幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

ノラ猫ゆうちゃん 病気になる  その1 

2011年06月30日 16時40分35秒 | ひとりごと
 大切な家族だった犬が死んで3年。

 いま、我が家に回ってくる猫は10匹超えている。

明らかに飼われていると思われるもののほうが多いのだが
その中でノラなのかそうでないのか
よくわからないのがいる。

それが「ユウ」ちゃんだ。




 ユウはどちらかといえば新参者。

今年になってから姿を見せ始め
三月ごろには家の中にも入ってくるようになり
今では
時々だが泊まっていくまでになった。


白と黒のぶち猫で
以前に紹介した美男子「ハナ」とよく似ている。

が、ハナは7,8Kgはあるだろうと思われるしっかりした体格で
四肢も尾もすらりと長い。
白黒とはいえ
どちらかといえば白が勝っている。

それに比べ
ユウは一見雌猫かと思われる感じを持っていて
よくイラストにあるような
典型的下半身ぽってり型。
ほとんどが黒いといってもよいかもしれない。


ユウは臆病で甘えん坊。

家の中に入ってくる時
戸をあけてやっても
すぐには入ってこない。

距離を置いて警戒し、
間口を通り抜けるときには
こちらのすきを狙うかのように
素早く走り抜ける。

このあたり、「ノラ猫」を思わせる。

 しかし、だとしても、
人に嫌なことをされた経験はないらしく
いったん家に入ってしまえば
足にすり寄り
甘えた声でなき
新聞でも読んでいようものなら
その真ん前に来て
ドタっと横になり
撫でろといわんばかりにあおむけになる。


そのくせ、抱かせてはくれない。


 動物好きの娘が
いろいろな猫を馴らしてきたが
以前に紹介した連中は
皆それぞれに癖があり
それがいまいちうっとおしくて
遠ざけてしまった。

不細工ぶっちゃん以外は
みんな飼い猫らしきこともあって
そんなふうにしてもまず問題はないのである。


 ただ、明らかにノラ猫のぶっちゃんに関しては
見放してはかわいそうだと
かなり情をかけたのだが
彼は(?)根っからのノラ猫のようで
いくら優しくしてもなついては来なかった。


朝は一番に開き待ちをし
夕べは
車が帰り着くや否や
どこからともなく現れて
入り待ちをするぐらい
我が家にその食を頼っていた。

顔が大きく体は寸胴。
目つきは悪く
ブチの入り方さえもみっともよくはない。

おまけにさすが野良というほど汚れている。



「ほんと、ぶさいくよね~~~~」

と言いながらも
私たちは
毛布付きで
ねぐらの箱まで与えた。

素直にも彼(?)はすぐにその箱に入るようになり
一時はかなりの時間を
我が軒先で寝起きしていた。

が、
そこをしばしば襲う何者かが現れ
彼がその箱で過ごすことは無くなった。



 それでも
頻繁に朝夕の食事時にはきちんとあらわれ
ひたすら
黙って
じっと待っている
健気なぶっちゃんだった。


ただ、やっぱり彼(?)は一切触れさせてはくれず
目の前の餌皿を取ろうとすると
たびたび猫パンチをしてきた。

私などは危うくその猫パンチにやられそうになるのだが
娘は素早くそれをかわし
反対にビンタをくらわせていた。


そんなぶっちゃんと娘のやり取りはかなりおもしろいものがあり
それを見ているのも楽しかった。



 けれど
一年近くなっても
相変わらずのぶっちゃんに
さすがの娘も
「可愛げのないやつ」
と言い出した。

(私は、ノラらしくていいな、とも思っていたのだが・・・)


 そこへ
ユウが表れ始めたのだ。

そうして
あっという間に
私たち親子の寵愛を上手に受け入れるようになった。






のらねこ ユウちゃん病気になる 前書き

2011年06月30日 16時07分07秒 | ひとりごと
NHK,BSプレミアム、20:00~
「猫と芸術家」
という番組がここ数放映されている。

猫好きの私としては見逃すわけにはいかない。

それぞれに個性があって面白い。


あれが犬ではなんとなく間が抜けてしまうような気がするから不思議だ。

犬には犬に良さがあり
それで番組を組んだならば
それなりに面白いものになるではあろうが
さすがプロのやること。
今回のこのシリーズは
猫であってこそのものとなっている。



そんなことを考えながら
猫と人の関係を楽しんでいる矢先に
我が家に出入りしているノラ猫ユウちゃんが病気になってしまった。 


数日前
見回りにやってきた「ハナちゃん」と鉢合わせになり
やりあった結果
ユウはハナに噛まれてしまったのだ。


そうして
そんなときにかかる病気「」になり
危うい状態なのである。


その一連の事情と私の心理を
つづってみようと思う。


つまらなければごめんなさい 

痛いとき何を考える?

2011年06月26日 22時17分35秒 | 波動
 見えない存在に助けを借りて
今日は何を書こうかと考えている。

 わたしたちはいつも、見えない存在に助けられているという。
その見えない存在たちは
私たちの魂の行きつくべきところをちゃんと知っていて
アドバイスしてくれているという。

ただ、そのシグナルに敏感であるか否か、の違いだけなのだと。


 今日のあなたは幸せでしたか?
しあわせでなかったとするならばそれはなぜですか?

もしかして、自分の望んだようにならなかったからですか?

それとも、病気で苦しんでいるのですか?


 先日来
私は左腰のあたりの鈍痛が増し
ついに昨日は立っていることもしんどく
お昼過ぎから
今日の2時過ぎまで
ひたすら眠り続けてしまいました。

寝ていても
体の置き所がないのを感じ
しんどくてたいへんでした。


 でもそんな中で自分に言い聞かせたこと。

*この世のことで「永遠」に続くことは決してありはしない。
 この痛みや症状も必ず変化する。

*よかったね。
 これで、母のしんどさが少しは理解してあげられるね。
 首から来る神経の圧迫でいつもいつも寝られぬほど
 手足、腰が病める母はこれ以上につらいのだろうと実感できたね。

*私の60兆個の細胞たちよ。いつもありがとう。
 あなたたちが、元気でいてくれたから
 私はこれまで自由に動けていたのね。
 ごめんね、何か気づかぬことがあってこうなっているのね。

 ありがとう。あなた方は完全です。
 明日目覚めるころにはよくなっていますよ。

この現実が、以前に私が思ったことによってもたらされているとするならば
 それがなんであったか
 今はもう思い出せない。

 でも少なくとも
 この現実はもう十分。

 ありがとう、体験させてくれて。
 でも、もう十分だからね、ありがとうね。

 元の元気な体に戻ろうね。




・・・こんなことを繰り返しながら
私はひたすら眠り、
気圧が変わるのを待った。


 私の身体の不具合の原因はいろいろ考えられる。

1、昔の事故による骨と神経の問題

2、座り方のくせによる体のねじれ

3、気圧や太陽ブレアが1,2、に与える影響

4、内臓の疲れから来る腰痛による痛み

5、フォトンベルトの影響

6、以前に私が願ったことの想定外の結果

7、体験し、何かを悟らねばならないチャンス

8、ウィルスのいたずら


ま、いずれにしても、
現実としては「痛い」「しんどい」が私の目の前にあった。


 そして、それは
今日の午後からずっと楽になってきている。

楽になった要因は
 
1、気圧が変わった(台風の変化?)

2、ウィルスが減った

3、60兆個の細胞たちにメッセージが届いた

4、2食抜いたことでデドックスできた?



 とにかく、こうしてブログを書いていられるのだからありがたい。

原因が何であれ
結果がどうであれ
私は「痛い」という体験をし
「痛くない」ことのありがたさをつくづくと感謝できたことだけは間違いない。


 さてさて、
あなたなら、痛みの最中に何を考えますか?

 

しあわせと感謝と嫉妬 (その2)

2011年06月23日 23時20分54秒 | ひとりごと
 私たちが幸せになる一番早い方法は
今ある現状に感謝し、
「しあわせですね」「ありがたいですね」
を事あるごとに口にすることだ。


小林正観風に言えば「ありがとう」を何万回と言うこと。

伊勢白山道風に言えば
「生かしていただいてありがとうございます」と
毎日感謝すること。


 ただ、あの彼女のメールの件で
ずっと考え続けて気づいたことがある。


 それは
相手には関係ない自分だけの幸せや感謝は
人に見せないほうがよいということだ。

その幸せや感謝の念が
相手と共有できるものならばどんどん互いに表現しあったほうがよい。

そして
自分たちがいかに恵まれ
いかに幸せかを自覚しあい
感謝し、
その幸せを
配る方法も考えるのがよいだろう。


 しかし
それが相手には全く関係なく
ただ、自分が幸せであることを見せるだけの結果になるならば
できるだけ見せないほうがよいと
私は思うのだ。



「○○○で、わたしたちはしあわせですね」

あなたのおかげで○○○でした。ありがとうございます。感謝です」

・・・ならば何の問題もない。


しかしこれが

「私は○○○でしあわせです。ありがたいことです」

「私は○○○できたのよ。しあわせだわ」

というように
自分だけがラッキーだったり、しあわせだったりすることを
誰かに見せるのは控えめにしておいたほうが
相手の気持ちを逆なでせずに済むような気がするのだ。


誰かの幸せは喜んであげたい。
でも
自分の幸せは
必要以上に見せびらかさないに限る。



しあわせも、感謝も
自分一人で
見えない存在に対して発している時は問題がない。

けれど
誰かに対して発する時には
それが相手と共有できるものであるかどうかに気を使ったほうがよい。

それを考えることも
「愛」のひとつであり
不必要に「嫉妬」という人間の持つ「煩悩」を掻き起すのは罪なことだ、
と思い至ったのだ。





 私と比べれば完璧に近い人生を送っている彼女ですら
私の気持ちを波立たせていることに気づいていない。

「こんなに尊敬している人にどうしてこんな感情が・・・」

と、悩み続けて
狭い自分の力量を責めてきた。

自分の言動が
私のような誰かを作り出さないとも限らないのだ。

嫉妬を駆り立てるのも罪ならば
自分を責めさせるのも罪だろう。

重々、注意したほうがよい。



 ただ、
ここに思い至った今
あらためて思うのである。


 ああ、彼女はこんな風にして私に
「自分で気づかずに他人を嫉妬に駆り立てる方法」
を見せてくれている。

 ならば、私はその教えを生かし
しあわせや感謝は共有できてこそ「愛」になる
ということを肝に銘じ、実行しなければならない、と。





しあわせと感謝と嫉妬 (その1)

2011年06月23日 21時57分54秒 | ひとりごと
 私の中で
ずっと処理しきれない複雑な思いがある。

それは嫉妬?!
それは執着?!

なぜか、いつも
自分の中に起きるざわざわ感。



 松尾芭蕉の句に

「山吹の露 菜の花のかこちがおなる」

というのがある。

つまり、
はなやかな山吹の花が朝露を浴びてなお一層華やかに美しく輝いているのを見て
菜の花が羨ましげな顔をしている
というような意味なのだが
私はある人と接するといつもこの句を思い出してしまうのだ。

 私はその人のことが好きだ。
いろいろお世話になり、ご指導いただき、尊敬している。

何よりも
その人によって「こんな風に生きていいんだ」という
生き方のお手本のようなものを見せていただき
私の人生は大きく変わったといってよいほどだ。


人の悪口は言わない。
物事を、ことごとくよいほうに解釈する。
自分のことを決して責めない。
いつも「しあわせですね」「ありがたいですね」と口にする。


だから
彼女は本当に「ついている」「守られている」という現実の中に生きている。


 であるにもかかわらず
彼女からのメールで
私の気持ちがざわつかないことが少ないのだ。


どうしてだろう?
なぜだろう?




ずっと考え続けてきてこのごろようやく気付いたことがある。



 それは
彼女のメールが
こちらの発信したことに応えていないということと
自分の今ある幸せな状況を伝え
それに感謝していることが多いということだ。


 たとえば私がこんなメールを送ったとしよう。


〝教えていただいたレストランは雰囲気も接遇も、
 もちろん、お味もとてもよく
 ちょうどすいていたこともあり
 家族三人素敵な時間を過ごすことが出来ました。

 おかげさまです。
 ありがとうございました  ”


すると彼女はこんな返信を返してくる。


〝今夜は娘とコンサートでした。
 小さなホールでしたのでそれが却って素晴らしく
 迫力のある演奏を聴くことができてしあわせでした”




あるいは

〝先日はありがとうございました。
 お供させていただけたことに感謝です。

 幸せだなあと思います。

 ほんとうにありがとうございました”

と送れば


〝今日はお接待を受けて
 今から吉兆です”

と返ってくる。


・・・・・   


「ふつうは」という言葉ほどいいかげんなことはないので
あまり 使いたくはないが
あなたなら私の送ったメールにどんな応え方をなさいますか?

私ならきっと

〝どういたしましてお役にたててうれしいです”

とか

〝こちらこそ。ご一緒してくださり感謝です。
 楽しかったですね。
 また、よろしくおねがいいたします”

とかを返すだろう。


私の気持ちがざわつくのは
彼女の返信の中に私の言葉への受け答えがないからだろうか。
だから、
まるで無視されたように感じて平気でいられなくなるのだろうか。

 それとも
私の気持ちの中に嫉妬心があって
彼女の幸せが妬ましいのだろうか。
なんだか
「わたしはこんなにしあわせなのよ」
と、見せびらかされているような気がして腹が立つのだろうか。




 でも彼女の中に
自分の幸せを見せびらかそうという思いなどないことは分かっている。

彼女はいつだって
自分の幸せに感謝しているにすぎず
いつだって悪意などないのだ。

わかっていながら、なお、私の心はざわついてしまう。


で、いつも
あの、芭蕉の句を思い出してしまうことになる。

やはり
菜の花は山吹に負い目を感じずにはいられないのだろうか。




 理由がなんであるにせよ
それが私の執着から来ることは間違いない。


〝いつも私の言葉が無視される。

 いつも私の状況に上乗せした幸せを見せてくる”

そんな「私の」という執着が
私に余分な負荷をかけてくるのだ。

「ああ、この人は、こういう受け答えをする人なんだな」

と、理解し、そのまま手放してしまえばよいのに
それができないでいる。

そして、それゆえに私は嫌な思いをするのである。



菜の花は自分の美しさを知っていればそれでよいのだ。

自分を露に輝く山吹と比べるから苦しみが始まる。

菜の花はひたすら菜の花であることに感謝していればよいのに・・・。