幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

病気のよくなったわけ

2011年12月19日 17時39分46秒 | ひとりごと
 脊椎管狭窄症

今年の五月ごろからその症状は表れ始め
7,8月までは台所に立つのさえ困難な日もあった。

それがいま、
足のしびれを感じるのも時たまになり
歩きにくいのもよほど疲れた時だけとなっている。


わが足で歩けることのありがたさ
        ケヤキ並木の秋は暮れゆく

・・・・・11月の初めに
家の近くを散歩したときに読んだ歌である。

欅の街路樹の向こうに沈んでいく茜色の夕日
鈍色のシルエットとなって浮かび上がる建物たち

その光景を美しいと思うと同時に
その美しい光景を今、自分の足で歩いて見ることができているのだと
心底、うれしかったのだ。

歩けている。歩かせてもらえている。

「歩く」というただそれだけのことが
こんなに素晴らしく、有難いことなのだ感じたことが
今までにあっただろうか。

病気になって、
歩くことがままならなくなって
その時になって初めて
「歩ける」ということが素晴らしい宝物であるということを実感したのだった。


 病気になって一番しんどい時は西洋医学ではない“ある治療”を受けた。
それは確かに、私には効果のあるものだった。
治療を受ければ一時的には楽になる。
しかしそれは
病気を根本的に治すものではなかった。

自分のエネルギーが低ければ
またすぐに悪さをするウィルスに負けてしまうのだから。


この病気のおかげで
いろいろな本を読んだ。
そして学んだこと。


病気は何かのメッセージ


では、私には何のメッセージをあたえられたのか・・・




自分を振り返り考えてみた。



まずは、不平不満の毒素

私の場合
夫へのそれが常に私のストレスとなり
私に病気をもたらしている。

だとすれば、
病因を取り除くには二つに一つしか方法はない。

一つは離婚して彼に振り回されなくて済むようにすること。
もうひとつは、彼のあれこれを見咎めないこと。

そう、彼が彼である以上
彼をどうこうすることはまず無理である。
だとすれば、私が変わるしかない。
そのままの彼を受け入れ、すべてを受け入れ受け流し、
ストレスにしない方法を身につけるしかないのだ。

ある意味、それは本当の愛かもしれない。
ああ、これは難しい。

けれど今の段階で離婚したなら、
それは「逃げ」になってしまうような気がする。

「逃げ」はいやだ。
離婚するにしても「卒業」でありたい。

だから、結局
彼に己が理想を求めず
ありのままの彼を受け入れる努力をしよう、と今もがんばっている。


二つ目は運動不足

愛犬がいたときは
雨の日も風の日も
暑い日も寒い日も
毎日必ず、朝夕二回
一時間以上は散歩していた。
土日ともなれば
彼女の喜ぶ顔見たさに
山登りを散歩代わりとした。

かつ、その頃は仕事も忙しく
常に、走り回り、体を動かしていた。

それが彼女の死とともに
山登りどころか散歩さえも全くしなくなり
おまけに仕事がほとんどデスクワークとなってしまった。

まったくもっての運動不足だった。


「人間の体は歩くことで進化してきた。
 動くことで健康を保てるようになっている。
 特別な場合を除いては
 痛くても動かし使うことによって改善するのである」

この言葉は私に勇気を与えた。
歩けなくなるかもしれない、
結局手術するしかないのだろうか、とややもすれば弱気になりそうなわたしに
「大丈夫、自分で直せるよ」
と言ってくれた気がしたのだ。

で、歩くことにしたのだった。

しびれる足に声をかけながら
前へ出にくい足を励ましながら
自分の足にごめんね、と謝り
自分の体にありがとうと感謝して三十分から一時間ほど歩くようにしている。

同時に、腰痛を和らげる運動の本の教えてくれている内容も
時々、行っている。



あとは
病める腰にカイロを張って温める

体内のミトコンドリアを増やすために太陽にあたる

口呼吸しないように、夜は口唇を張って寝る

などを、心がけ、
毎晩寝るときに

「私の60兆個の細胞たちよ。今日も一日ありがとうございました。
 あなたがたのおかげで、一日元気に幸せに暮らせました。
 明日はさらによくなっていますからね。

 ありがとう、お疲れ様」

と声をかけるようにしている。


その成果だろうか。

この頃
足腰に痛みを感じることが少なくなった。

台所に二時間たっても平気でいられる日もある。


お医者に行かず、特別な薬を飲んだわけでもない。

けれど、

「医者は病気を治せない」という
あるお医者様の本を読んで深い自信を得、
ひたすら自分の生活改善を心がけ
自分の細胞たちに指令を送り続けたのだ。


その結果、
あきらかに私の足は改善してきている。


病気は心身ともに健全であれば起ころうはずはない。

病気になるにはなるだけの原因がある。

その原因は手術などで取り除けば済むというものではないのだ。
原因は自分で改善しなくてはならない。

改善することにより何かが変わり、より幸せへと近づけるはずなのだ。


「神様は、決して罰などは与えはしない。
 ただ、神様は忠告してくださるだけなのだ」

・・・何かで読んだ、この言葉が私は好きだ。

病気をもらった時
それをどう受け止め
どう対処するかで
幸にも不幸にもなりうるということだろう。





クリスマスツアーで考えたこと  その2

2011年12月14日 09時00分37秒 | ひとりごと
 先回に引き続き、クリスマスツアーで考えたことを書いてみようと思う。

クリスマスツアーでというよりも
それに参加するにあたって考えたこと
といったほうがよいかもしれない。



 

 父は今入院中である。

今年に入って4度目の入院。

11月26日
私が帰省して二日目の未明
第二腰椎の骨折をしたのだった。


三月 右足大腿部骨折 手術、入院二か月

九月 発熱、肺に水が溜まり入院二週間

十月 右目動脈瘤破裂により視力を失い手術入院 十日間



こんな状態だったので
今回のツアーに参加することを決めたとき
また、父に何かあったらどうしよう、と考えた。

いやむしろ
こんな時に
海外へ遊びに行くことを考える事事態が顰蹙ものだろうか、
と迷った。


普通なら
こんな時は
遊ぶことを自粛するのかもしれない。



 しかし、私は思った。

これが、「仕事」だったら
家族も親族も世間も誰も批判はしないだろう。
何よりも自分自身が
「仕事だからしかたがない」
と納得するに違いない。


でも!!
「仕事」って何?!

「Work」と「Job」の違いはあるが
そのどちらであっても
「仕事だから」といえば
世間は納得してくれる。

自分さえも納得してしまう。


が、私の「仕事」などたかが知れているではないか。
それをやめたとて誰も困らないし、
まして、誰かの命に係わるわけでもない。

私の「仕事」と「遊び」の何が違うというのだろう。

「仕事」にはお相手が伴いお金がついてくる。
「遊び」は自分の意思のみで中止可能なうえ、お金は出ていく。

でも、だからといって
どうして
「仕事」なら許されて
「遊び」なら許されないのか・・・?

すくなくとも、
私にとっては
「仕事」も大好きで一生懸命望むものであり
「遊び」も好きだからするのである。

つまり
結局は
「お金」を「稼ぐ」か、「使う」かの違いにすぎないではないか。


だったら、
自分に後ろめたさを感じる必要はない。

仕事をするのも
両親のサポートをするのも
遊びに行くのも
みんな同じ。
「したいからする」のである。

お金を稼ぐか稼がないかの違いはあるが
それに縛られたくはない。

お金は回ってくるもの。
上手に流せばよいのである。
(・・・と、信じている。
 ま、けっして、そのまわり方が十分とは言えないが
 それでもおかげさまで、なんとかはなる。
 何よりも、「必要な分は回ってくる」と信じて決めているので
 それでよいのだ)


そして
する以上は
どんなことでも
一生懸命に臨み、それを味わい尽くす。
けっして、後ろめたさを持ったりはしないぞ!!


・・・と、
そんなふうに、思いが至った。



だから
迷わないことにした。

行ける時に行っておこう。

行く気になった時が一番。

行くと決めた以上行く。

行く以上は楽しむ。

それでよいではないか!!


仮にもし、
この考えが間違っているなら
何らかの障害が起きて
行けなくなるに違いない。
最悪の場合は
行っている途中で帰国しなければならない事態が起こるかもしれない。

そうなったらそうなった時のことだ。

その時に考えればよい。

今から愚だ愚だ迷う必要など微塵もないではないか!!




 第一
昨年あたりから
私は毎月
両親のために帰省している。

今年の夏などは
半月もいたし
いるあいだは
それこそ
早朝から身を粉にして動きまくってきた。

ここで、自分にご褒美をあげたとて
人にとやかく言われる筋合いはない。

それに
考えてみれば、
父が入院しているほうが
母の負担は少ないし
父のこととて安心なのだ。
むしろ
絶好のチャンスかもしれない。

父の骨折が出立する前でよかった  
入院前後にそばにいてあげられてよかった 




 ・・・こんなふうに
自分の心を整理し
すっきりした気分でその日を待った。

いや、実際には旅行の前後のスケジュール上
あれこれと忙しく、“待つ”気分を味わっている暇などなくて、
旅行本を読めたのは飛行機の中、バスの中のみだった。


それでも、お天気にも恵まれ、
虹までも見せてもらい
何一つ不都合のない旅行となった。

同行の人々も
ツアーコンダクターさんも
みなよい人だったし
バスの運転手はとても丁寧な運転をするナイスガイだった。


おまけに
自由行動の時
多少困ったことが起きると
必ず、助けてくれる人が現れて

“ああ、ちゃんと、守られている”

と感じずにはいられなかった。

だから
その都度、左肩を三度たたいて
「ありがとうございます」とお礼を言っておいた。




決めて、信じて、動く。
心を開く、感謝する。

そうすれば
大概のことはスムーズにいくものなのだ。


これも、宇宙の法則。

簡単で楽しい法則。

こんな法則を誰でもが与えられている。

なんと有難いことだろう。

ただ、そのことに気付けばよいだけなのだ

クリスマスツアーで考えたこと その1

2011年12月13日 08時22分55秒 | ひとりごと
 またまた、一週間もお休みしてしまいました。
アクセスしてくださった方、ごめんなさい。そしてありがとうございます。


 久しぶりに、海外旅行に行ってきました。
冬のドイツ、日本人の大好きなクリスマスツアーです。

ツアー参加は新婚旅行以来、あとは個人旅行を数回したことがあるだけの私ですが、
やはり、ツアーはきつい。
わかってはいましたが、これしか空いてなくて、という理由で
毎日ホテルの変わる旅行でしたからなおさらです。

おまけに人数が34名という大グループ


たいへんでした。
あるんですね。こういうことが。
ツアーに慣れていない私たちには大変でした。

で、仮に今後、ツアーに参加するときに
絶対にチェックすると肝に銘じたことは

*参加最大人数を必ず確認し10名程度までのものにとどめること。
*二連泊以上で、自由行動が最低一か所2時間以上のプログラムのものにすること。
*食事は朝だけついていればよいということ。

でした。



 ま、その他のことは
私のような経験の少ないものが書かなくても
ベテランの方がたくさん写真入りで書いていらっしゃるので
よしといたしましょう。



 私は私らしく
この旅行をどう考えるかを書いてみたいと思います。




 四、五年前に
友人がこの手のツアーに参加し
話を聞かせてくれました。

その時
「行きたい!!」
と、まず思ったのですが
結局は毎年、
行きたいな、と思いつつも
「行きたいな」
で終わっていました。

 そして、昨年の12月

「行きたい」と言いつつ
「行きたい」でやめてしまっている自分が
ちょっといやになりました。

そこで
美代子さんを口実にして

「おばあちゃん、これが最後の海外旅行のチャンスかもしれませんよ!!
 思い切って
 お供しますから、みんなで行きましょうよ」

と、クリスマスツアーへの参加を提案したのです。

でも、結局、もうすぐ84歳になる彼女は
体力に自信がなく
今年になってもうんとは言いませんでした。

そうこうしているうちに
娘と、カフェを開くことになり
その準備と資金繰りに追われそれどころではなくなったのです。

カフェは11月頃、オープンの予定でしたから
クリスマスツアーなどとんでもないことでした。

それが
思わぬ事情からダメになってしまったではありませんか。


普通ならめちゃくちゃしょげるところでしょうが
私の場合


“それじゃあ、ドイツに行けるじゃん

となってしまったのです。

11月7日締め切りのツアーに11月5日に申し込みました。
34名中、ぎりぎりセーフの33、34番目だったようです 


 


 カフェを開くという夢はつぶれましたけれど
クリスマスツアーに行くという夢はかないました。



つまり
一つの思いがダメになったとき
他の思いをかなえるチャンスは大きくなるということではないでしょうか。



ただ
自分が
どちらの思いを、より大きく育てるかによって
実現するものが変わってくるのでしょう。


もし私が
カフェのほうを選択し
絶対にカフェを開くと決めていれば
今頃は
ドイツには行かず
そちらの実現に力を注いでいたはずです。

つまり
カフェを開きたいという思いがそんなに強くなかったということにすぎません。

むしろ
カフェの話がダメになったとき

「時間と、お金が浮いたじゃん  」

とさえ思ってしまったのですから・・・・・






「~たい」と思いつつも
「~たい」で済ませているうちは
何事も現実にはなりません。

「する」と決めて動いてこそ
初めて実現化するということを
今更ながらに確認しました。

それでも
途中で障害ができて
実現しないとき
それは
しなくて良いものに違いないのです。




 カフェはもうすぐ、“ゴーサイン”という段階でポシャリました。
おかげさまで
何の損失もなくポシャリました。

自分の中で
本当にこの場所でいいのかしら?!
とか
今、この時期に?!
という迷いのあった私。

でも、
なるようになるわ・・・

と決断を自然に任せていた私。

「ここではないよ」
もしくは
「これではないよ」
と言われたような気がしています。






 ドイツに向かう機内で見た映画

「つれが 鬱になりまして」

の中で主人公のセリフにこんなのがありました。



“私はこの頃考える。
ツレが鬱になった原因ではなく
ツレガ鬱になった意味はなんなのだろう”






そうです

何かが起きた時
「どうして」と考えると
つらくなってしまったり
後悔したり
誰かを恨んだりしなくてはならなくなります。

それは
とてもマイナーなエネルギーであり
幸せのエネルギーから遠ざかってしまいます。

反対に
「この意味はなんなのだろう」と考えることは
前へ進むための一歩になり
自分の成長や幸せのエネルギーを取り入れる助けとなります。



物事の原因ではなく意味を考える

そして
どんなことにも潜むその意義に気付いたとき
人はそれを与えてくださった大いなる力に
おのずと感謝し、幸せへの一歩を踏み出しているに違いありません。




どんなにアンラッキーのことにも
必ず
幸せの光の種は埋め込まれています。

それに気づくか気づかないか、
いえ
気づこうとするかしないか
ただ、それだけの違いなのです。

棚卸

2011年12月05日 23時19分49秒 | ひとりごと
 小学生のころから
父と衝突した。

わかってほしいのにわかってくれない。

そんなもどかしさから始まり
父の大人げなさや
自分勝手さが許せず
父を嫌うようになった。


そうして
心に傷を残したまま
大人になり
結婚し
父から離れた。


いつまでたっても変わろうとしない父を憎みもした。

反発しながらも
しっかりと
父のいやな面を見習ってしまっている自分自身をも嫌った。



あんな人が父でさえなかったら・・・
あんな人が父だったから・・・


いつもそんなふうに父を恨んだ。


父が嫌いで
人間が嫌いで
自分さえも嫌いな女が
母になってしまった。

避妊していたはずなのに
子供ができた。


しかし
そんな女は
わが子を
かわいいと思いながらも
うまく愛せなかった。

結局は
気が付けば
父と同じような言動でわが子に接していた。

上手に愛する方法を知らなかったのだ。




これも、それも
父が私をこんな風にしたからだ、と
また父を恨んだ。




そして、同時に
いつも、どこかに寂しさがあった。


父と分かり合えない寂しさ。
父を素直に愛せない寂しさ。
自分の親を
「好き」と言えない寂しさ。


親子だから分かり合いたい。
親子だから仲良しでありたい。
親子だから、
親子だから、
親子だから・・・





 大人になって
父の生い立ちを知り
父もまた
かわいそうな子供だったことを知った時
父を許さなければ、と思った。



父だけのせいではない。
父もまた気の毒な人だったのだ。

許そう。
許さなければ・・・

…そう思いながらも
それでも許すことはできなかった。


そうして
今度は
許せない自分を責めた。

つらかった。
ますます自分が嫌いになっていった。



そんな私を見て
ある時
友人が言った。


「無理して許さなくていいんじゃない?!
 許せないならば
 今はそのことを
 棚上げしておいたらいいよ。

 いつか
 時が来たら
 棚卸できるから」




・・・私は彼女の言葉に従った。

父のことを考えないようにした。

実家に帰ることを控え
帰ったとしても滞在時間は短かかった。


楽だった。

ほんの少しの後ろめたさはあったものの

「逃げたのではない。
 棚上げしただけのこと」

そう思えば
気持ちはとても楽だった。






 でも、もし
父がそんな関係のまま死んでいたら
私はきっととてもつらかったに違いない。

なぜならば
そのまま永久の別れをすれば
私の中には
ずっと
許せないままの父が、
大嫌いなままの父が、
居ついてしまうのだから。




 今、父は、とても弱くなった。

体も心もとても小さくなった。


ここ数年のうちに
何度も入退院を繰り返し
皆に迷惑をかけながら生きている。
そして
そのことを本人も負い目に感じている。


そんな中で
私の感情は変わっていった。




「気の毒」

父をそう思うようになった。

「かわいそう」

あの、負い目はどんなに重かろう。

人はこんなにも弱く小さくなるものなのだ。





いつのまにか
父はもう
憎むべき相手ではなくなっていた。

自分よりずっと弱く
いたわらねばならない「老人」になっていた。




そうして、
棚上げした私の感情は
知らぬ間に棚卸され
精算されてしまっていた。




「時がくれば・・・」

あの時友人はそう言った。

「時が来れば・・・」

私もそれを信じた。


その「時」が与えられていた。

自分で意識して棚卸する必要さえなかった。




 
 私は
父が病気になりながらも生きてくれたことに感謝している。


彼が自分の身を呈し
みじめで
つらい思いをしながらも
生きていてくれることにより
私は自分の感情を精算することができたのだ。






思えば
父は自分の生涯を通して
私に
憎むこと、嫌うこと
許すこと、愛することを教えてくれたのかもしれない。


もちろんそれは
彼の顕在意識内でのことではないが
父は私にとって
今生の体験と学びの提供者だったのかもしれない。



今、父を思えば涙が頬をつたう。

有難いことである。








過ぎゆく今年

2011年12月05日 21時47分50秒 | ひとりごと
 「この春」も「あの春」になる震災の
         地割れにひとつタンポポの花



 福島の中学生の詠んだ歌だそうだ。

3月11日以降
ほとんどの日本人の
心のどこかに憂鬱があり不安があるに違いない。

と、同時に命の尊さや生かされていることの有難さを実感し
他を思う「愛」についてもいろいろ考えさせられていることだろう。


みんな、
そう
被災者はもちろん
被災していない人々も
みんなみんな
とてつもなく重かった「今年」が
終わろうとしている。

何が起ころうと
どんなにつらかろうと
時間は流れ
月日は過ぎていく。

そして
変化していくのだ。

それは酷なことでもありながら
大いなる救いでもある。


走馬灯 万物流転 人もまた

                熊切 道丸


人は死ぬときに脳細胞が壊れていく。
脳細胞が壊れだすと時間の流れが変わるのだそうだ。

ゆえに
死の瞬間に
自分の一生の出来事を
記憶の引き出しから
すべて引き出す時間が与えられるらしい。


その時きっと
それこそ走馬灯のように
クルクルと過ぎていくのだろう。


そしてそれを傍観する自分がいるに違いない。



生きているときも
そんな風に傍観することができれば
苦しまずに済む。

禅でいう「無我」・・・・??????


けれど、
苦しんだり悲しんだり
喜んだり、楽しんだり
憎んだり、愛したりしてこその「生」ではなかろうか。



そのどれもが
いとおしく大切な経験であると認識したうえで
いつかは必ず「そうでなくなる時が来る」ということさえ意識していれば
必要以上にその感情に振り回されずに済むにちがいない。



“ゆく川の流れは絶えずして しかも もとの水に非ず ”   方丈記

なのだ。


今年が過ぎていく。

一生の中のほんの数か月として今年が過ぎていく。

何があったとしても「あの年」になってしまう「今年」が過ぎていく。



メビウスの 帯のどのへん 去年今年 

                          熊切 三千丸

人生はメビウスの輪のようなものである。
今の経験は必ず何かにつながるはずだ。

無意味なものなど何一つない。

安楽だけが幸福ではないことを忘れないでほしい。
つらかった「今年」にも感謝の光を見出してほしいのだ。








          * 我が家のパソコン 二代続けてDELL
            これがよく故障する。
            おまけに対応が悪い。

            使い方が悪いのか・・・

            いずれにしても次回はこの会社のは買わない。


          * 父がまた骨折をした。
            今度は腰椎
            全治6週間
            冬支度の手伝いと
            父の見舞いとで実家に入りびたり


      ・・・というわけで なかなかブログが書けません。
      何度も立ち寄ってくださった方、申し訳ございません。
      そして、ありがとうございます。