今年は大雪
わが故郷、福井の山奥は市街地でも1.5m,山沿いともなれば2m以上の降雪量
ずっと見ることのなかった大きなつららが何十年かぶりに実家の軒先にも下がっている。
小学生のころ
1mほどもある大きなつららの並んでいるのを
傘で順番に叩き落として歩くのが好きだった。
中学生になると
教室の窓に下がるつららが
晴れた青空にキラキラ光りながら
一滴、また一滴と
溶けて雫を落とす姿を好んで眺めた。
が、大人になったころから
降雪量は減り
つららの姿もあまり見なくなってしまったのだ。
おかげさまで
この冬は父の入院に伴い
頻繁に実家に帰り
この二つの楽しみを味わうことができた。
さて、そんな厳冬の福井の地には
どうしても避けられない冬の仕事「雪かき」がもれなくついてくる。
体力、時間、費用
いずれをとっても半端ではない。
年より子供には手に負えない仕事であるし
女性にとってもできることは限られてくる。
朝起きればまず雪かき。
市が除雪してくれる道までは
自分たちで何とかせねばならない。
どんなに忙しかろうが、吹雪いていようが
まずそれをしないことには学校にも仕事にも出かけられないのだ。
融雪に水を使い、その水道料や電気料はふくれあげる。
おまけに屋根雪下ろしを依頼すれば一度に6,7万円で足りるかどうか。
まったく、不経済この上ないのである。
ゆえに、幼いころから
「雪はたいへん」「雪かきは憂鬱」「雪は嫌だ」
という、大人たちの言葉を聞かされてきた。
夫などは
「絶対に雪国に戻りたくない!!
雪国ほど嫌なものはない!!」
と断言する。
・・・そうかなぁ、
雪国でしか見られない美しい景色、一瞬の感動もたくさんあるし
雪国だからこそ得られるおいしいものだっていっぱいあるのに・・・
と、反発しながらも
確かに私だって雪かきに関してだけは
ずっと「寒いし、危ないし、たいへんだ」
と、思って来た。
ところが、去年、
朝早くに、家の前の雪をきれいに掻き終えた美代子さんに
「おかあさん、雪かきはたいへんだから
私がやりましたのに・・・・・
ごめんなさいね、間に合わなくて」
と、言ったとき彼女は応えたのだ。
「私は、雪かきが大好きなの。
雪に触っていると、なんだか胸がスーッとするような気がするの」
・・・・・驚きだった。
あの夫を育てたのはこの人のはずなのに、
どうしてこんなにも出る言葉が違うのでしょう!!
雪かきが好き?!
雪に触っていると気持ちが晴れる?????
いまだかって、そんな言葉を聞いたことは一度もなかった。
みんな「たいへんだ」「たいへんだ」としか言わないではないか。
ふぅ~~~~~ん、かわってるぅ・・・
だが、この言葉はなぜか私の中にドンと居座ってしまった。
そして、いつしかそれを確かめたくなっていった。
その機会が到来したのは半月前
今年二度目の実家帰り
折しもこの冬最高の寒気団の到来
高速道路は一時閉鎖
JRのダイヤも大幅に乱れた。
6時間かけて名古屋から帰った私は
荷物を玄関に置くとそのまま大通りまでの除雪を始めたのだった。
今は道具も改良されていて随分と仕事がしやすい
スノッパーもスコップも実に軽々としている。
長靴の中にはカイロが入れてあるので足だって冷たくなんかない。
手には皮の手袋とゴム手袋の二重で万全な仕度。
もちろん、ダウンジャケット。
そして何よりも
心にはあの言葉
「私は雪かきが大好き
雪に触っていると心がスーッとする 」
従事すること2時間
大雪警報にもかかわらず
西の空は薄紅色
めちゃめちゃ気分よく端から端まで雪をよけた。
「私は雪かきが大好き」
「雪は胸がスーッとする」
ずっと、ずっとこの言葉を繰り返していた。
美代子さんの心境を味わいたくて
味わわないと何だか損な気がして
ひたすらそう思いながら作業していた。
楽しかった。
何がというわけではないけれど
楽しかった。
充実していた。
黙々と
ただ黙々と
雪をスノッパーに乗せ
それを側溝に落とし
また、スノッパーに雪を乗せ
側溝に落とす。
その繰り返しを延々2時間。
けれど、それはほんの少しも苦にはならなかった。
むしろ、あっという間の短い時間だった。
そんな私にようやく気付いた母が出て来て言った。
「帰る草々、休みもしないで・・・疲れているのに。
たいへんだから、もうやめなさい。
そんなにきれいにしなくても・・・
どうせ、また、すぐ積もるんだから・・・
疲れるだけだから、もうやめなさい・・・」
そうね、
あなたのように思っていたら
きっとこの2時間は苦痛だったでしょうね。
あなたはいつもそんな風に考えるから
大変なことが多いのよね。
でもね、私は雪かき好きみたい。
ちっとも、たいへんなんかじゃないみたい。
雪に触っていると無心になれるっていうことがわかったんですもの。
P.S. ま、なんてったってたまのことだから言えるのでしょうけれど・・・・・
わが故郷、福井の山奥は市街地でも1.5m,山沿いともなれば2m以上の降雪量
ずっと見ることのなかった大きなつららが何十年かぶりに実家の軒先にも下がっている。
小学生のころ
1mほどもある大きなつららの並んでいるのを
傘で順番に叩き落として歩くのが好きだった。
中学生になると
教室の窓に下がるつららが
晴れた青空にキラキラ光りながら
一滴、また一滴と
溶けて雫を落とす姿を好んで眺めた。
が、大人になったころから
降雪量は減り
つららの姿もあまり見なくなってしまったのだ。
おかげさまで
この冬は父の入院に伴い
頻繁に実家に帰り
この二つの楽しみを味わうことができた。
さて、そんな厳冬の福井の地には
どうしても避けられない冬の仕事「雪かき」がもれなくついてくる。
体力、時間、費用
いずれをとっても半端ではない。
年より子供には手に負えない仕事であるし
女性にとってもできることは限られてくる。
朝起きればまず雪かき。
市が除雪してくれる道までは
自分たちで何とかせねばならない。
どんなに忙しかろうが、吹雪いていようが
まずそれをしないことには学校にも仕事にも出かけられないのだ。
融雪に水を使い、その水道料や電気料はふくれあげる。
おまけに屋根雪下ろしを依頼すれば一度に6,7万円で足りるかどうか。
まったく、不経済この上ないのである。
ゆえに、幼いころから
「雪はたいへん」「雪かきは憂鬱」「雪は嫌だ」
という、大人たちの言葉を聞かされてきた。
夫などは
「絶対に雪国に戻りたくない!!
雪国ほど嫌なものはない!!」
と断言する。
・・・そうかなぁ、
雪国でしか見られない美しい景色、一瞬の感動もたくさんあるし
雪国だからこそ得られるおいしいものだっていっぱいあるのに・・・
と、反発しながらも
確かに私だって雪かきに関してだけは
ずっと「寒いし、危ないし、たいへんだ」
と、思って来た。
ところが、去年、
朝早くに、家の前の雪をきれいに掻き終えた美代子さんに
「おかあさん、雪かきはたいへんだから
私がやりましたのに・・・・・
ごめんなさいね、間に合わなくて」
と、言ったとき彼女は応えたのだ。
「私は、雪かきが大好きなの。
雪に触っていると、なんだか胸がスーッとするような気がするの」
・・・・・驚きだった。
あの夫を育てたのはこの人のはずなのに、
どうしてこんなにも出る言葉が違うのでしょう!!
雪かきが好き?!
雪に触っていると気持ちが晴れる?????
いまだかって、そんな言葉を聞いたことは一度もなかった。
みんな「たいへんだ」「たいへんだ」としか言わないではないか。
ふぅ~~~~~ん、かわってるぅ・・・
だが、この言葉はなぜか私の中にドンと居座ってしまった。
そして、いつしかそれを確かめたくなっていった。
その機会が到来したのは半月前
今年二度目の実家帰り
折しもこの冬最高の寒気団の到来
高速道路は一時閉鎖
JRのダイヤも大幅に乱れた。
6時間かけて名古屋から帰った私は
荷物を玄関に置くとそのまま大通りまでの除雪を始めたのだった。
今は道具も改良されていて随分と仕事がしやすい
スノッパーもスコップも実に軽々としている。
長靴の中にはカイロが入れてあるので足だって冷たくなんかない。
手には皮の手袋とゴム手袋の二重で万全な仕度。
もちろん、ダウンジャケット。
そして何よりも
心にはあの言葉
「私は雪かきが大好き
雪に触っていると心がスーッとする 」
従事すること2時間
大雪警報にもかかわらず
西の空は薄紅色
めちゃめちゃ気分よく端から端まで雪をよけた。
「私は雪かきが大好き」
「雪は胸がスーッとする」
ずっと、ずっとこの言葉を繰り返していた。
美代子さんの心境を味わいたくて
味わわないと何だか損な気がして
ひたすらそう思いながら作業していた。
楽しかった。
何がというわけではないけれど
楽しかった。
充実していた。
黙々と
ただ黙々と
雪をスノッパーに乗せ
それを側溝に落とし
また、スノッパーに雪を乗せ
側溝に落とす。
その繰り返しを延々2時間。
けれど、それはほんの少しも苦にはならなかった。
むしろ、あっという間の短い時間だった。
そんな私にようやく気付いた母が出て来て言った。
「帰る草々、休みもしないで・・・疲れているのに。
たいへんだから、もうやめなさい。
そんなにきれいにしなくても・・・
どうせ、また、すぐ積もるんだから・・・
疲れるだけだから、もうやめなさい・・・」
そうね、
あなたのように思っていたら
きっとこの2時間は苦痛だったでしょうね。
あなたはいつもそんな風に考えるから
大変なことが多いのよね。
でもね、私は雪かき好きみたい。
ちっとも、たいへんなんかじゃないみたい。
雪に触っていると無心になれるっていうことがわかったんですもの。
P.S. ま、なんてったってたまのことだから言えるのでしょうけれど・・・・・