「静観」という言葉があります。
静かに、口を出すこともなく、しっかり見ているのに、
でも見詰めているのではないのです。
この「静観」が大事なのだと気づかせて頂きました。
一昨日
静岡県袋井市の秋葉山可睡斎で
座禅を組ませて頂きました。
写経も致しました。
その時
指導してくださった雲水さんの言葉。
「座禅を組む時
目は開けていてください。
目を閉じると眠ってしまいます。
一メートルほど先に視線を落とし
そこを眺めていてください。
見詰めてはいけません。
見詰めると吸い込まれてしまいます。
ただ、眺めるだけにして下さい」
ああ、そういうことだったのか。
と、私の中で何かがはじけました。
目を閉じたりそらしたりしては見えなくなってしまいます。
場合によっては眠ってしまいます。
けれど、あまりにもひとつのことに見つめすぎると(こだわりすぎると)
その事象の中に吸い込まれてしまうのです。
事実を〝事実”として受け止め、状態を把握し、
「知り」「眺める」
・・・これが
普段の生活においても大事だということです。
何か、嫌なことが起きたとき
あまりにも「そのこと」に気を取られすぎると
その中に吸い込まれて、わけがわからなくなり
大変な心境になってしまう、ということでしょうね。
「ああ、私は今、○○を感じているな」
と、〝何かを感じ、体験している自分”を静観することが大事だということですね。
喜びであっても、悲しみや怒りであってもです。
それができれば
何が起きても冷静でいられるということなのでしょう。
その
心静かに穏やかにいられることこそが
「幸福」への近道に違いありません。
これに感謝の思いを加えられれば
私たちはすぐにでも
「幸せ」の真っただ中に「在る」ことが可能になります。
さらにもうひとつ。
これは写経を始める前の彼の言葉です。
「うまく書こうとか
早く書こうとか思ってはいけません。
ただただ、一画一画を
一本の棒だと思ってなぞってください。
その一本一本を
丁寧に真剣になぞって最後まで無心になる。
それこそが
禅の修行なのです」
ここにも
人生の秘訣がありました。
目の前に来ること
今、与えられていること、
成さねばならないこと
それらを
一つ一つ丁寧に
ただただ、
一生懸命に修める。
その繰り返しが
私たちの人生を仕上げてくれるということです。
ただし
写経は
きちんと掃除がなされ
整然と整えられた部屋と机で行います。
雑多なものがあっては気が散るからだそうです。
日常の中の
不必要な事柄をあえて切り捨て
一番大事な「一本の棒」を邪念なく成す。
それこそが
今生で
己が書き上げるべき充実した人生となるのかもしれません。
あがったりさがったり、
晴れたり嵐だったり
人生には毎日いろいろあるでしょう。
そんな中で
いつも心穏やかに
それを眺める自分を育て
成すべきことを一つ一つ
丁寧に、精いっぱいこなしていく、
それが
その人の「幸せ」なのだということに気付けば
何が起きても問題はないのです。
ただ、
私たちはどうも
「掃除」もされない「雑多の環境の中」に入ってしまう事が多いようです。
時々
今の自分の環境を
「掃除」して「整える」必要はありそうです。
「忙し」すぎるのは
漢字そのままに「心」を「亡くす」ことになりますから。
今日も
あなたが
「心が穏やか」という「幸せ」の中で
写経の「一画」を書くような一日を積み上げられますように・・・。
静かに、口を出すこともなく、しっかり見ているのに、
でも見詰めているのではないのです。
この「静観」が大事なのだと気づかせて頂きました。
一昨日
静岡県袋井市の秋葉山可睡斎で
座禅を組ませて頂きました。
写経も致しました。
その時
指導してくださった雲水さんの言葉。
「座禅を組む時
目は開けていてください。
目を閉じると眠ってしまいます。
一メートルほど先に視線を落とし
そこを眺めていてください。
見詰めてはいけません。
見詰めると吸い込まれてしまいます。
ただ、眺めるだけにして下さい」
ああ、そういうことだったのか。
と、私の中で何かがはじけました。
目を閉じたりそらしたりしては見えなくなってしまいます。
場合によっては眠ってしまいます。
けれど、あまりにもひとつのことに見つめすぎると(こだわりすぎると)
その事象の中に吸い込まれてしまうのです。
事実を〝事実”として受け止め、状態を把握し、
「知り」「眺める」
・・・これが
普段の生活においても大事だということです。
何か、嫌なことが起きたとき
あまりにも「そのこと」に気を取られすぎると
その中に吸い込まれて、わけがわからなくなり
大変な心境になってしまう、ということでしょうね。
「ああ、私は今、○○を感じているな」
と、〝何かを感じ、体験している自分”を静観することが大事だということですね。
喜びであっても、悲しみや怒りであってもです。
それができれば
何が起きても冷静でいられるということなのでしょう。
その
心静かに穏やかにいられることこそが
「幸福」への近道に違いありません。
これに感謝の思いを加えられれば
私たちはすぐにでも
「幸せ」の真っただ中に「在る」ことが可能になります。
さらにもうひとつ。
これは写経を始める前の彼の言葉です。
「うまく書こうとか
早く書こうとか思ってはいけません。
ただただ、一画一画を
一本の棒だと思ってなぞってください。
その一本一本を
丁寧に真剣になぞって最後まで無心になる。
それこそが
禅の修行なのです」
ここにも
人生の秘訣がありました。
目の前に来ること
今、与えられていること、
成さねばならないこと
それらを
一つ一つ丁寧に
ただただ、
一生懸命に修める。
その繰り返しが
私たちの人生を仕上げてくれるということです。
ただし
写経は
きちんと掃除がなされ
整然と整えられた部屋と机で行います。
雑多なものがあっては気が散るからだそうです。
日常の中の
不必要な事柄をあえて切り捨て
一番大事な「一本の棒」を邪念なく成す。
それこそが
今生で
己が書き上げるべき充実した人生となるのかもしれません。
あがったりさがったり、
晴れたり嵐だったり
人生には毎日いろいろあるでしょう。
そんな中で
いつも心穏やかに
それを眺める自分を育て
成すべきことを一つ一つ
丁寧に、精いっぱいこなしていく、
それが
その人の「幸せ」なのだということに気付けば
何が起きても問題はないのです。
ただ、
私たちはどうも
「掃除」もされない「雑多の環境の中」に入ってしまう事が多いようです。
時々
今の自分の環境を
「掃除」して「整える」必要はありそうです。
「忙し」すぎるのは
漢字そのままに「心」を「亡くす」ことになりますから。
今日も
あなたが
「心が穏やか」という「幸せ」の中で
写経の「一画」を書くような一日を積み上げられますように・・・。