人生は楽ではない。そこが面白いとまあしておく。
人生は楽ではない。
それだけ生きることも楽ではない。そこが人生の面白い処にしておく。
面白すぎることにしておく。
人生は苦しすぎるかもしれない。それだけ僕は人生をまた面白い処として、
この世に生きてゆくことをできるだけ面白いことと思う。
実にこの世には多くの人が生まれ、多くの人が苦しみ、また骨折る。そこが大変だがそれだけ私たちはこの世に働いてゆきたい。
大変だ、大変だでおもしろいとまたしておく。
人の一生、僕は人生が分かったとは言えないが、だが分かり切った人生と言うものはまだわからない。
わからない処を面白いと。
わからないながら、苦しみ、たのしみ、そうして、希望を失わなずに生きてゆくのである。
そこが面白いとばかりは言えないが、まず面白いとして生きているのである。
武者小路実篤 89歳 昭和49年(1974)
娘の人生は決して平坦ではない。
いままでも、ずっと大変だった。
親と合わない。先生と合わない。社会と合わない。
もちろん、未熟な「自我」のせいもあるが、
エネルギーが、多少違っているせいでもある。
受け入れられないことがいっぱいで
「地球のルール」になれていない。
それでも、この世に、この時期に、この場所へ、この環境で
自分の人生を設定することに同意したのは自分自身のはず。
それを忘れてただ、苦しみ、嘆き悲しむ。
なぜ、その苦しみが引き寄せられるのか、まだそこを考えられるほどにはなっていない。
実篤のように
全ての事を「おもしろい」と取れるようになれば
人生の楽しみ方が違ってくるのに。
人生は楽なばかりがよいのではない。
もちろん、何もないことは幸せだけれど、何かあっても幸せでないことはないのだ。
「しあわせだ」を選択するか否か、ただそれだけの事。
自分の命がある。
子供たちが元気に生きている。
住ませてもらう場所がある。
明日食べるご飯に困らない。
五体満足,息だってちゃんとできている。
今日も空がきれいで、おひさまが上ってくださっている。
そんな当たり前が、本当はとても有り難いんだってことを
彼女が実感として理解できるには
きっと
まだまだ時間がかかるのだろうと思う。
そして、そういう当たり前のことに感謝できたときにこそ
知らず知らずのうちに「幸せの引き寄せ」が起きてしまうという事に気付くのも
きっとまだまだ先なのだろう。
で、私は?
もちろん、毎朝、ヨガの後に「今日のクレド」を唱えているもの。
「今日も私は幸せを選択いたします。
今日も一日ありがとうございます。
ますますの元気と豊かさをありがとうございます。
この豊かさを皆で分かち合います。
今日も一日ありがとうございました」
・・・って。
で、お中元にメロンが届いた。
早速、ご近所にお分けしよう!!
なんたって「私は今日もしあわせです」を選択しているのだ。
たとえ、今、遠いニュージーの空の下
娘が泣いていようが悩んでいようが
私にできることは
彼女の強さを信じ
彼女の「学び」に感謝して、
全てがうまく導かれていると信じることだけ。
そうして
実篤のように
「だから人生面白い」としよう。
人生は楽ではない。
それだけ生きることも楽ではない。そこが人生の面白い処にしておく。
面白すぎることにしておく。
人生は苦しすぎるかもしれない。それだけ僕は人生をまた面白い処として、
この世に生きてゆくことをできるだけ面白いことと思う。
実にこの世には多くの人が生まれ、多くの人が苦しみ、また骨折る。そこが大変だがそれだけ私たちはこの世に働いてゆきたい。
大変だ、大変だでおもしろいとまたしておく。
人の一生、僕は人生が分かったとは言えないが、だが分かり切った人生と言うものはまだわからない。
わからない処を面白いと。
わからないながら、苦しみ、たのしみ、そうして、希望を失わなずに生きてゆくのである。
そこが面白いとばかりは言えないが、まず面白いとして生きているのである。
武者小路実篤 89歳 昭和49年(1974)
娘の人生は決して平坦ではない。
いままでも、ずっと大変だった。
親と合わない。先生と合わない。社会と合わない。
もちろん、未熟な「自我」のせいもあるが、
エネルギーが、多少違っているせいでもある。
受け入れられないことがいっぱいで
「地球のルール」になれていない。
それでも、この世に、この時期に、この場所へ、この環境で
自分の人生を設定することに同意したのは自分自身のはず。
それを忘れてただ、苦しみ、嘆き悲しむ。
なぜ、その苦しみが引き寄せられるのか、まだそこを考えられるほどにはなっていない。
実篤のように
全ての事を「おもしろい」と取れるようになれば
人生の楽しみ方が違ってくるのに。
人生は楽なばかりがよいのではない。
もちろん、何もないことは幸せだけれど、何かあっても幸せでないことはないのだ。
「しあわせだ」を選択するか否か、ただそれだけの事。
自分の命がある。
子供たちが元気に生きている。
住ませてもらう場所がある。
明日食べるご飯に困らない。
五体満足,息だってちゃんとできている。
今日も空がきれいで、おひさまが上ってくださっている。
そんな当たり前が、本当はとても有り難いんだってことを
彼女が実感として理解できるには
きっと
まだまだ時間がかかるのだろうと思う。
そして、そういう当たり前のことに感謝できたときにこそ
知らず知らずのうちに「幸せの引き寄せ」が起きてしまうという事に気付くのも
きっとまだまだ先なのだろう。
で、私は?
もちろん、毎朝、ヨガの後に「今日のクレド」を唱えているもの。
「今日も私は幸せを選択いたします。
今日も一日ありがとうございます。
ますますの元気と豊かさをありがとうございます。
この豊かさを皆で分かち合います。
今日も一日ありがとうございました」
・・・って。
で、お中元にメロンが届いた。
早速、ご近所にお分けしよう!!
なんたって「私は今日もしあわせです」を選択しているのだ。
たとえ、今、遠いニュージーの空の下
娘が泣いていようが悩んでいようが
私にできることは
彼女の強さを信じ
彼女の「学び」に感謝して、
全てがうまく導かれていると信じることだけ。
そうして
実篤のように
「だから人生面白い」としよう。