幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

植物の気持ち

2012年04月28日 10時18分21秒 | 波動
 昔、こんな新聞の投稿記事を読んだ。

“毎日畑の草抜きをしていて気付いたことがある。

 抜いても抜いても生えてくる草たち。
 腹が立って
 「この野郎!!」
 的な心で抜いていると
 草は途中で切れて、根っこが残ってしまう。
 その根っこを抜くのにまた一苦労である。

 しかし、
 「あなたたちも一生懸命生きているのね。
  でも、抜かせてもらうね。ごめんなさいね」

 そう呟きながら抜くと、
 草たちは、抵抗しないで根っこまできれいに抜けてくれる。

 植物たちには、こちらの思いを受け止めてくれる大きさがあるようだ”




 これは、私がまだ、波動だとかワンネスだとかを知らない時分だった。



 この記事は私の心に強く残り
それ以後、草抜きをする時は
自分もそれを実践してきた。

確かに記事に書かれている通りだ。
事情を告げ、謝りながら、
少し心を痛めながら抜く草たちは素直に抜けてくれる。
逆に
何も考えず、いきなり引っ張ったりすれば
ぶつりとちぎれてしまう。

本当にあの記事の通りだった。

 何よりも、草抜きをしている間中

「ごめんね。許してね」

と、繰り返す自分の心持が違ってくる。
なんだかとても穏やかになり
まるで、お経や祈りをささげているような感じなのだ。

従って、自ずと、その草をつかむ手つきも穏やかになり
丁寧に抜くようになる。

そうなれば、必然的に
草にかかる力も均等になるので
根っこまでスムーズに抜ける
・・・とまあ、物理的にはこういうことなのかもしれない。



 が、私は投稿者と同じように
“植物にはこちらの意思を受け止める力がある”
と思っている。
そして、心優しい植物たちは
こちらの都合を受け入れてくれるのである。




 今朝、庭を眺めていて
ふと、樫の木のある枝を切ろうと思い立った。

急に暖かくなったこの頃
庭の中央の棒樫の木は新芽が大きくなり
かなりのボリュウムになってきた。

そのせいで足元の四季咲き苺に日が当たらなくなっている。
せっかく花を咲かせているのに実がならなくなっちゃう!!

そう思った私はすぐさま花鋏を持って庭に出た。

有無を言わさず
その枝を切った。

そして、もう一本切ろうとしたとき
枝を支えている左手の中指の腹が
鋏の持ち手の間に挟まった。

枝を切るために右手は思い切り力を入れて鋏を使う。

それに挟まれた指の腹は
見事に皮をそがれてしまった。

痛い!!

叫んだ時には遅かった。

一瞬のできごとである。




 指から、血がしたたり落ちる。

あふれ出る鮮血を眺めていると

「その血は私の痛み。
 いきなり切らないで・・・」

と、悲しみが伝わってきた(様な気がした)





 ああ、そうだった。


私は枝を切る前に
ただの一言も棒樫に謝りはしなかったではないか。

しかも、
棒樫自身の成長のために切るのではなく
足元の苺かわいさに、
いや、
もっと言うならば
苺を実らせたいという自身の欲のために
それらの枝を切ろうとしたにもかかわらず、だ。



「ごめん・・・ごめんなさい。

 そうよね、私の都合であなたを切り落とすのに
 事情も告げず、謝りもせず、
 ほんとうにごめんなさい。

 でももう少し切らせてね。

 勝手だけど、苺さんに日差しを分けてほしいの。

 それと、あなた自身をもう少し恰好よくするために」



 そのあと、
選定した十本ほどの枝の一つ一つに
鋏を入れる都度
ごめんね、を繰り返した。

私が、それ以上のけがをすることはなかった。




 杣人たちは
山に入る前に祈りを奉げるという。

木を切る前に
獲物をとる前に
山の神々に
木々たちに
獣たちに
祈りを奉げる。

感謝を奉げ
安全を祈るのだ。


今朝の私は
それを忘れてしまっていた。

こんな小さな庭でも、
木々たちも
動物たちも
それぞれに生き
命を燃やしているというのに。


瞬間、ぶれないで!!

2012年04月20日 14時13分09秒 | 波動
 生まれながらに豊かで幸せな人はいる。

自分がハッピーでないと、その幸せが妬ましくなる時もあったりする。

けれど、その人が、他人の幸せにも気を配りだすと
ますます、光り輝き、本人はもっとラッキーな人になっていくし
その人にかかわる周りの人たちも幸せになっていく。


 今日は、そんな、とってもラッキーなご婦人の
つい、最近の出来事をお話しよう。


 


 彼女は今年古希になった。
健康で、あかるくて、お金持ち。

私の尊敬する師匠でもある。



 若いころから、お寺や仏像が好きで
伊勢講や四国、西国の巡礼めぐりを終え、
今はある方の導きでお不動様めぐりをしている。



 ついこのあいだ
まだ、寒さが残る三月の初め、
いつものようにお不動様を巡るグループである寺に一泊した。


 翌朝は6時から朝のお勤め、ということで
引率者が支持した5時50分に、皆、指定の場所に集合した。

まだ、日の出前だった。


しかし、指示した引率者は
その集合場所からお勤めの場所まで、かなりの距離があることを忘れていた。

しかも、それはずっと階段になっている。


 70歳前後の婦人たちにとって
10分でたどり着くにはかなり大変な距離と階段だったそうな。


 お不動様だけに
戒律には厳しく
6時ぴったりに読経が始まると
出入り口の扉は完全に閉められ
遅れたものは中に入れてもらえないとか。


ということで、引率者をはじめ参加者たちは
皆、慌てふためいた。

走らなければならない。

年配の者たちのことだから
一生懸命走ってようやく間に合うくらい。


 


 ところが!!
である。

中におひとり、
走るのは無理という
足の悪い者がいたのだ。

みな、動揺した。

せっかくここまで来て
しかも
普段は入れてはいただけない朝のお勤めの中へ入ることができるというのに。

その人に付き合っていては
全員が入れなくなってしまう。

かといって、
一人を残すのもなんだか・・・

そんな雰囲気が漂った。



「私はとても無理ですので、
 皆様どうぞ
 私のことは気になさらず
 お行きになってくださいませ」

足の悪い彼女が、言った。



ためらっている暇はない!!

早くしないと扉が占められてしまう!!




「ごめんなさいね」

みな、口々にそう言いながら
走り出した。

走り出したら、懸命である。

時間は容赦なく迫る。





「ほんとうに、どうぞ、お構いなく。
 めったにない機会なのですから
 どうぞ、あなたも
 お行きになってください」


皆が走り出した後にも
そこを動かない「私の尊敬するお金持ち」に向かって
彼女は何度もそう言った。


「私の尊敬するお金持ち」は応えた。


「ごめんなさいね。

 わたしはどうしても、
 あなたお一人を残していく気にはなれないのです。

 
 いいじゃないですか。

 中には入れていただけなくとも
 お経は外までも聞こえてまいります。

 二人でそれを聞いてお参りいたしlましょうよ」




 ふたりはゆっくりと階段を上った。

途中、日が昇り始めた。

朝日が空を輝かせそれはそれは美しい。



「ほら、こうして、美しいご来光が拝めて
 私たちはラッキーじゃありませんか?

 こんな美しい空が見られるのも
 あなたの足のおかげですね」


などと、話しながら上り続けていると
門番と思しきおじさんが現れ
いかにも憎々しげな物言いで告げた。

「あと、少ししか時間はないよ、

 6時をちょっとでも過ぎれば
 絶対に中には入れてはもらえない!!

 中に入りたきゃ、早く走りな!!」


 

 再び、足の悪い人はすまなそうに言う。


「今なら、まだ、あなたは間に合います。
 どうか、
 私にかまわず
 走ってお行きくださいな」


 

 さすがに、
門番らしきおじさんの言葉に
「私の尊敬するお金持ち」も、ちょっとは心が動いたそうな。

「今なら間に合う!!」

この言葉が、彼女をせかした。


でも、心の中でつぶやいた。


「・・・仏様が、誰かを拒むなんてことがあるだろうか?
 仏様は、きっと、どんなひとも受け入れてくださるわ」



 そうして、言った。


「大丈夫ですよ。

 たとえ中には入れずとも
 仏様は私たちをも受け入れてくださるはずですもの。

 お気になさらず、一緒に参りましょうね」


 

 同行者の足も、己の心も
けっしてせかすことなく
一段一段踏みしめて登った。




6時はとうに過ぎてしまった。



ようやく 
階段を登り切り
お堂の前に出たとき
白い着物を着たおばさんが現れた。

事情を聴いたその人は

「大丈夫ですよ。
 
 仏様はそのようなことで
 あなた方をはばんだりはなさいません。

 わたくしが入れて差し上げます。

 こちらへどうぞ」


そいいうと、
お堂の裏の
関係者のみが知る出入り口へと案内してくれた。


中へ入ると、そこはご本尊の真後ろ。
こんなところから一般の者が入ってよいのだろうか、
と思うようなところだったとか。

おまけに、おばさんはそこからさらに
彼女たちを導き
皆が座している最前列のど真ん中
ご本尊の真正面の席へと座らせてくれたのだった。




 一同は唖然とした。

そりゃあ、そうだろう。

自分たちは
あわてふためいて6時にようやく間に合って
やれやれよかったとお参りしているのに
普通なら
締め出されているはずの二人が
一番前の
一番いい席を与えられたのだから・・・・・






「私の尊敬するお金持ち」が言った。


 私とて、せっかく遠くのお寺まで泊りで来て
めったには入れてもらえぬ朝のお勤めから締め出されると聞けば
動揺しなかったわけではありません。

特に
途中で
意地悪なおじさんにせかされたときは
かなり心が動きました。


それでも私は
どうしても
足のお悪い彼女一人を残していくことはできませんでした。

それをすると、きっと後々まで後悔するだろうと思ったのです。

それに、仏様が
誰かをはばにするはずがない、と信じていましたし・・・


それにしても、
試されましたね。


特に、
あの意地悪な物言いのおじさんは
二度目のお試しでしたね。


だとすれば、私たちを入れてくださった女の方は
それこそ、仏様の化身でしょうかね。


ちゃんと、ご褒美が頂けました。

有難いことです。

私たちは
いつだって
見守られていますね」




 拍手喝采である!!


長々と書きはしたが
これはわずか、10分20分の間の出来事。

しかも、一瞬の判断が問われる出来事。


その一瞬の判断において
彼女は
己の真が気持ち良い方を選んだ。

そして、そこに愛があった。

ゆえに
結果的に超幸運を引き寄せている。

こんな彼女だから

「お金持ちで、ラッキー」でいられるのだろう。


瞬間の判断の時
彼女はぶれない。


損得ではなく
尊徳を選ぶ。
しかも、意識したり、無理したりしていない。

己の気持ち良い方を選んでそうなるのだから凄い。





 彼女の話を聞いてつくづく思う。

やはり、何事も「愛」からの言動が大切なのだ。




 とはいうものの、はてさて
未熟な私などは
瞬間、
彼女のように
「愛」からぶれないでいられるだろうか。

 





 


おはようは愛をこめて

2012年04月15日 08時54分59秒 | ひとりごと
 ご無沙汰いたしました。

両親をサポートしにまたまた実家へと帰省しておりました。
家を長く空けるときは
その前後
何かと忙しいものです、
・・・などと言い訳している自分がいます。

新規の内容を期待して
アクセスしていてくださった方々ごめんなさいね。
 


 さてさて久しぶりに書く中で
何をはじめに・・・と考えたとき
故郷にいる大切な友人のことが浮かんできました。


 彼女はもう30年来小学校の教師をしています。
しかも、どちらかといえば低学年が多いようです。

元教師だった私の経験からいくと
低学年というのはある種「異星人」でもあります。

言葉が通じないのです。
高学年なら通じる言葉が通用せず
高学年では常識のことが全く通じないのです。

おなじ「小学生」であっても
一年生と六年生では雲泥の差なのです。

 何を当たり前のことを…と思われるかもしれませんが
若かった私には衝撃でした。

そして
「無理!!、絶対無理!! 私には一年生の担任は絶対できない!!」
と、思ったものでした。

まあ、これも慣れの問題ではあるのですが
それでも、やはり
小さな子供たちを大勢指導するということの大変さに
計り知れないものを感じました。


 ところが今は
それどころではないようです。

親も子も
いわゆる「モンスター」と呼ばれる類の人たちが
一クラスに一人や二人は必ずいるようで・・・
話を聞いているだけで、困惑してしまうことがいっぱい。

ただ、そこには本人たちだけの責任ではない「何か」を
感じたりもしますが。


 去年、新しい学校に転任したばかりの彼女は
学校の様子がまったくわからないまま
いきなり一年生の担任になってしまいました。
そうして、ご多分に漏れず
クラスの中に
障害のある児童二人とモンスターマザーを抱えてしまったのです。


 当初、彼女は戸惑い憂鬱になり
それはまあ、大変そうでした。
けれど、神様はやはり
ちゃんと乗り越えられる課題を与えるものなのですね。

彼女はみごとに
その子供たちに愛と努力を持って接し
自分自身を成長させました。

 その一つ一つをここにあげることはできませんが
私が感動したことの一つに「おはよう」の挨拶に込めた思いがあります。


昨日何があっても、
「今日の私はあなたが大好きだよ」
 

そんな思いを込めて、毎朝、返答があろうがなかろうが
 おはようと言葉をかけた”
というのです。 


 昨日、互いの間に何があったとしても
それを引きずらず
今日の私はあなたが大好き!!

そんな思いから、一日が始まるってなんて素敵なことでしょう。

 でもそれって、簡単なようで難しいことです。

 未熟な私などは
夫との関係で
昨日のことを引きずって
おはようを素直にいえない朝がたびたびです。

 病んで、わがままになり
こちらの言うことを全く聞かなくなっている父に、
毎朝、そんな愛をこめて
「おはようございます」と言えているでしょうか。
答えは「否」です。


昨日何があっても
今日の私はあなたが大好き!!


新しく始まる朝に
そんな思いを込めて「おはよう」を子供たちにかけている彼女は
何てすばらしいのでしょう。

全く素敵です。