幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

言葉が思いを創る

2012年02月21日 11時02分46秒 | 波動
 今年は大雪
わが故郷、福井の山奥は市街地でも1.5m,山沿いともなれば2m以上の降雪量

ずっと見ることのなかった大きなつららが何十年かぶりに実家の軒先にも下がっている。

小学生のころ
1mほどもある大きなつららの並んでいるのを
傘で順番に叩き落として歩くのが好きだった。

中学生になると
教室の窓に下がるつららが
晴れた青空にキラキラ光りながら
一滴、また一滴と
溶けて雫を落とす姿を好んで眺めた。


が、大人になったころから
降雪量は減り
つららの姿もあまり見なくなってしまったのだ。


おかげさまで
この冬は父の入院に伴い
頻繁に実家に帰り
この二つの楽しみを味わうことができた。



 さて、そんな厳冬の福井の地には
どうしても避けられない冬の仕事「雪かき」がもれなくついてくる。
体力、時間、費用
いずれをとっても半端ではない。
年より子供には手に負えない仕事であるし
女性にとってもできることは限られてくる。

朝起きればまず雪かき。
市が除雪してくれる道までは
自分たちで何とかせねばならない。
どんなに忙しかろうが、吹雪いていようが
まずそれをしないことには学校にも仕事にも出かけられないのだ。

融雪に水を使い、その水道料や電気料はふくれあげる。
おまけに屋根雪下ろしを依頼すれば一度に6,7万円で足りるかどうか。

まったく、不経済この上ないのである。


ゆえに、幼いころから
「雪はたいへん」「雪かきは憂鬱」「雪は嫌だ」
という、大人たちの言葉を聞かされてきた。
夫などは
「絶対に雪国に戻りたくない!!
 雪国ほど嫌なものはない!!」
と断言する。


・・・そうかなぁ、
雪国でしか見られない美しい景色、一瞬の感動もたくさんあるし
雪国だからこそ得られるおいしいものだっていっぱいあるのに・・・

と、反発しながらも
確かに私だって雪かきに関してだけは
ずっと「寒いし、危ないし、たいへんだ」
と、思って来た。



 ところが、去年、
朝早くに、家の前の雪をきれいに掻き終えた美代子さんに

「おかあさん、雪かきはたいへんだから
 私がやりましたのに・・・・・
 ごめんなさいね、間に合わなくて」

と、言ったとき彼女は応えたのだ。


「私は、雪かきが大好きなの。
 雪に触っていると、なんだか胸がスーッとするような気がするの」




・・・・・驚きだった。
あの夫を育てたのはこの人のはずなのに、
どうしてこんなにも出る言葉が違うのでしょう!!

雪かきが好き?!
雪に触っていると気持ちが晴れる?????

いまだかって、そんな言葉を聞いたことは一度もなかった。
みんな「たいへんだ」「たいへんだ」としか言わないではないか。


ふぅ~~~~~ん、かわってるぅ・・・



だが、この言葉はなぜか私の中にドンと居座ってしまった。
そして、いつしかそれを確かめたくなっていった。



その機会が到来したのは半月前
今年二度目の実家帰り

折しもこの冬最高の寒気団の到来
高速道路は一時閉鎖
JRのダイヤも大幅に乱れた。


6時間かけて名古屋から帰った私は
荷物を玄関に置くとそのまま大通りまでの除雪を始めたのだった。

今は道具も改良されていて随分と仕事がしやすい
スノッパーもスコップも実に軽々としている。

長靴の中にはカイロが入れてあるので足だって冷たくなんかない。
手には皮の手袋とゴム手袋の二重で万全な仕度。
もちろん、ダウンジャケット。


そして何よりも
心にはあの言葉

「私は雪かきが大好き 
 雪に触っていると心がスーッとする 




従事すること2時間
大雪警報にもかかわらず
西の空は薄紅色

めちゃめちゃ気分よく端から端まで雪をよけた。

「私は雪かきが大好き」
「雪は胸がスーッとする」

ずっと、ずっとこの言葉を繰り返していた。
美代子さんの心境を味わいたくて
味わわないと何だか損な気がして
ひたすらそう思いながら作業していた。


楽しかった。
何がというわけではないけれど
楽しかった。

充実していた。

黙々と
ただ黙々と
雪をスノッパーに乗せ
それを側溝に落とし
また、スノッパーに雪を乗せ
側溝に落とす。


その繰り返しを延々2時間。

けれど、それはほんの少しも苦にはならなかった。
むしろ、あっという間の短い時間だった。




 そんな私にようやく気付いた母が出て来て言った。

「帰る草々、休みもしないで・・・疲れているのに。
 たいへんだから、もうやめなさい。

 そんなにきれいにしなくても・・・
 どうせ、また、すぐ積もるんだから・・・

 疲れるだけだから、もうやめなさい・・・」




 そうね、
あなたのように思っていたら
きっとこの2時間は苦痛だったでしょうね。

あなたはいつもそんな風に考えるから
大変なことが多いのよね。


でもね、私は雪かき好きみたい。
ちっとも、たいへんなんかじゃないみたい。
雪に触っていると無心になれるっていうことがわかったんですもの。
 




         P.S. ま、なんてったってたまのことだから言えるのでしょうけれど・・・・・

何を盗んだ?!

2012年02月20日 18時20分17秒 | ひとりごと
 ひぇ~~~~~~~   


な、な、ない!! ナンバープレートがない!!

私の愛車の
フロントについているはずの
ナンバープレートがない!!!

ない!ない!!なーい!!!


大好きな数字だったのにぃ~~~~~
いったい誰が盗ってったのぉ~~~~~
よりにもよって
なんで、私の車???????
他にも車はいっぱいとまっているのに。




・・・などなど考えてみてもプレートは戻らない。
目の前の私の愛車にはプレートが付いていない 



はぁ~~~~~~   ショック・・・





で、 ここで、考えたこと。

まず第一に、 

ナンバープレートでよかった・・・

指紋一つ残さず、車には傷もつけず
ただ、ナンバープレート一枚だけを盗んで行った。

“盗まれた”以上、気分は悪い。
非常に悪い!!

でも、他には何の被害もなかったのだから
これは不幸中の幸いと言わねばならない。

ガラスが割られていたり
ナビが盗まれたり
ましてや車ごと盗まれることから比べれば
なんとラッキーなことか。

そうよ、なんてラッキーだったのでしょう。

ああ、神様、ご先祖様、いつもお守りくださりありがとうございます、・・・です



次、二番目に考えたこと

なんで、私の車?!
なんで、ナンバープレート?!



・・・この世はすべて鏡写し、だという。

自分の目の前に起きる事象は自分の何かを写し出している、
すべては自分の波動が引き寄せること、

ということから考えれば
「盗まれた」ということは
私は誰かの何かを盗んでいる?!・・・ということ?


“誰か”の“大切にしている物”のトップにあたる“何か”・・・

を、盗んでる?!

誰かの、何かを・・・

誰かの、何かを、・・・ぬすんでる・・・




えっ~~~~~ わかんないょぉ 

いったい、私は何を盗んでるの???





もしかしたら
これは
今までの数字の意味を卒業して
次のステージに移りなさいという暗示かもしれない 

車を購入したとき
ナンバーを指定しようかなと思ったけれど
でも
きっと、
今の私にぴったりの数字を
神様がちゃんと与えてくださる、と信じ
与えられるがままに任せたのだった。

結果、とてもうれしい数字を頂いた。
そして、心底、気に入っていた。

それが盗まれてしまったということは
当然、再発行となり
違う数字が来ることになる。
もちろん、桁違いの同じ数字を申請することもできるが
しかし、
もしかしたら
そういう「卒業」の示唆があるかもしれないのだから
ここはひとつ
流れにまかせ
頂ける数字を楽しみにすることにしよう 

そうだ。
楽しみにしよう。
どんな数字が頂けるのか
楽しみにしよう

泥棒さんのおかげで楽しみができたわ  ありがとう 






 ところで
お向いのおばあちゃん、

よく夜中に眠れなくて
外を見ていたりする。

この夜も案の定
真夜中の2時ごろに目が覚め
何気なく外を見ていたそうな。


で、その時
うちの車庫から人影が出ていくのを見たんだとさ。

あら、まるで「家政婦は見た!!」みたいね。

「お向かいのおばあちゃんは見た!!」・・・ってか・・・

ま、結局、犯人が捕まるわけでもなし
私のナンバープレートが戻るわけでもないんだから
どうでもいいけどさ。



ただ、思ったの。

気の毒だなぁ~・・・って。

真夜中の2時に
人んちの車庫からナンバープレートを外していくなんて
けっして気持ちのいいことじゃないでしょう?

愉快犯ならともかく
生きていくためにそのお仕事しかないとしたら
なんだかとても悲しいよね。
まして、家族がいたりしたら
胸を張って言えるお仕事じゃないよね。

その人だって
後ろめたいかもしれない。
でも、そうするしか他に手がない・・・んだとすれば
なんだか
とてもやるせない。
悲しくなる。


早く
その人が
そんなお仕事をしなくても済むようになるといいな、って思う。
その人にまっとうな幸せが訪れますように。




 結局
私は
プレートを盗まれはしたけれど
陸運局へ出向くという手間はかかるけれど
何一つ困ったりはしていない。

それどころか
自分がまともな生活をさせていただけているという有難さを再認識した。


有難いことである。




ちなみに車から犯人の指紋を採取する方法をまじかに見ることができたり
盗難届の手順がわかったり
けっこうおもしろかった!!

来てくれたおまわりさんもいい人だったし・・・


みなさま、盗難にはくれぐれもお気をつけあそばせませませ 


いい人になりたい?!

2012年02月06日 10時12分17秒 | ひとりごと
「あなたは結局
 いい人になりたいんだよ」


彼女はそう言った。


いい人・・・?!


いい人って何?!


「私は、奥にいる本当のかわいくてとってもピュアな私を
 誰かにわかってほしいなんて思わない。

 むしろ、自分勝手な憎まれ役で十分!!

 本当の自分は見せないね。

 自分で知っていれば十分だから。」

被せるようにそう言った。





う~~~~~ん、
なんか違うなぁ。




人目を気にしてのことじゃないんだな。

誰かがどう思うかということじゃないんだな。



私の究極の願いは

「魂が美しくなること」
「心が浄化されること」

・・・なんていうのはキザ?


自分で見ている自分が清くありたいの・・・

って言ったら

「それって、自己満足ジャン!!」

と、返ってきた。



ふ~~~~~ん
自己満足ねぇ。



「人って汚いもんだよ。
 勝手なもんなんだよ。

 他人を傷つけないなんて
 そもそもが無理なんだよ。

 いいじゃん、傷ついたって!!

 しかたないじゃん傷つけたって!!

 喜んだり助け合ったり
 裏切ったり傷つけあったり

 それが生きるってことでしょ!!」




それもそうだと思う。

喜怒哀楽すべてを味わってこそ人生だと思っている私だもの。

別に傷つくのを恐れているわけじゃないし
誰かに「いい人」と思われたいわけでもない。



 でも、なんか違うんだなぁ。

他人から見てどうのこうのと言うことじゃあなくて
自分の中の問題で・・・

なんというか
自分のなかって
自分しか知らないわけで
その、本当の自分がいつも気持ちよくいたいだけで・・・・・

気持ちよくいるには澄んだ湧水みたいな
なんかこう
とても透明で清らかな
そんなエネルギーになりたいだけで・・・・・



などともやもやしたが

それすら人それぞれで
それを説明しようとすること自体が
無意味で無理なことだと気が付いた。






刺さった棘はだれが抜く?

2012年02月06日 09時24分19秒 | ひとりごと
 ささくれ立って割れてしまった割り箸を
そのまま使ってうどんを食べた。

右手の人差し指に棘が刺さってしまった。

しくしくと痛む。

自分で抜こうと試みたが
電気の明るさが足りないのか
私の老眼のせいなのか
よく見えない。

しかも刺さったのが右手とくれば
うまく取れるはずもない。


夫にとってもらおうとしたが
指先が器用ではない彼には所詮無理な話だった。

逆に彼がいらいらしだした。

で、娘に頼んだ。

間もなく棘は抜け
鈍い痛みも消えた。

ヨードチンキを塗って
何事もなかったかのように
もとにもどった。






 ・・・・・手に刺さった棘ならこれで済む。
しかし、心に刺さった棘はどうだろう。

心に刺さった棘は誰が抜くのだろう。


何気ない言動が誰かの心に棘をさす場合がある。
悪気のない言動で心に傷がつく時がある。


誰かに棘をさしてしまったと分かった時
まずは謝る。

けれど謝ったからと言って覆水盆に返らず・・・
抜けない棘もあるだろう。


しかも、刺してしまったことに気付かず
相手の中で化膿してしまった時
いったいどうしたらよいのだろうか。

棘を抜き
癒す方法はあるのだろうか。



逆に誰かの言葉が棘となって自分に刺さり
ずっとしこりとなって残っているとき、
どうしたらその傷は癒えるのだろうか。



 

 周りを見ていると
刺した相手を憎む人がいる。
それを訴える人もいる。

世の中それが当たり前なのかもしれない。
だから
裁判というものがあるのだろう。



 裁判では非があるとされれば
まず謝罪しなければならない。
そして慰謝料や賠償金で償う。

実生活の中ではそれらのお金は必要に違いないのだが
でも、だからと言って
それで、心の傷が癒えるものではないだろう。

受けた心の傷を癒すにはどうしたらよいのだろう。
刺した棘を抜くにはどうしたらよいのだろう。




 そんなことをずっと考えていて
最後に出た答え。
それは

“刺さった棘は自分で抜くしかない”



刺した相手、
たとえば割り箸や古い家具
バラの枝やなすびのへたに
どんなに恨み言を言ったとしても
事は解決しない。

腹を立てて
割り箸を放り投げたり
家具をたたいたりする人もいるだろうが
だからと言って
棘が抜けたりはしないではないか。


冷静になり
落ち着いて
自分で棘を抜くしかないのだ。


そもそも
同じ言葉でも棘になってしまう人とならない人がいるのだから・・・


もちろん、刺してしまった側として
それに気付かされた時には
謝罪し
反省し
棘をささないで済むような
滑らかで優しい人物になるように努めるのは言うまでもないが。





 


「刺さった棘って
 結局自分で抜くしかないんだよね。

 刺した相手が抜きとれるということは
 まずないよね」

 

 ぼそっとつぶやく私に
 娘が応えた。


「ま、触ったのは自分だからね。

 でも、抜きにくい時は
 他の誰かに抜いて貰うという手もあるよ。

 ただ、それを頼む相手は
 よく選んだ方がいいけどね」