幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

エネルギーは廻る

2010年01月31日 22時19分51秒 | 波動
 娘がホール状のケーキを頂いてきた。
直径21センチ。
あまり、甘い物を沢山頂かない我が家には大きすぎる。しかも卵アレルギーの娘はひとくちふたくちでかゆみが出てくる。私の好きなタイプのケーキではあったが、口をつけるには多すぎるので、涙をのんでそのまま友人にさしあげた。

 と、それはその場でみかんと文旦に早変わり
前日、丁度、買い置いたみかんを食べ終えてしまい
「みかん、食べたいね」
と言っていたところだった。

 ケーキがみかんになった

エネルギーは流れる物。自分の前をスムーズに沢山流れるのが理想である。
そのためには人様に使うエネルギーを惜しんではならないと何かで読んだ。
愛もお金も食べ物もおよそこの世の全ての物はエネルギーの変化した物。
自分のために使うエネルギーもまた変化する。なんに使うかで返ってくる時の形が違う。
それをよくよく考えないととんでもないことになるのだ。

 これも何かに書いてあった事だが、自分にとって不要な物を処分するとき、思い切って棄ててしまうか誰かにあげてしまうのが良いそうな。
 例えば洋服。
リサイクルショツプでわずかな金額で売り払うと、それはそこでエネルギーの交換が終わってしまった事になりそれ以上のエネルギーが来る事は期待できない。
 けれどまだまだ使えるそれらを、喜んでくれそうな誰かに貰って頂いたとき、いつか予期せぬ時にそのエネルギーが形を変えて返って来るそうだ。しかも人を喜ばせた分の利子がついて。

 私はこの事を知ってから、以前にもまして人様にモノを差し上げるようにしている。
できれば言葉や行いなどを伴う心も・・・まっ、今はエネルギーを廻したいという損得勘定以外の何者でもないのだが

 ああ、はやく尊徳勘定の出来る人間になりたいな
愛いっぱいの人になりたいよぉ~
・・・それにはまず、最大ネックのわが伴侶を寛容に愛せるようにならねば
日々是修業、です

両手を・・・。

2010年01月31日 20時56分31秒 | 暮らし
 うちの娘・・・全く、親の顔がみたい
いくら言っても両手を使わない。お湯飲みは片手、盃は男飲み、運転も殆ど右手のみ。

 親の言う事を聞かないのは親を尊敬していないから。まっ、尊敬されなくて当たり前な親ではあるけれど、年長者ということと、育ててもらったと言う事だけでも、もっと重んじられても良いと思うのですけれど・・・ほんと、いったいどう言う育て方をされたのでしょうねぇ

 それにくらべて、私の知り合いのある若い奥様。
彼女は何かを受け渡しする時、必ず両手を使う。しかも持っている右手からほんの少しだけ左手を控え、右手に左手を添える形で手渡してくれるのだ。それがなんとも上品に見える。こう言っては何だが、彼女は決して美人の部類ではない。また、育ちの良い両家の子女というふうでもない。見た目にはほんと、十人並みの一般庶民そのものなのである。
けれど、彼女のその部分に気づいたとき私はとし、彼女を見直したのであった。
その後も彼女はいつもそのかたちをくずさない。しっかりと身についているようだ。
親御さんに躾けられたのか、ご自分で意識して身につけたのか。いずれにしても彼女の財産の一つになっている。

 対し、先回書いた神社の巫女様。別に後ろが支えていたわけでもないのにおつりを片手で渡してきた。しかも、無言で・・・
 もちろん、その態度一つで、その神社の管理者に対する私の印象はとてもダウンした(不思議なことに主祭神に対しては何も思わない。かえってお気の毒になるくらいなのだ・・・これって、私の自分勝手?!)

 とういようなわけで、左手一つ添えることの印象の違いがはっきりする。品よくなりたければ、また感じよく接遇しようとするならば「両手で」は必須なのだ。         
 しかし、相手(人はもちろん、モノに対しても)への思いやりや、大切にする気持ちがあればいわれずとも当然両手を使うはずだ。それができないのは、育ちだけのせいではない。今、自分が手にしている物や、渡そうとする相手への優しさを自分の中に育てていないからである。物を手渡すとき、それはモノのみならず自分からのエネルギーも手渡しているのであり、物を扱うとき、それは己の心の在り様が表れるのだと言う事を意識したほうがよさそうだ。

 はぁ~~~
結局、わが不出来な娘、優しさに欠けると言う事か。いやいや、やはりその心をうまく育てられなかった親のせいである。

神社の皆様かんがえて!!

2010年01月26日 20時49分24秒 | ひとりごと
 今日、椿大神社に詣でた。今年すでに二回目。
ココの森は実に気持ちよい。さすが猿田彦様~~~っていう感じです。
今年は家庭画報が新年号で「パワースポット」として取り上げていた。
なぜか婦人画報やサライでもパワーのある神社が特集として組まれたりしていて、やはりそういう方向にエネルギーがむかっているのかな、って思ったりする。それはそれでうれしいことなのだが、そこで気になることが一つ。

 特に新年や行事のあるときはたくさんの人で賑わうので仕方ないのかもしれないが・・・神官さんや巫女さんの言動が気になってしまうのは私だけだろうか。
せっかく神の森に癒され気持ちよくなっても、そこにいる神社サイトの人々に嫌な思いをしてしまう事がしばしばなのがとても残念なのだ。
 ま、巫女さんなどはにわか仕立てのアルバイターなのだろうから、と思おうとは努力してはみるもののやはりそこで働く事の意味を理解して欲しいと思うし、雇う側はその心構えをきちんと指導して欲しいと思う。一時的にしろ、見掛けだけにしろ「神に仕える身」として人々の目には映るのだと言う事を意識していて欲しい。お譲り頂くいろいろな物にしろ、お祓いにしろ、その有り難みはそれを手渡してくださる方や取り次いでくださる方によって随分異なってくるのだから。

 少なくとも、今日、椿大神社で接した巫女もどき(?)や車の安全祈願をしてらした神官
の言動のなかに「愛、心配り、一期一会、有り難さ」を感じる事は出来なかった。それはとりもなおさず、宮司さまの人徳にさえもかかわることではないだろうか。三重の一宮であり、大好きな猿田彦さまのお社であるがゆえに、このうえなく残念に思うのだ。

 毎日毎日、たくさんの人を相手に、しかも自分勝手な人々を相手にやってらんないよ、と言いたいかもしれない。けれど、ご縁あって神のお社で働く事が出来ているのだ。そのことを肝に命じ、一瞬一瞬の己の言動をただし、愛を込めたエネルギーで接して欲しいと願ってやまない。
 椿大神社のみではない、大きな神社になればなるほど、自分達がなにものであるかをしっかり意識しないととんでもない錯覚を起こしてしまうのではないか。

 ・・・などと、偉そうな事を思ってしまう私もまた、なにか思い違いをしているのかもしれないが

橋姫神社

2010年01月25日 08時21分50秒 | ひとりごと
 昨日、宇治平等院の表参道の入り口付近にある「橋姫神社」を参拝させていただきました。

 伏見の病院に入院している知り合いを見舞いがてら、世界遺産の伏見稲荷、宇治平等院、宇治上神社をあらためてしっかりと見、参拝させていただこうと企てた私。
 でも前日、地図を見てネットで調べて、「なんかちがう?!」と心の中で感じ、「藤原系の神様によばれているはずはないんだけれど・・・」と思いながらも「まっ、いいか。天下の世界遺産ですもの。もう一度きちんと拝ませていただこう」てな程度の気持ちで京都に向かいました。けれど内心「お呼びが掛かっていれば、絶対に瀬織津姫様にもおあいできるはずだし・・・」とも思っていたのです。
 もちろんメインは知り合いを見舞う事であり、それが叶うだけでも充分なのですが、そこはほら、やっぱり愛知は岡崎からはるばる京都まで行くんですもの、なんかご褒美がなきゃあねぇ~~~みたいなスケベ心は抑えきれないでしょう?!

 結果、時間の関係で、伏見稲荷も、宇治上神社も、平等院もすべて参拝する事叶わず。かろうじて平等院の敷地の中にある不動明王様とお地蔵様だけは御参りさせて頂くことが出来ました。
 そして!!平等院付近の駐車場で車から降りる直前に地図を見ていて目に付いたのが「橋姫神社」。なんとも小さそうなお社。でも「橋」とくれば「川」。「川」とくれば「水」。ぜったい、瀬織津姫様に違いないと確信し、「やはりおいでになられた」と嬉しくなり、暗くなってしまった平等院の表参道付近をさがしたのです。

 少し迷いながらたどりついた「橋姫神社」はあまりにも小さく、あまりにもお気の毒な環境でした。神明社と並んで祀られており、明かり一つつくわけでもなし、暗闇の中で御参りする身にはどちらが姫様なのかさえわからないほどでした。ただ、とても嬉しかったのは、その小さなお社にも鳥居の脇にきちんと由緒書の立て札があり(しかもその立て札が新しいのですが)その中にはっきりと「瀬織津姫」をお祀りしていると言う事が書かれていたのです。社名は「橋姫」という名に変えられているものの「瀬織津姫」の名が明確にだされているなんて!!
「ほら、やっぱり!!やったね今日はここにお呼びがかけられていたのだわ」とルンルンになってお参りをしようとしたのですが・・・真っ暗で見えないのです。並んで祀られているどちらのお社が姫様???わかんな~~~い
 ええい!!ままよ!!
「お相手はお神明様だもの。順序が逆になってもそう差し支えはないでしょう」
などと自分に言い訳して、それでも自分の勘を精一杯働かせ、瀬織津姫様に当たりをつけて真っ暗な中でお参りしたのです。お参りが終わったとき丁度通りかかる車のライトのタイミングを狙えばどうにか文字が読めることに気づきました。で、じぃっーと凝視していると、またまたやったね大当たりでした

 ということで、私は宇治まで橋姫神社のお参りに行かせて頂いた、という結果になりました。あっ~~~楽しかった

 山水治夫著「瀬織津姫物語」が偶然手元にやって来て、昨年から続いている私の寺社めぐりが弁天様、白山菊理媛、しいては瀬織津姫様につながっていることに気づいてから、意識的に瀬織津姫様をお尋ねするのが楽しくなってきた私。数年前までは神社仏閣、仏像などには全く興味がなかったのに、今は呼ばれた神社に御参りできた時、なんともいえぬ落ち着いた幸せな気分になれるから不思議です。

 人間の体の殆どは水であり、地球が水の星であることを考えれば「水」をつかさどる神である「瀬織津姫様」の力が強くなってこそ、という山水さんの言葉に私は頷けます。
私は瀬織津姫様のことをあまりよく知りません。でも、それを思うだけで胸が熱くなるのです。

 宇治にご在住の方にお願いします。「橋姫神社」を大切になさってください。せめてお社のある地を浄く保ってくださいませ。宇治川を治めてくださっている神様です。何卒よろしくお願い申します

聖地巡礼

2010年01月23日 13時49分19秒 | ひとりごと
 数日前に紹介した田口ランディの「聖地巡礼」を読み終えた。自分で捜し求めた本ではなく、ある人が他の本と一緒に貸して下さった本である。
 写真も入っていて(だれぞやのブログとはえらいちがいだ!!)、文章も読みやすく感受性の細やかな本だった。あちらこちらに、きらりとひかる大切な言葉が散りばめられていて、それは今の私の思いを「文字」「言葉」として明確にしてくれた。
 こころ(魂???)を潤したい方にはお勧めの本である。

 その本を読んでいて一つはっきりした事がある。
以前にも書いたが、私は三月になったら九十九里浜へ一人旅をしようと思っている。
 NHKで垣間見た九十九里の濡れた砂浜に映る日の出の輝きを見たいがためだ。
 何故ひとりか・・・それは自分と対話するため、自然と繋がるため。
 九十九里のどこへ行けばよいのか・・・わからない。知らない。でも行けば出逢いが待っていて、流れに沿えばちゃんと導きがあるに違いない、と思っている。

 ところが、昨夜、私の中にあった思い込みの場所は鹿島灘である事が判明した。NHKはまちがいなく九十九里浜を取り上げていたのだが、無知な私は九十九里浜の場所を、ずっと鹿島灘の場所とおもい違いしていたのだ。
 それを知った私はこれまたなぜかとてもがっかりしてしまったのだ。
「えっ~~~~?!場所、違うのぉ~~~~?」
 それでも
「まっ、いいか!!適当に海岸線を巡ればいいし・・・」
等と思い直していた。

 が、今朝、先の本を読んでいて分かったことがある。
 私は鹿島神宮に行くのだと思う・・たぶん。
私の頭の中には「鹿島神宮」は全くなかったし、「鹿島神宮」がどこにあるのかも知らなかった。でも、九十九里に行こうと思った時に脳裏に浮かんだ地図上の場所はまさしく「鹿島神宮」のあるポイントだったのだもの。

 やっぱり、来る物をちゃんと受け止めているとこういう展開になる。
自分で、あれやこれやを計画せずともちゃんと神様が導いてくださる。
鹿島神宮に行ったとて、急に何かが変わるわけではないのだろうけれど、でもきっと気持ちいいんだろうなぁってそう思うだけでなんだかとても嬉しくなる。

「聖地巡礼」
神様に興味のある人もない人も心のお掃除に是非一度お読みくださいませ