昔、こんな新聞の投稿記事を読んだ。
“毎日畑の草抜きをしていて気付いたことがある。
抜いても抜いても生えてくる草たち。
腹が立って
「この野郎!!」
的な心で抜いていると
草は途中で切れて、根っこが残ってしまう。
その根っこを抜くのにまた一苦労である。
しかし、
「あなたたちも一生懸命生きているのね。
でも、抜かせてもらうね。ごめんなさいね」
そう呟きながら抜くと、
草たちは、抵抗しないで根っこまできれいに抜けてくれる。
植物たちには、こちらの思いを受け止めてくれる大きさがあるようだ”
これは、私がまだ、波動だとかワンネスだとかを知らない時分だった。
この記事は私の心に強く残り
それ以後、草抜きをする時は
自分もそれを実践してきた。
確かに記事に書かれている通りだ。
事情を告げ、謝りながら、
少し心を痛めながら抜く草たちは素直に抜けてくれる。
逆に
何も考えず、いきなり引っ張ったりすれば
ぶつりとちぎれてしまう。
本当にあの記事の通りだった。
何よりも、草抜きをしている間中
「ごめんね。許してね」
と、繰り返す自分の心持が違ってくる。
なんだかとても穏やかになり
まるで、お経や祈りをささげているような感じなのだ。
従って、自ずと、その草をつかむ手つきも穏やかになり
丁寧に抜くようになる。
そうなれば、必然的に
草にかかる力も均等になるので
根っこまでスムーズに抜ける
・・・とまあ、物理的にはこういうことなのかもしれない。
が、私は投稿者と同じように
“植物にはこちらの意思を受け止める力がある”
と思っている。
そして、心優しい植物たちは
こちらの都合を受け入れてくれるのである。
今朝、庭を眺めていて
ふと、樫の木のある枝を切ろうと思い立った。
急に暖かくなったこの頃
庭の中央の棒樫の木は新芽が大きくなり
かなりのボリュウムになってきた。
そのせいで足元の四季咲き苺に日が当たらなくなっている。
せっかく花を咲かせているのに実がならなくなっちゃう!!
そう思った私はすぐさま花鋏を持って庭に出た。
有無を言わさず
その枝を切った。
そして、もう一本切ろうとしたとき
枝を支えている左手の中指の腹が
鋏の持ち手の間に挟まった。
枝を切るために右手は思い切り力を入れて鋏を使う。
それに挟まれた指の腹は
見事に皮をそがれてしまった。
痛い!!
叫んだ時には遅かった。
一瞬のできごとである。
指から、血がしたたり落ちる。
あふれ出る鮮血を眺めていると
「その血は私の痛み。
いきなり切らないで・・・」
と、悲しみが伝わってきた(様な気がした)
ああ、そうだった。
私は枝を切る前に
ただの一言も棒樫に謝りはしなかったではないか。
しかも、
棒樫自身の成長のために切るのではなく
足元の苺かわいさに、
いや、
もっと言うならば
苺を実らせたいという自身の欲のために
それらの枝を切ろうとしたにもかかわらず、だ。
「ごめん・・・ごめんなさい。
そうよね、私の都合であなたを切り落とすのに
事情も告げず、謝りもせず、
ほんとうにごめんなさい。
でももう少し切らせてね。
勝手だけど、苺さんに日差しを分けてほしいの。
それと、あなた自身をもう少し恰好よくするために」
そのあと、
選定した十本ほどの枝の一つ一つに
鋏を入れる都度
ごめんね、を繰り返した。
私が、それ以上のけがをすることはなかった。
杣人たちは
山に入る前に祈りを奉げるという。
木を切る前に
獲物をとる前に
山の神々に
木々たちに
獣たちに
祈りを奉げる。
感謝を奉げ
安全を祈るのだ。
今朝の私は
それを忘れてしまっていた。
こんな小さな庭でも、
木々たちも
動物たちも
それぞれに生き
命を燃やしているというのに。
“毎日畑の草抜きをしていて気付いたことがある。
抜いても抜いても生えてくる草たち。
腹が立って
「この野郎!!」
的な心で抜いていると
草は途中で切れて、根っこが残ってしまう。
その根っこを抜くのにまた一苦労である。
しかし、
「あなたたちも一生懸命生きているのね。
でも、抜かせてもらうね。ごめんなさいね」
そう呟きながら抜くと、
草たちは、抵抗しないで根っこまできれいに抜けてくれる。
植物たちには、こちらの思いを受け止めてくれる大きさがあるようだ”
これは、私がまだ、波動だとかワンネスだとかを知らない時分だった。
この記事は私の心に強く残り
それ以後、草抜きをする時は
自分もそれを実践してきた。
確かに記事に書かれている通りだ。
事情を告げ、謝りながら、
少し心を痛めながら抜く草たちは素直に抜けてくれる。
逆に
何も考えず、いきなり引っ張ったりすれば
ぶつりとちぎれてしまう。
本当にあの記事の通りだった。
何よりも、草抜きをしている間中
「ごめんね。許してね」
と、繰り返す自分の心持が違ってくる。
なんだかとても穏やかになり
まるで、お経や祈りをささげているような感じなのだ。
従って、自ずと、その草をつかむ手つきも穏やかになり
丁寧に抜くようになる。
そうなれば、必然的に
草にかかる力も均等になるので
根っこまでスムーズに抜ける
・・・とまあ、物理的にはこういうことなのかもしれない。
が、私は投稿者と同じように
“植物にはこちらの意思を受け止める力がある”
と思っている。
そして、心優しい植物たちは
こちらの都合を受け入れてくれるのである。
今朝、庭を眺めていて
ふと、樫の木のある枝を切ろうと思い立った。
急に暖かくなったこの頃
庭の中央の棒樫の木は新芽が大きくなり
かなりのボリュウムになってきた。
そのせいで足元の四季咲き苺に日が当たらなくなっている。
せっかく花を咲かせているのに実がならなくなっちゃう!!
そう思った私はすぐさま花鋏を持って庭に出た。
有無を言わさず
その枝を切った。
そして、もう一本切ろうとしたとき
枝を支えている左手の中指の腹が
鋏の持ち手の間に挟まった。
枝を切るために右手は思い切り力を入れて鋏を使う。
それに挟まれた指の腹は
見事に皮をそがれてしまった。
痛い!!
叫んだ時には遅かった。
一瞬のできごとである。
指から、血がしたたり落ちる。
あふれ出る鮮血を眺めていると
「その血は私の痛み。
いきなり切らないで・・・」
と、悲しみが伝わってきた(様な気がした)
ああ、そうだった。
私は枝を切る前に
ただの一言も棒樫に謝りはしなかったではないか。
しかも、
棒樫自身の成長のために切るのではなく
足元の苺かわいさに、
いや、
もっと言うならば
苺を実らせたいという自身の欲のために
それらの枝を切ろうとしたにもかかわらず、だ。
「ごめん・・・ごめんなさい。
そうよね、私の都合であなたを切り落とすのに
事情も告げず、謝りもせず、
ほんとうにごめんなさい。
でももう少し切らせてね。
勝手だけど、苺さんに日差しを分けてほしいの。
それと、あなた自身をもう少し恰好よくするために」
そのあと、
選定した十本ほどの枝の一つ一つに
鋏を入れる都度
ごめんね、を繰り返した。
私が、それ以上のけがをすることはなかった。
杣人たちは
山に入る前に祈りを奉げるという。
木を切る前に
獲物をとる前に
山の神々に
木々たちに
獣たちに
祈りを奉げる。
感謝を奉げ
安全を祈るのだ。
今朝の私は
それを忘れてしまっていた。
こんな小さな庭でも、
木々たちも
動物たちも
それぞれに生き
命を燃やしているというのに。