幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

一人の朝

2013年10月02日 06時56分36秒 | ひとりごと
 新居に来て
始めて一人で夜を過ごした。

夫が出張だったから。


 マンションの空間は
一人で過ごすにはちょうど良い広さだった。

それでも、いつもいる人がいないというのはこういうことなのだと感じた。
生きている間に、彼に愛を配らなくては・・・と思ったりした。

 

 子育ても終わり、物忘れも激しくなってきた二人が
快適に暮らすためには、と考えて今の生活を選択してみたのだが、
そう広くはないながらも、庭というものがあり、二階があった前の家よりも
ずっと気軽に暮らせているようには思う。

空は広く、室内も明るい。
きっと冬は温かく暮らせるだろう。
おまけに、岡崎城跡といういつも手入れされた庭があるのだから
いうことはない。


不慣れなゆえに
ついいろいろ不平を漏らしてしまうが
これはこれで快適なのだ。
良い所を与えてもらったと感謝している。




 が、本当に自分が住みたいのはこういうところだろうか、と考える。
見た目には美しく、便利なこの生活を
私は本当に望んでいるのだろうか。


 「暮す」ということは「生きる」ことであり
すなわち「人生」を紡ぐ行為なのだ。
だとしたら、一日一日を心から満足のいく時間で過ごさねばならない。

私は、人が好きではあるが
それと同じくらい動物や、自然が好きである。
そして
一人の時間もかなり大切に思っている。

今は、夫と暮らし
夫の都合も考えてここにいる。
今の条件の中で最も良い選択をしたつもりなのだが
それでも
このまま人生を続けるとなると
きっと最後に後悔するような気がするのだ。



 「暮らし」が人生である以上「住まい」の環境も人生そのもの。
「ハレの日」よりもむしろ「ケの日」の方が人生を紡ぐのだから
日々を送る「生きる場所」を我慢して過ごしてはならないと思っている。


 


 きっと、そう遠くない将来
もっと田舎へ引っ越すだろうな。


空が広くて               
空気がきれいで
静かで
遠くに高い山々が見えて
雪はあまり降らず
水の美しさ、おいしさが楽しめる場所。  

あまりにも贅沢過ぎる思いだけれど
これが結構叶えられたりするものだ。


 毎日、小動物たちが訪れてくれて          
樹々の美しさに囲まれる
そんな住まいを持つだろう。

何一つ自分の物ではないけれど
いつもそれらに囲まれている私の空間。



         


 お医者にはかからず、余分なものは持たず
与えられた寿命を素直に受け入れて
この地球の美しさに感動しながら逝くことができたら最高だ。

たとえそれを他人が「孤独死」と呼んだとしても
私はきっと幸せに違いない。





・・・そんなことを思いながら
現状にも感謝する「一人の朝」だった。



 

婦人と欅

2013年10月01日 18時55分33秒 | ひとりごと
 
 街の真ん中にあるりっぱな公園の
芝生広場の真ん中に
大きな欅が植えられました。


 欅はまるで骨折した足のように
ぐるぐるぐると包帯のようなものが巻かれていました。



 そこを毎日散歩するご婦人がいました。
ご婦人はその欅から数メートル離れたところを通ります。

ある日
ちらっと横目で欅を眺めるとつぶやきました。


「こんな暑い夏に
 あんな大きな樹を植えるなんて
 町長はいったい何を考えているのかしら?


 可哀そうに
 雨も降らないし
 まして
 こんなに暑くては
 根が張れるはずがないじゃない。

 まるで
 死ねと言わんばかりだわ。


 みててごらんなさい。
 あの樹はきっと枯れるから・・・・・」






 それから数か月後

欅は包帯を巻かれたまま
切り倒されていました。

大きくいくつかに切断され
業者のトラックに乗せられて行きました。


 それを見たご婦人は
胸がズキンと痛みました。

なんだか
欅の涙を見たような気がしたのです。



ご婦人は後悔しました。


どうして励ましてあげなかったのだろう。
どうして
大丈夫よと声をかけてあげなかったのだろう。


毎日毎日
あの欅の横を通っていたのに
一度も祈ってあげなかった・・・・・

無事に
根を張れるようにと
力になってあげなかった。


それどころか
通るたびに
「こんな季節に植えたりして・・・・・
 枯れるに決まっている」

と非難ばかりしていたわ・・・・・





 ご婦人は辛くなりました。

もしかしたら
あの欅は
自分のそんな声を聴いていたのかもしれない。


だとすれば
あの樹を枯らしたのは
夏の天候でも
町長でもなく
私自身かもしれない。


ああ、
非難などせず
祈ってあげればよかった。

励ましてあげればよかった。



ご婦人はそんな風に後悔したのでした。







 それから暫くして
同じ場所に
再び
同じような欅が植えられました。



 ご婦人は今度は欅のそばまで行きました。
そうして声をかけたのです。


「ここへ来てくれてありがとう。

 あなたが青々と葉を茂らせ
 木陰を作ってくれると
 たくさんの人たちが憩えるわ。


 この広場には木陰がないけれど
 そうなれば
 きっと、みんな
 あなたのもとで安らげる。


 お願いね。
 丈夫に育って頂戴ね。


 ありがとう。

 ありがとう」




 ご婦人は
毎日毎日、欅の足元に行き
声をかけて祈りました。






 今、欅は
包帯を解かれ
枝を広げ、
青々と茂った葉で
親子連れや恋人たちに
涼しい木陰を与えています。

私の花は

2013年10月01日 18時39分03秒 | お料理




     影に色はないけれど
       影は影で美しい








 花はどうして自分の形に咲けるのだろう

 でも本当は
 自分がどんな花なのか知らないのかもしれない

 もしかしたら
 もしかしたら
 私も
 私の形に咲いているのだろうか


 だとしたら
 ちゃんと
 美しく
 咲いているのだろうか






 花を生ける

 どんな花器を取り合わせるかで
 全く違う作品になる


 そこへ
 どんな小物を合わせるかで
 またまた違ってくる


 私たちも
 取り合わせは
 数限りなく持っているに違いない

 どの取り合わせで
 自分の花を咲かせ続けるか
 それはきっと
 自分の決断次第なのだろう

千万拝謝

2013年10月01日 16時47分25秒 | ひとりごと
 「神計らい」という言葉がある。
この頃、本当にあると思うようになった。

先日会った友人が言った言葉。

「目に見えない力はずっと存在している。
 私たちが見えたり聞こえたりするものなどちっぽけなもので
 目に見えない力の方がずっとずっとたくさんあるのに
 今までは思考の中からそれを排除することが多かった。

 でもいま、その力を嫌でも感じることが多くなり
 多くの人がそのことを再認識し始めている。

 これだけ、はっきりとその力を見せられればみんなわかるようになってくる」




 本当にそうだと思う。

だとしたら、私たちはただ
その見えない力を信じ、感謝し
受け入れればよいだけのこと。


「なるようになる」

・・・それは決して投げやりな言葉ではなく
「導かれるべきところへ導かれる」ということなのだと思う。


 


おかげさま

私にも、あなたにもついていてくださる大きな力。
守ってくださり、見ていてくださる大きな力。

その力が導いてくださる方向に進もうと覚悟を決めればよいだけのこと。


伊勢の神様も、出雲の神様ももちろん有難いけれど
まずは
今、自分自身について頑張っていてくださる「お陰様」方に
千万拝謝であろう。