昨日、ふと、思った。
「この、伊勢白参道流先祖供養、本当に、いいのかしら?
なんだか、これ始めたせいで、腰が痛くなったんじゃないかしら?」
・・・人間、どこかが悪くなると
自分のことを振り返るのを忘れ
何かのせいにしたくなるものだ。
勝手この上ない。
私の場合
統合医学的に見て
その原因は大きく二つがあげられよう。
ひとつには
夫に感謝していながらも
素直にその思いだけにはなれず
いつも彼のことでストレスをためてしまう。
それゆえに心が冷え
心が冷えると体温が下がり
結果、血液がドロドロになって
いろいろな病気を誘発してしまう。
もう一つは
なんといっても“運動不足”
犬の姫子が元気な時には
日に二時間は散歩し
週に一回は小高い山にも登っていたのに
彼女が死んで以来
ほとんど運動することもなく過ぎてきた。
それどころか
絵や文を描くことを仕事にしているために
ほとんど正座して一日を過ごす。
これが問題なのであろう。
と、わかっていながら
ふと
先述したようなことを思ってしまったのである。
「やれやれ、何かのせいにして
情けないこと・・・」
と、思ったのだったが
しかし!!
さっき、偶然にも見つけてしまった!!
読んでしまった!!・・・のだ。
題して
「伊勢白山道に突っ込みを入れる」
そう、伊勢白山道を否定するブログである。
そのブログの
「白山道流 先祖供養の危険性」
の項。
そこに、私がふと自分で思ったことが
まさに言葉として書かれていたのである。
常々、私は
できるだけ
一人の人の考え方に傾斜するのはやめよう、
と考えてきた。
いろいろな人の考え方の中から
自分が楽になる方法を選び
自分流の救いの道を形成すればよいと思っている。
だから
小林正観も読めば
苫米地も読む。
どちらかといえば
目に見えないものを信じるが
それでも
自分自身は何も聞こえはしないし
何も見えもしない。
でもそれでよいと思っている。
伊勢白山道においては
「この世を楽しむ」「喜怒哀楽、全てを体験し味わう」「全ては変わる」
という考え方が好きだし
「自分には幸せの神様がついている」
という考え方も好きである。
その思いに変わりはないが
しかし、先祖供養に対しては
いつしか自分が「何か」に頼ろうとしていた気がするのだ。
この方法は
お金はかからないけれど
お金を出して誰かに「祓ってもらう」のと
たいして変わりがないのではないか、そう思わないでもない。
人生を好転するのに大事なのは
感謝であることは絶対に間違いない。
そして、「心配しない」ことであることも間違いない。
苦しまない最っも簡単な方法は
「我」と「執着」を捨てることであることも間違いないだろう。
だから
自分の先祖に対してはもちろん
過去に生きた人々すべてに対して感謝するのは
とても大切だと思う。
そして
今の自分を支えて下さっている全ての物に対して感謝することも
忘れてはならないだろう。
けれど、だからと言って
果たして白山道流の供養が必要であったかどうか・・・
もしかしてら、私は
知らず知らずのうちに
「伊勢白山道教」に取り込まれていたのかもしれない。
今の世の中
テレビも、新聞も、本も
傾向や内容を操作することなんていともたやすい。
だからこそ
相反するものをも見聞きし
いろいろ、いろいろ知ったうえで
自分自身が良かれと思うものを確立するしかない。
自分の直感を信じるしかない。
で、実に短絡的かもしれないが
白山道流の先祖供養は止めることにした。
先祖に感謝することは頻繁にし
生かされていることにも毎日感謝し
太陽さんにも、もちろん感謝し
いろいろな出来事にも感謝し
とにかく
毎日を
明るく
感謝して
人を愛して(肝心の夫にこれができないが・・・
)
悩まず
愚痴らず
楽天的に生きていきたい。
でも、何かに頼ったり
祓ってもらったり
願いをかなえてもらったり・・・
は???なのである。
「人生、思うようにならないから面白い」
という、電気工事のおじさんの言葉を胸に
「何でも来い!!」
の気合で生きていたい。
それだけで、十分だと
今は思うのだ。
t
「この、伊勢白参道流先祖供養、本当に、いいのかしら?
なんだか、これ始めたせいで、腰が痛くなったんじゃないかしら?」
・・・人間、どこかが悪くなると
自分のことを振り返るのを忘れ
何かのせいにしたくなるものだ。
勝手この上ない。
私の場合
統合医学的に見て
その原因は大きく二つがあげられよう。
ひとつには
夫に感謝していながらも
素直にその思いだけにはなれず
いつも彼のことでストレスをためてしまう。
それゆえに心が冷え
心が冷えると体温が下がり
結果、血液がドロドロになって
いろいろな病気を誘発してしまう。
もう一つは
なんといっても“運動不足”
犬の姫子が元気な時には
日に二時間は散歩し
週に一回は小高い山にも登っていたのに
彼女が死んで以来
ほとんど運動することもなく過ぎてきた。
それどころか
絵や文を描くことを仕事にしているために
ほとんど正座して一日を過ごす。
これが問題なのであろう。
と、わかっていながら
ふと
先述したようなことを思ってしまったのである。
「やれやれ、何かのせいにして
情けないこと・・・」
と、思ったのだったが
しかし!!
さっき、偶然にも見つけてしまった!!
読んでしまった!!・・・のだ。
題して
「伊勢白山道に突っ込みを入れる」
そう、伊勢白山道を否定するブログである。
そのブログの
「白山道流 先祖供養の危険性」
の項。
そこに、私がふと自分で思ったことが
まさに言葉として書かれていたのである。
常々、私は
できるだけ
一人の人の考え方に傾斜するのはやめよう、
と考えてきた。
いろいろな人の考え方の中から
自分が楽になる方法を選び
自分流の救いの道を形成すればよいと思っている。
だから
小林正観も読めば
苫米地も読む。
どちらかといえば
目に見えないものを信じるが
それでも
自分自身は何も聞こえはしないし
何も見えもしない。
でもそれでよいと思っている。
伊勢白山道においては
「この世を楽しむ」「喜怒哀楽、全てを体験し味わう」「全ては変わる」
という考え方が好きだし
「自分には幸せの神様がついている」
という考え方も好きである。
その思いに変わりはないが
しかし、先祖供養に対しては
いつしか自分が「何か」に頼ろうとしていた気がするのだ。
この方法は
お金はかからないけれど
お金を出して誰かに「祓ってもらう」のと
たいして変わりがないのではないか、そう思わないでもない。
人生を好転するのに大事なのは
感謝であることは絶対に間違いない。
そして、「心配しない」ことであることも間違いない。
苦しまない最っも簡単な方法は
「我」と「執着」を捨てることであることも間違いないだろう。
だから
自分の先祖に対してはもちろん
過去に生きた人々すべてに対して感謝するのは
とても大切だと思う。
そして
今の自分を支えて下さっている全ての物に対して感謝することも
忘れてはならないだろう。
けれど、だからと言って
果たして白山道流の供養が必要であったかどうか・・・
もしかしてら、私は
知らず知らずのうちに
「伊勢白山道教」に取り込まれていたのかもしれない。
今の世の中
テレビも、新聞も、本も
傾向や内容を操作することなんていともたやすい。
だからこそ
相反するものをも見聞きし
いろいろ、いろいろ知ったうえで
自分自身が良かれと思うものを確立するしかない。
自分の直感を信じるしかない。
で、実に短絡的かもしれないが
白山道流の先祖供養は止めることにした。
先祖に感謝することは頻繁にし
生かされていることにも毎日感謝し
太陽さんにも、もちろん感謝し
いろいろな出来事にも感謝し
とにかく
毎日を
明るく
感謝して
人を愛して(肝心の夫にこれができないが・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_naki.gif)
悩まず
愚痴らず
楽天的に生きていきたい。
でも、何かに頼ったり
祓ってもらったり
願いをかなえてもらったり・・・
は???なのである。
「人生、思うようにならないから面白い」
という、電気工事のおじさんの言葉を胸に
「何でも来い!!」
の気合で生きていたい。
それだけで、十分だと
今は思うのだ。
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