幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

観月

2013年09月19日 23時26分43秒 | 暮らし
 ご存知
今夜は15・0の満月です。

ここ岡崎では雲一つない空に
皓皓と輝き
それはそれは美しかったです。


新居のベランダで
夫とふたりお月見をしました。


ススキを飾り
日本酒、御団子、衣担ぎ
お赤飯に栗と
たくさん備えて
たくさんおさがりを頂戴しました。


太陽の金に対して月は銀。
だから月に住むウサギのことを「銀の兎」というの。


満月の状態を「望」
新月の状態を「朔」

だから満月は「望月」
新月の日を「朔日(ついたち)」
というの。


せっかくの名月の日なのに雨が降れば「雨月」
雲がいっぱいで見えないときは「無月」
というの。



・・・・・そんな会話をしながら一時間余り
楽しい風流な時間でした。



 さて、ではお財布ふりふりして
お月様のパワーをもらいましょうか。

知人の言葉

2013年09月19日 22時39分59秒 | ひとりごと
 潮来に住む大切な知人がお手紙を下さいました。

メールやスカイプはタイムリーで楽しいけれど
やはり、手紙は嬉しいものです。

お葉書をいただいても、それが手書きだったりするとすごく嬉しいのですが、
お手紙は、もう一つ嬉しさが上のような気がするのは私だけでしょうか。


封筒に入れるというひと手間がかかっている分
真心がより多く伝わってくるのかもしれません。



 封を開け
ワクワクしながら読み始めた、そのけっして長くはない手紙から
現在の彼女のエネルギーがあふれ出てきました。

暖かくてホワットしていて・・・・・


 彼女は昨今流行の山ガールになっているようでした。
山に行きたくて行きたくてしようがないとか。
トレッキングに夢中のようです。


 私も、ほんの少し山の経験があります。
子どものころから親について里山に入ったおかげでしょうか。
それとも周りを山で囲まれた盆地育ちのせいでしょうか。
山が見えないと落ち着かないし
山に行くと
身体の中まで澄み渡るような気がするのです。

混合樹林の、昔からの自然林が特に好きです。
高い山の岩場の頂上や
高山植物が咲くお花畑も気持ちの良いものですが
ブナや楢の混じっている林は優しくて穏やかで
何とも言えず好きでたまりません。



 彼女は言います。

一歩、一歩、足を前に出して進むとゆっくりでも必ず上に行けるんだ!!
 と、思って感動しました。
 わかっていること、わかっていたことなのだけれど、人生ってそうなんだなーと
 体ごと感じました。

 いろんなことを教えてくれるんだなーと
 自然のありがたさを感じました。


 なんか、生きてるってすばらしいですね

 恥ずかしいと思っていた言葉がスラスラ出てきちゃいます(笑い)
 
 ・・・・・ずっと、ずっと、学び勉強して、成長していくんだなーと
 最近は特にそう思います″



 


 これは聞きなれた人生論かもしれませんが
彼女はそれを頭ではなく
身体で感じて腑に落としています。

なんて素敵な体験をしているのでしょう。



 



 この宇宙のほとんどのことをを私たちは知りません。

見えるもの、感じられること、
知っていること、腑に落としたこと
それらは
宇宙にある全ての現象から見れば
どれほど些細なことか。

砂粒の一つにもならないかもしれないでしょう。


そんな私たちがまたひとつ
知らなかったことを知り、
新しい初めての体験をする!!


何てなんて素敵なのでしょう。


知らないことがいっぱいあるから
それを理解できたとき感動が生まれます。

できないことが山ほどあってくれるから
それができたときには満足感を味わえるのです。


そういう体験をし、感動をしたくて
私たちはこの世に生まれてきたに違いないのです。


知っていること、持っているものだけに固執し
変化を怖れていては
その、あまたあるチャンスから遠ざかってしまいます。

この世は
できないことがあるから楽しいのです。
知らないことがいっぱいあるから
ワクワクできるのです。


 与えられた「寿命」のなかで
不慣れで新しいことをいっぱい体験し
ワクワクしながら
毎日楽しく生きたいと思います。




 山ガールを始めた彼女に拍手です。
その感覚を
素直に
身体で味わっている彼女に乾杯!!!






 透き通った那須の山の光が一緒に届いたようなお手紙でした。
ありがとう。









もったいない

2013年09月16日 10時53分29秒 | 暮らし
 「もったいない」は確かに大切な感覚だと思います。

米粒ひとつ、縮緬雑魚一匹
そのものに宿っていた命を思い
そのものが自分の前に来るまでの多くの人々のご苦労を思えば
小さな小さなそれらを
けっしておろそかにしてはならないと思うのです。

感謝して感謝して
大切に
一つも無駄にすることなく頂く・・・
そんな心構えで臨みたいと思っています。



 けれど
私たちはこの「もったいない」を
ときどき
大きく勘違いしてしまうようです。


それが高価だったから、
痛んでいないから
まだ使えそうだから
いつか使うかもしれないから、

そういう理由で手放すことができずにいるモノ達が
身の回りにいっぱいたまっているのです。


 でも
そこに、そのモノ達の「命」への思いやりはあるのでしょうか。

モノは「使われてこそ」「生きる」
それを忘れてはいないでしょうか。

かつて
「断捨離」(やましたひでこ著)を読んだとき
強く心に残ったことがあります。

 

 箪笥や押し入れの奥深くしまいこまれ
ここしばらく〝使われていないモノ達″は
たった一度だけ将軍様の気まぐれでお手付きになり
その後、お渡りもないまま忘れ去られている大奥の側室と同じだ
という言葉でした。

今日はあるか、明日こそあるか、と
毎日毎日、将軍様を待つ。
けれど、二度とお渡りはなく、さりとて大奥を出ることも許されない。
悲嘆に暮れて一生を終えていく。

外に出してもらえれば
その娘なりの幸せも手にできたものを、
将軍様に見初められたばかりに
一生淋しい人生を送らねばならない。

そういう意味のことが書かれていました。


 しまいこんだモノは大奥の側室と同じ。

可哀そうな娘たち。

可哀そうな大奥の側室たち。

解放してあげなければ、と思います。

自分の「慾」で
モノ達の愛されるべき一生を奪いたくはありません。


「もったいない」は「モノを愛おしむ気持ち」です。

自分が何かを手放すときの「捨てる後ろめたさへの免罪符」ではないのです。

手元に置くなら毎日たくさん使ってちゃんと愛してあげましょう。
それができないならば
そのものが愛されるであろう場所へ送り出してあげようではありませんか。
どんなに高価だったものも
今、愛せないならば
大奥の忘れられた側室同然なのです。




ほんとうの「もったいない」を意識し
側室を閉じ込めないで暮らしたいと思うこの頃です。

参拝も考え物

2013年09月14日 00時04分17秒 | ひとりごと
 お隣の神社に誰かがお参りをしている。
ただ今、真夜中、0;15a.m.


ここへ越してきてびっくりすることの一つが神社のお参り

 早朝4;00頃から
「ガランガラン、ぱんぱん」

夜は一番遅い時で深夜一時過ぎ
やっぱり大きな音で
「ガランガラン、ぱんぱん」

えっ~~~~~~~!!
こんなおそくにぃ~~~~~?!



 まあ、お隣の神社は由緒正しく
わが街で一番歴史も古い。

しかも、入口の鳥居のところにはしっかりと灯篭の明かりがあり
本殿にも毎晩、ちゃんと灯りがつけられている。
参道はそう長くもなく、道に面した鳥居からまっすぐなので
お参りしやすいと言えばしやすい。


が、それにしてもねぇ~~~~~

「ぱんぱん」
はまだしも
せめて
「ガランガラン」
は時間を考えてほしい。


人のふり見てわがふり直せ
気を付けよーっと。


 うーん、どっかの何かみたいに
「夜10時から翌朝7時までは使用禁止」
・・・なんてことになれば有難いのだけれどな。


 でも、神社があることを知っていて越してきたのだから
文句を言う筋合いではないね。


 ただ、こうなると
神様も大変だなぁ、と思ってしまう。
朝は早くから、夜は真夜中まで呼び出され
十円やそこらのお賽銭で
願い事いっぱいされた日には
やってらんないでしょうねぇ、
などとつい下種な同情をしてしまうのだ。


神様は、きっとそんなこと微塵もお思いにはならないんでしょうけれどね。


あらら、また、鳴った。
00;21a.m.・・・・・です。