幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

断捨離の意味

2011年11月17日 21時15分19秒 | ひとりごと
 いまさら断捨離でもないのだけれども・・・
昨日、ほんのちょっと立ち読みした本の言葉が忘れられない。


「断捨離とは何を捨てるかを決めることではありません。
何に囲まれて暮らしたいかを選ぶことです


 この言葉を読んで
ちょっと、“目からうろこ”な気分なのは私だけだろうか。


断捨離は
余分なものを整理してすっきりさせ
新しいものの入ってくるスペースを作るもの

と、理解していた。

だから
捨てる物や誰かにもらっていただく物を決める時、
自分にとって必要のないものを探していた。




 でも、そうではなく

“本当に自分が囲まれていたい物”

をセレクトするのだと認識すると
“それ”がいらないかどうかを考えるのではなく
本当に必要な物はどれかを探すようになるのである。


両者は似ているようで全然違う。

それがいらないかどうか考えていると
「うーん、また、いつか使うかもしれないなぁ・・・」
とか
「まだまだ、捨てるにはもったいないわ」
ということになる。


しかし、
何に囲まれていたいかという目で区分していくと
それがまだまだ使えるかどうかなどは関係なくなってくる。

つまり
より厳選されるのだ。

そうして
おのずと残される物の数もより少なくなってくる。


第一
いらないものを探し出す作業より
大好きで大切な、身近に置いておきたいものを探すことの方が
ずっと、ずっと楽しい。


 断捨離とは
これからの自分が
どんなものに囲まれて暮らしたいかを考えることである



ですよ、みなさま 


やっぱり 「ありがとう」 を。

2011年11月11日 09時17分02秒 | ひとりごと
 目の動脈瘤が破裂して
左目の視力が無くなった父の
手術入院のサポートのため
またまた実家に帰っていました。


北陸の冬支度は大変です。

多くて重い雪に備えて
家の周りの雪囲いを
かなり頑丈にしつらえねばなりません。
もちろん
庭木も同じです。

畑も雪に埋もれてしまいますから
大根や白菜などを
それぞれの方法で
別の場所に確保します。

保存食の準備もしなければなりません。

老人だけでそれをこなすのは容易ではないのです。



それなのに
春に大腿部を骨折した父は家のことを何もしなくなり
全てが母にかかってきてしまいました。

母とて若いころの事故による頸椎の損傷から
左手はほとんどあげることができなくなり
首や肩、腰には常に痛みがあります。

つまり、彼女もまた
自分を維持するのが精いっぱいの状態なのです。



というわけで
それらを少しでもこなすことと、
大学病院という遠方に入院した父を
定期的に見舞うために
私は今回もやや長滞在となったわけです。





 それにしても
80歳を超えたあたりから
日々
二人が自立するのはとても困難な状態になってきています。



しかし
思い切って施設に入る決意もできず
かといって
子供たちに世話をかけることへの申し訳なさからも脱せられず
二人を見ていると
なんだかとても気の毒です。


口にする言葉といえば二言目には
「世話をかけて申し訳ない」
となってしまっています。


まあ、世話ではないといえば嘘になります。

幸い私には二人の姉妹があり
三人で都合を調整しながら
何とかやりくりしていますが
それでもやはり
それぞれに仕事や家庭がありますから
難儀といえば難儀なのでしょう。


しかし
彼ら夫婦が今までに子供たちのために頑張ってきたことに比べれば
大したことではないし、
むしろ
三人もいながら
誰も同居してあげられなかった私たちの責任でもあるのですから。



それでも
彼らの心から
「世話になって申し訳ない」
という思いは抜けません。
そうして
何かといえば先の言葉を口にし
先の言葉で自分を苦しめてしまっています。


一方
「申し訳ない」
と言われた方はどうなるのでしょう。

「申し訳ない」と言われたからとて
気分が晴れるものではありません。

それどころか
「申し訳ない」と思わずにはいられない彼らの気持ちを思うと
無性に切なくなってしまいます。
年老いた両親に
「申し訳ない」と言わせてしまうことに
それこそ「申し訳なく」なってしまうのです。



 

 人は例外なく年を取るものです。

年老いれば体は動かなくなりますし
物忘れだって激しくなります。
できることに「限界」が生まれて当然なのです。

病院へ通う回数だっておのずと増えるに違いありません。

それは
この世の条理。
必ず誰しもが行く道です。

それに甘んじてよいとは思いませんが
かといって
必要以上にそのことをとやかく思う必要もないのではないでしょうか。


受け入れればよいのです。

受け入れて
仕方のないことと悟ればよいのです。

そのうえで
そうである自分を手伝ってくれる力のあることに
感謝すればよいだけのことではないでしょうか。


そう
「ありがとう」
だけで十分なのです。


助けてくれる者、手伝ってくれる者が
与えられていることへの感謝だけで十分なのです。
その手伝ってくれる人たちへの
余りあるほどの感謝の言葉がけでよいのです。


「申し訳ない」と言われても
ちっとも嬉しくはないけれど
「ありがとう」と言われれば
それなりに気のすむものです。

「申し訳ない」と思うことは
ある意味自分を傷つけます。
でも
「ありがたい」と思えば
幸せになれます。


やはり
ぜったい
何があっても
「ありがとう」なのです。
それで十分だし
それがベストなのです。


お布施

2011年11月05日 21時23分28秒 | ひとりごと
 この頃
私が心がけていること。

それは

身内でもなく友人でもない、全くの他人を
ほんのひと時しあわせにすること。



 私は大金持ちではないから多額の寄付をすることはできない。
有名人でもないので被災地に行っても涙を流して喜んでくれる人もいなかった。

本当に
つくづく
ただの
フツーのおばさん。



その
フツーのおばさんが
少しでも
他人様のお役にたちたいと願っている。

かといって
コンスタントにボランティア活動をするタイプでもない。


で、考えた。

「布施」の本来の形を。

布施とは自分以外の人に何かを施すこと。

例えば「顔施」 人に笑顔を与えること。

例えば「言施」 人にやさしい言葉をかけること。



そうだ!!
言葉で他人様を幸せにする。
これくらいなら
フツーのおばさんにもできるではないか!!!


うん、そうしよう!!

言葉と、笑顔と、ほんのちょっとの気配りを
一日に
少なくとも一回
身の回りの人はもちろんのこと
見知らぬ人にも配ろう!!

せめて
一日に一人
一瞬の幸せを作ってあげよう!!


これなら
お金も時間もかからない。

一瞬の施し。
一瞬の幸せ。




・・・というわけで
人様が笑顔になるようにと
そのチャンスを狙うようになった。

何かのきっかけで
ほんのちょっとの言葉で
その人をいい気分にしてあげられるように、
が常に頭の隅にあるようになった。

かと言って
心にもないお世辞を言うのでは布施にはならない。

やはり
本当にそう思ってこそだ。


ということは
お世辞ではなく
本当にそう思う「何か」をお相手の中に見つけねばならなくなる。
つまり
お相手の「よいところ」探しをしたり
お相手への「思いやり」を持ったりすることが不可欠となるのだ。



出かけた時には
出会う人すれ違う人
誰でもがその相手になりうる。

どこか話しかけるチャンスはないか、
なにかほめることはないか、と
忙しい。


出かけない日には
人と接する機会がないわけだから
電話をかけてくる人
インターホーンを鳴らす人
とにかく誰でもよくなってくる。
普段なら
それが、迷惑だと思う人でさえ
格好のターゲットとなるのだ。

こうなると
もう
ゲーム感覚である。

例えば大阪からかかってくる
迷惑千万なマンションのセールスにさえ
ほめて返そうと試みるのだから
相手もびっくり!!


「もしもし、こちら○○と申しますが
 奥様でいらっしゃいますか?
 大阪の駅前のワンルームマンションが・・・」

「あら~~~、あなた、おいくつ?!
 はっきりとした、とてもいいお声ね。
 すばらしいわ!!
 
 うちは、マンションを買う気は全くないのよ。
 わざわざご案内ありがとうね。

 あなたもお仕事大変ね。
 こういうお仕事は
 いやな思いをなさることもあるでしょうに・・・
 でも、
 若いうちはとにかく頑張って下さいね。

 あ、でもご自分の良心といつもご相談なさってね。

 本当に素敵なお声。
 そのお声、大切にね。

 お疲れ様。
 どうも
 ありがとうございました」


…てな調子   




 傍で聞いていた娘曰く。


「おかん、
 それって
 言施と言うよりむしろ“おちょくり”だよ」




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