幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

これも引き寄せ?!  続編

2012年03月18日 13時25分12秒 | 波動
 先回の反省を込めて
言葉の変換を試みます。


 * 夫の風邪菌に対する思い方

    大丈夫!! 私はいつだって元気。
    私の60兆個の細胞はいつだってベストコンディション!!

    安心、安心、おかげさま、ありがとうございます。




 * 石巻で体調を壊すのではないかという配慮の言葉



    元気でお帰りくださいね。


    これを飲んでいれば絶対大丈夫!!
    思う存分働いて、パワーアップしてお帰りくださいね。


    今回はきっと大丈夫ですよ。
    元気でお帰りになるのをお待ちしていますからね。




  ・・・どんなふうに言ったって、行くのをやめるわけではないのだから
  気を付けて、とか、体を壊さないようになどと
  相手にインプットしない方がよい。

  むしろ、最善の結果を断言してあげることこそ、大きな励ましの力を与えるに違いない。



 
 * ヘビースモーカーたちの煙の中で・・・・・

     おお!!
     普段はできない体験だけれど
     私の60兆個の細胞たちは
     こんな環境にも耐えられるだけの力があるという証がもらえるのだなあ!!
     実にすばらしい実験だ!!


     全然平気!!



     意識さえしないことが一番かも・・・・・



 * のどの痛みを感じ始めてしまったとき

     のどの痛み程度でおさまりました。
     ありがとうございました。

     60兆個の細胞たちよ、頑張ってくれてありがとう。
     あしたはもっと、元気だね。
     ありがとう。



 * 普段は食べないものを食べなくてはならないとき。


     おいしく、健やかに頂戴しました。
     ありがとうございました。


 


 * 全体に対して


    こんなにハードなスケジュールを
    平気でやってのける心身が私にはあった!!
    何てすばらしいのだろう。
    何て、有難いのだろう。

    感謝、感謝、おかげさま。



    いつだって
    私はぴんぴんしている!!
    ありがとうございました。





          ・・・初めから、こんな風に思えていれば
          今頃、こんな事は書いていないね。


          わかっていてもできないということね。

          でも、
          だから
          クリヤーする楽しみがあるね   




          なんたって、人生は
          自分の光がバージョンアップするためのゲームみたいなものだもの。



          風邪をひくのも、できないことも
          みんなみんな
          あな楽し   

これも引き寄せ?!

2012年03月16日 12時46分28秒 | ひとりごと
 見事に体調を崩してしまった!!   


 石巻から帰宅したのが13日の21時過ぎ。
その日は体のあちこちが痛くて、辛くて眠れなかった。

首はもちろん、肩も背中も腕も足も
全てがガチガチに凝っていた。

そのコリがあまりにもひどい!!
ひどすぎた。

そればかりではない。
のどが、まるでやけどでもしたかのように
ヒリヒリして痛くてたまらないのだ。


さらに節々はズキズキするし
おなかは下るし
頭痛、咳、
ありとあらゆる症状を感じた。




こりゃ、かなりやばい!!」
と思った私は
その旨を家族に告げ
片づけもそこそこに
早々と休んだのだったが
結局、熱も出て起き上がれず
そのまま3日間寝込んでしまった。

残念ながらこれを書いている今日も
寝たり起きたりの状態でいる。(幸い日曜日なので・・・)




 はて、さて
その原因を普通に分析すれば
「疲れ」 「無理、無茶」
ということになり
私の体力がないことを周知している面々は
「それみたことか・・・」
とつぶやくに違いない。



 前回もそうであったけれども
出発前、優しい友人たちはことごとく
「大丈夫?!」
と心配してくれた。

「あなたは、人一倍、丈夫ではないのだから
 また、後が大変ですよ。」

とか

「この寒い時期に本当に大丈夫ですか」

重ね重ね心配の言葉をくれ
中には高価な健康食品を持たせてくれる者もいた。


ほんとにそうですね。
 気をつけねばいけませんね」
と、私も、応えていた。



まったく、言われたとおり、思った通り・・・情けない。







だが、この症状の最たる原因は「夫の風邪」である。

現在も治っていないその症状は
明らかに夫の風邪と同じタイプのものなのだ。
(夫はいまだに患っている)


石巻に立つ前の一週間
夫は、家じゅうにその菌をばらまいた。

ひどく咳込んでいるくせに
言わないとマスクをしない。

暖房してある狭い洗面所や浴室、トイレなどを使用するとき
目を離せば
マスクもせず
手も当てず
大ぴっらに咳き込みまくっていた。

台所にいる時にさえ
皆が食する食器の方向を向いてマスクなしの咳をした   


あわてて
彼を寝室に隔離したとて
結局は
菌を隔離しきれるものではなかったのだ。



 石巻に行く二日前
体が不調を教える。

が、私はそれを抑え込んだ。


「私の60兆個の細胞たちよ。
 あなた方は完全です。
 あなた方は元気です。

 明日の朝、私は元気です・
 ありがとうございます」


そう、祈り、それを信じて眠りについた。

もちろん食にも気を配り
のどにスカーフも巻いて寝た。

その甲斐あって
翌朝は、まあまあの体調であった。
それに気も張っていた。


と、そんな状況の中
一人で750kmを運転して石巻へ行ったのだった。


750kmの距離は私の体にたいそうな「凝り」をプレゼントしてくれた。

が、道中はそんなに苦になることもなく楽しかった。



 石巻では
例のごとく
金田真須美氏から受ける緊張の連続。

以前と同じ
深夜という時間さえを無視される活動。

おまけに寒さの戻り。

普段、生ぬるい生活をしている私にとって
これらはかなりのダメージを与える。


が、3・11という特別な日を迎えるのであるから
ボランティアとして滞在するならば
それは覚悟の上のこと。

金田氏のせいではない。

あくまでも私の心身の弱さのせいに他ならない。



 3・11の追悼式典などの準備で忙しい前日10日
私はチーム神戸の主催する「被災者のためのサロン」で
無理をお願いして「あったか手芸講座」を開かせて頂いた。

圧縮ニットを使って手縫いでマフラーとアームウォーマーを作る、
というものなのだが、
サロンに来て
それをしている間だけでも
被災された方の心が「無」になり
マイナーな感情から離れられれば、と願ってのことだった。


それは、予定通り、楽しく過ぎた。

なんとなくだるさを感じはしたものの
気持ちは元気だった。


 

 ところが、午後、
湊小学校の体育館で追悼式典の準備をお手伝いしているあたりから
喉が異常にヒリヒリし始め
体がだるくなってきたのだ。

「みんな、ヘビースモーカーすぎるよ!!
 おかげで、喉、大変なことになりそう・・・

パパの風邪菌も絶対もらってるし・・・




心配になった私はドラッグストアーへ行き
龍角散のどあめと、風邪薬を買ってきた。


「ここで、発症しようものなら、皆に迷惑がかかる。
 何しに来たやらわからなくなる。
 何が何でも、病気にはなれない!!」

と、強く思ったのだった。


 その夜の作業は深夜3時半までかかった。

23;00から24;30までは、いったんみんなで町の公衆温泉へ行った。

つまり、かすかに雪が舞う寒い夜、
お風呂に入ったその後、再び
底冷えする体育館で真夜中の3時間を過ごしたことになるのだ。

しかも
それは祭壇を作るという作業で
大した動きもなく
ひたすらじっと立って白い菊切ったり
丁寧に白布をかけるだけという
体を冷えきらすにはもってこいの仕事だったのだ。


翌日の私は
疲れと冷えと金田氏への緊張とで
すでにかなりのダメージを受けていた。

しかし、疲れている点からいえば
金田氏は私の数百倍に違いない。

他のスタッフだって
いくら若いからといえ
数々のストレスを考えれば私以上であることは間違いないのだ。

それを思えばなんのその・・・・・
なのだが、
悲しいかな、体はへこたれていた。


「やばいなぁ~」

内心そう思った。



 追悼の行事が始まれば私にできることはない。

椅子に座って、炊き出しのものを頂いてよい、と許された。

いろいろな方の好意で
たくさんの物が提供されていた。

うどん、ぜんざい、甘酒、コーヒー、玉突きこんにゃく、ケーキ、あられ、キムチにチョコレート
甘いものが多いそれらの炊き出しを
椅子に座っているしかない私は
体によくないことを知りつつ
暇と寒さに任せ
次々と勧められるままに頂戴していったのだった。


あげく、その日の夕飯はファミレスのピザを食べ
深夜には若いボランティアたちと酒盛りとなった。

ワイン、チョコレート、ポテトチップス、チーズ

これらが、私の体の中へと入っていったのだ   


ああ、それをしているのは誰?!

わたしです、わ・た・し!!

どうしてやめないの?!


そう思う私がいた 


こんなことしていたら、絶対体調壊す!!


でも、それを止めることはできなかった(なさけな~~~~~~)   




 

 結果、ものの見事に現在に至っているのだ。

自業自得。自業自得。 自業自得

夫に風邪菌を移されたことを知りながら石巻へ行ったりするから・・・

体に悪いと知りながら次から次へと食べるから・・・

因果応報、原因あっての結果です。(反省)・・・(反省だけならサルでもできる・・・かなり古い 








しかーし!!

ちょっと待て!!・・・なのです。

確かに因果応報、自制心のなさが招いた自業自得に違いないのですが、

ここで、視点を変えれば
ちょっと違った考え方ができるのです。


さてさて
今までの文章の中でい文字で書いたところのみを読みなおしてみてください。


疲れ、無理無茶

この言葉は「疲れるなぁ、無茶なことしてるんだろうなぁ」
という形でいつも私の頭の中にありました。

「後が大変だ」とか「ご無理のないように」とか「身体壊すと大変だから」

という、数々の言葉を受け

「本当にそうですね」

と同調し

「やばい!!」

と思い、薬を買い求め

「あ~あ、こんなに冷えちゃ風邪ひいちゃうよ」

とか

「こんなの食べてたら、また、胃腸に負担をかけて
 風が余計にひどくなっちゃうわ」

などと、常に常に思い続けていたことになるのだ。


おまけに

「絶対体調壊す!!」

と、自分に宣言までしているではないか。



さらに

「病気にはなれない

と、思ったりしているが、

「ない」という単語(do notや not)は宇宙には通じないから

これは

「病気になれ」

と命令しているのと同じことになるのだ。



ああ、なんということ 

私は
いろいろ心配するあまり
自分で自分に

「風邪をひけ、喉を傷めろ、病気になれ」

と、ずっとずっと言い続けていたことになる。


そして、
忠実な私の60兆個の細胞たちは
それを一週間の間
毎日毎日聞かされ、
頑張って病気になってくれたのだ。

願いを引き寄せてくれる宇宙の力だって
毎日毎日の、私のその願いを受け止め
こうして、それを私に引き寄せてくれたことになるのだ。





 ふ~~~~~
馬鹿な私、
浅はかな私、

こんな周知している事実を忘れ
気を遣い
注意して
わざわざ病気になっている。



引き寄せの力は良い悪いを自分で判断したりはしない。
60兆個の細胞たちは主が思った通りに働く。



この一瞬、どんな思い方をするか、
どんな声掛けをするか
自分に対しても
人に対しても
心底
心せねばならない。

被災格差

2012年03月14日 11時43分07秒 | ひとりごと
 東北道、三陸道
いまだ災害復旧工事があちこちで行われてはいたが
でも、
道路の表面のひび割れや盛り上がりは
随分と修繕され
言われなければわからないほどになっていた。


 去年4月1日に石巻入りしたときには
どこもかしこも真っ暗で
仙台にも明かりは少なく
車も通っておらず
がれきやヘドロが散乱し
どうやってこれを片づけるのだろう・・・と途方に暮れた。


 一年たった今、
主な道路に面したところはきれいになり
明かりは煌々と照り
あちこちでラッシュが発生するほど車が行きかっていた。


 仙台、ああ、こんなに都会だったんだ。

インター付近はもうすぐ3,11ということもあってかなりの渋滞。

石巻
ここも、きれいになっていた。

かつて
高速を降りるとそこは
冠水の海であり
がれきの山であり
車は通らず
むしろ津波に押しつぶされ残骸であふれていた。

悪臭と土ぼこりがすごく
暗く重たい雰囲気だった。

でも今は、
冠水はなく
がれきもなく
夕方のラッシュでにぎやかだった。


そこには
ちゃんと
普通の生活があった。

どこの地域でも目にする
当たり前の日本の街の風景が戻っていた。



「なんだ、復興が遅れている、なんて言われているけれど
 結構普通の生活に戻っているジャン!!」

と、ちょっと嬉しくなってしまった。

そりゃあ、それが表向きだけには違いないかもしれない。

心の傷や
就職問題
借金
住み替え

いろいろあるには違いないんだろうけれど
とにかく、
これだけ
賑やかに普通に戻っていて安心したわ・・・


などと安易に思ってしまった。


それは
後でよくよく考えれば
震災直後の四月初めに
すでにお店が開いていたような地域だったのだ。


あの時
4月10日ごろ
初めて湊小学校区域を出て
被害の少なかった地域に買い物に出た。

ネタは少ないものの回転ずしがやっていた。
ユニクロだって
スーパーだって
ちゃんと商品を置いて開店していた。


何だか別世界にきたみたい・・・
これがおんなじ石巻?!


そう思った処だったのだ。


 湊区域に進むにつれて様相は一変した。

商店街のシャッターは下り
あるいは壊れて開けっ放しのまま、
明かりはまばらになっていく。


先ほどまでのにぎやかさはどこへ行ったのか。

車どおりも
人影も
ぐんとさみしくなった。


通りのがれきだけはなくなっている。

津波で流されてきていた船も当然撤去されていた。

けれど、
空気はあの時とあまり変わっていない。
暗く、重たく、もの悲しい。




 さらに進む。

この橋を渡れば
湊小学校学区


・・・あかりがほとんどない。

橋の正面にある信号だけが異常に明るく見えた。




さっきまでの賑わいはなんだったのか。

ここはまるであの時のままではないか。



一階部分だけが津波で流され丸裸になった家が
そのまま放置され不気味さを放っている。


幹線道路からちょっと入れば
がれきだってまだまだあちこちに残っている。

つい昨日
ある人の家の後ろの溝からご遺体が出てきたという。



これが同じ石巻?!

これが、同じ被災地???




 仙台でも、一関でも思った。

心の中はわからない。
経済的なこともわからない。

けれど、それでも
ちゃんと日常生活を送れている人たちもこんなにたくさんいるのだ。

被災地東北・・・と一口に言っても
その格差たるやあまりにも違いがありすぎるではないか。


 一関で泊まったホテル
一関で食事した割烹

そこには人々の笑いざわめく声があった。

一皿三千円もする刺身を注文する人がたくさんいた。


この人たちは
南三陸町の
石巻の湊区域の
今も途方に暮れている人々の苦悩を
どこまでわがこととして受け止めているのだろうか。


家族を亡くし
家をなくし
途方に暮れている人たちに
何をしてあげようとしているのだろうか。



 
 なんだか悲しくなった。

人はやはりわが身に降りかかってしかわが事として受け止めることはできないものなのだ。


実家の両親が東北のことなど眼中にもなく
ひたすらわが身の病気のことのみを思い煩うように。

愛知に住む知り合いたちが
「気の毒に」とは思っても
自分に使うお金のうちのなにほども寄付しないように。

いえいえもっと言うならば
この私こそ
自分の生活に何の犠牲ももたらさず提供せず
わずかな寄付だけで済ませているではないか。





 対岸の火事
まさしく対岸の火事


思えば
全てがそうなのかもしれない。


たとえそれが家族のことであっても
代わってやることができない以上
結局対岸の火事でしかないのだ。




 そんな人が多い中
金田真須美という人は
一年間も現地で暮らし
一番ひどく被災した人たちのために
心を添わせ、将来を考え、活動を続けている。



対岸の火事を発見したとき
泳いで渡り
対岸に乗り込んで消火活動する人は
いったいどれほどいるというのだろう。





 被災者のことに親身になれないのは政治家だけではない。
政治家が庶民のことに親身になれないのも仕方ないのかもしれない。


結局
人は
自分に降りかかることしか
わが身のこととして受け止めることはできないのだから。

ただいまぁ~~~~~~

2012年03月14日 11時08分03秒 | ひとりごと
 行ってきました、石巻。
3,11を現地で過ごすために。
今の被災地をこの目で知るために。

さらに陸前高田でご両親が被災なさった友人に会いに一関まで足も延ばしました。



 合計1800km、
一人で運転し、
慣れない私は
途中で右足が引きつり
腰は痛み
帰宅したときには
肩も二の腕も
ふくらはぎも背中も
とにかくありとあらゆるところが凝っていて
自分の体にして自分の体に非ず・・・
という感じでした。


チバラキの時は片道450km
あちこちまわって1000km弱でしたから
一気に11時間、900km近くを運転するのは初めて。

かなり不安でしたが
「やってやれないことはない!!女54、がんばるぞ~~~」
と、自分を奮い立たせ
「今日も一日、無事スムーズに運転できました。
 ありがとうございました」
と、感謝しておいた。


結果、事故が発生していても
そんなに影響を受けることもなく
荒れると予報された天候もさほど悪くもなく
ありがたく
有難く道中を過ごすことができた。

やっぱ、なんでもやればできるのだと
つくづく思います。

東北へ
車で行くなんて
今までは思いもしませんでした。

どう考えたって
新幹線か飛行機でしょう・・・と思っていたのですから。

それが一日走れば
車でも到達できるんだ、と
しみじみ実感しました。


しかも、岡崎から東京までの距離と
東京から東北までの距離なんて
さほどの差がないということも
今更ながらの実感でした。

家康は
うまいところに首都を置いたものですね。
さすがです!!



 さてさて
一関では夜の間に雪が降り
ホテルの5階の部屋から眺める雪山は
朝日に輝いてそれはそれは美しかった。


残念ながら磐梯山と富士山にはお会いできなかったけれど
でも那須の山々、阿武隈山脈などは
青い空に映えてみごとでした。




ただ、
それゆえに
なおやるせなかったです。

あの山々のふもとが放射能で汚染されていること
あの山々に見守られた暮らしが脅かされてしまったこと

美しければ美しいほど
腹立たしく悲しかった。


 福島の避難区域の方々の苦悩は想像を絶するに余りあります。

一関の友人も言っていました。

「うちは、家屋がすべてきれいになくなってしまったものの
 両親は無事でしたし
 私たちは大した被害もありませんでした。

 わずか、一週間ほどの不自由で済みました。

 石巻や福島の人から比べればずっとめぐまれています・・・」

自己満足

2012年03月08日 09時44分19秒 | ひとりごと
 石巻で知り合った友人(?)
彼女もまた被災者

今は息子と二人、横浜で暮らしている。

その彼女に言われた。

「あなたはなぜ行くの?
 何を感じたいの?!

 弱者を上から見つめて、可哀そうに、御気の毒にと思い
 涙するのだろうか。」

「感謝の言葉をもらって
 優越感と自己満足に浸りたい?!」

「あなたは自分で自分をいい人と思いたいだけなんじゃない?」





 人は、自分の経験にしか学べない。
人は自分の現実でしか生きられない。

どんなにハッピーなことも
どんなに悲惨なことも
どんなことだって対岸の火事。


それが証拠に
どれほど願っても
愛する者の病や死を代わってやることすらできないのだ。


それでも、対岸の火事の眺め方にもいろいろあるだろう。

見向きもしない人。
見て、自分に飛び火しはしないかと己を心配する人。
他人事として笑っている人。
そちらの人々を心配しているだけの人。

そして
いてもたってもいられなくて
川に飛び込んで手伝いに向かう人。


私の場合
心配して、おろおろして
何もできない自分が情けなくて
役に立ちもしないのに
こちらの岸から
水をかけてみたりしている小心者に過ぎない。


さらに、
その火事が長期戦ともなれば
こちらの岸の人々は見ることも忘れてしまうだろう。


それが「人」というものの現実ではなかろうか。

人は自分の現実にしか生きられないのだから。



私など
どんなに被災者のことを考えても
結局、彼らの悲しみや苦痛がわかろうはずもない。

どんなに想像したところで

どんなに寄り添おうとしたところで

愚かな過ちを犯すのが関の山。

それを去年4月
現地に2週間滞在している間に嫌というほど思い知らされた。


 



 それなのに
私は今、なぜ行く?!




そんなこと自分でもわからない。


今、再び行ったとて
何の役にも立ちはしないどころか
先のような言葉さえ浴びせられるのに。


それでも私はきっと行くのだろう。
せめて
現在の現地を知りたいから。

対岸の火事として忘れてしまいたくないから。


優越感や、薄っぺらな同情ではない、何かをつかみたくて、
どうしたら、少しでも自分のこととして分かち合えるのかを知りたくて・・・



これすらも
彼女の言葉を借りれば

「自分探しに被災地を利用するな」

となるのかもしれない。

「良いことをしたいという自己満足に被災者を使うな」

と言われるのかもしれない。



 
 自己満足

確かに自己満足にすぎない。

ただ彼女が言うように

「良いことをしたい」のではなく

「できることをしたい」だけなのだけれど。