人の自分といることができます。
その自分が今、自分のしたことを
認め、褒めてくれるよう訓練をするのです。

そのもう一人の自分はおそらく
明るくて
楽しくて
優しくて
親切で
真心を込めることが好きなはずです。
愛のこもった行動をとると気持ち良くなるはずです。

そんなもう一人の自分に褒めてもらえるような行動をとり続けると
どんどん素敵になり
ひかり輝くようになって
必ず
幸せに取り囲まれるようになるのです。



だから
心に思う言葉や口にする言葉は選びましょうね。
自分を幸せにする言葉だけで暮らしましょうね。
そうして
毎日
自分で自分を褒めたくなる行動をとりましょうね。


これは訓練です。
「性格」で片づけないでください。
習慣を訓練することで
私たちは不幸にも幸せにも
すぐになれるのですから。


あなたが
毎日を
少しでも
快適に
そして
幸せにお過ごしくだされば・・・と思います。

リビング・ウィル

2011年10月18日 21時21分09秒 | 暮らし
 父の検診、入院にともない
私の実家滞在日数も多くなる。

それゆえに
しばしばブログがアップできなくなるし
話題も
なんだかそっち方面になって恐縮である。


・・・と思いつつも
今日もそっち方面の話をしばし。


 リビング・ウィル

ご存知の方もあるだろうが
「リビング・ウィル」というのは
日本語に直すと
「終末期医療における延命治療中止の意思表示書」
とでもいうのだろう。


要は
自分の死に際して
人工呼吸器や心臓マッサージ
胃婁、降圧剤など、延命のための処置を
いっさいしないでほしいという意思表示書である。


これを
意識がはっきりしているうちに書いておくことにより
意識のない状態になった時
医師が本人の意思を尊重して処置を中止できる
唯一の方法なのである。

日本の法律では
本人に意識のあるうちは
治療を中止されることはない。
本人が拒否しようとしても
延命の処置がなされる。

それは
今の日本の医学会では
「命をつなぐ」ことが「善」であるからである。

ゆえに
時折
尊厳死が無視されてしまう事もあるのだ。


・・・とは
あくまでも誰かの受け売りなのだが
実際に義父や叔父は
「あんな風に死にたくはない」という
最後の迎え方をした。


で、私はすでにリビング・ウィルを書いて家人に預けてある。

本当は主治医にも渡しておくとよいのだそうだが
残念ながら病院に行かない私に主治医はいない。



 このリビング・ウィルを
先日、わが両親にも紹介した。
あとはただ、サインだけすればよいようになっている物だった。


母は

前々から、そのことを書いておかなければと
思っていた。
でも、どんなふうに書いてよいかわからなかったので 書けずにいた、
よくぞ、持ってきてくれた。

というようなことを言い
すぐにサインし、印を押した。


が、父は
私の説明を聞きながら
途中で涙ぐんでいた。
そして
母に随分遅れてサインした。


先回、帰った時にそのような話になったので
今回こうして
二人にそれを示し、説明したのだが
同じように言っていた二人なのに
母はサバサバとすぐにサインし、
父は涙ぐんで
サインをするまでに多少の時間が必要だった。


「いざというときは女のほうが強い」、と誰かが言っていた。

両親を見ていると本当にその通りだと思う。