脊椎管狭窄症
今年の五月ごろからその症状は表れ始め
7,8月までは台所に立つのさえ困難な日もあった。
それがいま、
足のしびれを感じるのも時たまになり
歩きにくいのもよほど疲れた時だけとなっている。
わが足で歩けることのありがたさ
ケヤキ並木の秋は暮れゆく
・・・・・11月の初めに
家の近くを散歩したときに読んだ歌である。
欅の街路樹の向こうに沈んでいく茜色の夕日
鈍色のシルエットとなって浮かび上がる建物たち
その光景を美しいと思うと同時に
その美しい光景を今、自分の足で歩いて見ることができているのだと
心底、うれしかったのだ。
歩けている。歩かせてもらえている。
「歩く」というただそれだけのことが
こんなに素晴らしく、有難いことなのだ感じたことが
今までにあっただろうか。
病気になって、
歩くことがままならなくなって
その時になって初めて
「歩ける」ということが素晴らしい宝物であるということを実感したのだった。
病気になって一番しんどい時は西洋医学ではない“ある治療”を受けた。
それは確かに、私には効果のあるものだった。
治療を受ければ一時的には楽になる。
しかしそれは
病気を根本的に治すものではなかった。
自分のエネルギーが低ければ
またすぐに悪さをするウィルスに負けてしまうのだから。
この病気のおかげで
いろいろな本を読んだ。
そして学んだこと。
病気は何かのメッセージ
では、私には何のメッセージをあたえられたのか・・・
自分を振り返り考えてみた。
まずは、不平不満の毒素
私の場合
夫へのそれが常に私のストレスとなり
私に病気をもたらしている。
だとすれば、
病因を取り除くには二つに一つしか方法はない。
一つは離婚して彼に振り回されなくて済むようにすること。
もうひとつは、彼のあれこれを見咎めないこと。
そう、彼が彼である以上
彼をどうこうすることはまず無理である。
だとすれば、私が変わるしかない。
そのままの彼を受け入れ、すべてを受け入れ受け流し、
ストレスにしない方法を身につけるしかないのだ。
ある意味、それは本当の愛かもしれない。
ああ、これは難しい。
けれど今の段階で離婚したなら、
それは「逃げ」になってしまうような気がする。
「逃げ」はいやだ。
離婚するにしても「卒業」でありたい。
だから、結局
彼に己が理想を求めず
ありのままの彼を受け入れる努力をしよう、と今もがんばっている。
二つ目は運動不足
愛犬がいたときは
雨の日も風の日も
暑い日も寒い日も
毎日必ず、朝夕二回
一時間以上は散歩していた。
土日ともなれば
彼女の喜ぶ顔見たさに
山登りを散歩代わりとした。
かつ、その頃は仕事も忙しく
常に、走り回り、体を動かしていた。
それが彼女の死とともに
山登りどころか散歩さえも全くしなくなり
おまけに仕事がほとんどデスクワークとなってしまった。
まったくもっての運動不足だった。
「人間の体は歩くことで進化してきた。
動くことで健康を保てるようになっている。
特別な場合を除いては
痛くても動かし使うことによって改善するのである」
この言葉は私に勇気を与えた。
歩けなくなるかもしれない、
結局手術するしかないのだろうか、とややもすれば弱気になりそうなわたしに
「大丈夫、自分で直せるよ」
と言ってくれた気がしたのだ。
で、歩くことにしたのだった。
しびれる足に声をかけながら
前へ出にくい足を励ましながら
自分の足にごめんね、と謝り
自分の体にありがとうと感謝して三十分から一時間ほど歩くようにしている。
同時に、腰痛を和らげる運動の本の教えてくれている内容も
時々、行っている。
あとは
病める腰にカイロを張って温める
体内のミトコンドリアを増やすために太陽にあたる
口呼吸しないように、夜は口唇を張って寝る
などを、心がけ、
毎晩寝るときに
「私の60兆個の細胞たちよ。今日も一日ありがとうございました。
あなたがたのおかげで、一日元気に幸せに暮らせました。
明日はさらによくなっていますからね。
ありがとう、お疲れ様」
と声をかけるようにしている。
その成果だろうか。
この頃
足腰に痛みを感じることが少なくなった。
台所に二時間たっても平気でいられる日もある。
お医者に行かず、特別な薬を飲んだわけでもない。
けれど、
「医者は病気を治せない」という
あるお医者様の本を読んで深い自信を得、
ひたすら自分の生活改善を心がけ
自分の細胞たちに指令を送り続けたのだ。
その結果、
あきらかに私の足は改善してきている。
病気は心身ともに健全であれば起ころうはずはない。
病気になるにはなるだけの原因がある。
その原因は手術などで取り除けば済むというものではないのだ。
原因は自分で改善しなくてはならない。
改善することにより何かが変わり、より幸せへと近づけるはずなのだ。
「神様は、決して罰などは与えはしない。
ただ、神様は忠告してくださるだけなのだ」
・・・何かで読んだ、この言葉が私は好きだ。
病気をもらった時
それをどう受け止め
どう対処するかで
幸にも不幸にもなりうるということだろう。
今年の五月ごろからその症状は表れ始め
7,8月までは台所に立つのさえ困難な日もあった。
それがいま、
足のしびれを感じるのも時たまになり
歩きにくいのもよほど疲れた時だけとなっている。
わが足で歩けることのありがたさ
ケヤキ並木の秋は暮れゆく
・・・・・11月の初めに
家の近くを散歩したときに読んだ歌である。
欅の街路樹の向こうに沈んでいく茜色の夕日
鈍色のシルエットとなって浮かび上がる建物たち
その光景を美しいと思うと同時に
その美しい光景を今、自分の足で歩いて見ることができているのだと
心底、うれしかったのだ。
歩けている。歩かせてもらえている。
「歩く」というただそれだけのことが
こんなに素晴らしく、有難いことなのだ感じたことが
今までにあっただろうか。
病気になって、
歩くことがままならなくなって
その時になって初めて
「歩ける」ということが素晴らしい宝物であるということを実感したのだった。
病気になって一番しんどい時は西洋医学ではない“ある治療”を受けた。
それは確かに、私には効果のあるものだった。
治療を受ければ一時的には楽になる。
しかしそれは
病気を根本的に治すものではなかった。
自分のエネルギーが低ければ
またすぐに悪さをするウィルスに負けてしまうのだから。
この病気のおかげで
いろいろな本を読んだ。
そして学んだこと。
病気は何かのメッセージ
では、私には何のメッセージをあたえられたのか・・・
自分を振り返り考えてみた。
まずは、不平不満の毒素
私の場合
夫へのそれが常に私のストレスとなり
私に病気をもたらしている。
だとすれば、
病因を取り除くには二つに一つしか方法はない。
一つは離婚して彼に振り回されなくて済むようにすること。
もうひとつは、彼のあれこれを見咎めないこと。
そう、彼が彼である以上
彼をどうこうすることはまず無理である。
だとすれば、私が変わるしかない。
そのままの彼を受け入れ、すべてを受け入れ受け流し、
ストレスにしない方法を身につけるしかないのだ。
ある意味、それは本当の愛かもしれない。
ああ、これは難しい。
けれど今の段階で離婚したなら、
それは「逃げ」になってしまうような気がする。
「逃げ」はいやだ。
離婚するにしても「卒業」でありたい。
だから、結局
彼に己が理想を求めず
ありのままの彼を受け入れる努力をしよう、と今もがんばっている。
二つ目は運動不足
愛犬がいたときは
雨の日も風の日も
暑い日も寒い日も
毎日必ず、朝夕二回
一時間以上は散歩していた。
土日ともなれば
彼女の喜ぶ顔見たさに
山登りを散歩代わりとした。
かつ、その頃は仕事も忙しく
常に、走り回り、体を動かしていた。
それが彼女の死とともに
山登りどころか散歩さえも全くしなくなり
おまけに仕事がほとんどデスクワークとなってしまった。
まったくもっての運動不足だった。
「人間の体は歩くことで進化してきた。
動くことで健康を保てるようになっている。
特別な場合を除いては
痛くても動かし使うことによって改善するのである」
この言葉は私に勇気を与えた。
歩けなくなるかもしれない、
結局手術するしかないのだろうか、とややもすれば弱気になりそうなわたしに
「大丈夫、自分で直せるよ」
と言ってくれた気がしたのだ。
で、歩くことにしたのだった。
しびれる足に声をかけながら
前へ出にくい足を励ましながら
自分の足にごめんね、と謝り
自分の体にありがとうと感謝して三十分から一時間ほど歩くようにしている。
同時に、腰痛を和らげる運動の本の教えてくれている内容も
時々、行っている。
あとは
病める腰にカイロを張って温める
体内のミトコンドリアを増やすために太陽にあたる
口呼吸しないように、夜は口唇を張って寝る
などを、心がけ、
毎晩寝るときに
「私の60兆個の細胞たちよ。今日も一日ありがとうございました。
あなたがたのおかげで、一日元気に幸せに暮らせました。
明日はさらによくなっていますからね。
ありがとう、お疲れ様」
と声をかけるようにしている。
その成果だろうか。
この頃
足腰に痛みを感じることが少なくなった。
台所に二時間たっても平気でいられる日もある。
お医者に行かず、特別な薬を飲んだわけでもない。
けれど、
「医者は病気を治せない」という
あるお医者様の本を読んで深い自信を得、
ひたすら自分の生活改善を心がけ
自分の細胞たちに指令を送り続けたのだ。
その結果、
あきらかに私の足は改善してきている。
病気は心身ともに健全であれば起ころうはずはない。
病気になるにはなるだけの原因がある。
その原因は手術などで取り除けば済むというものではないのだ。
原因は自分で改善しなくてはならない。
改善することにより何かが変わり、より幸せへと近づけるはずなのだ。
「神様は、決して罰などは与えはしない。
ただ、神様は忠告してくださるだけなのだ」
・・・何かで読んだ、この言葉が私は好きだ。
病気をもらった時
それをどう受け止め
どう対処するかで
幸にも不幸にもなりうるということだろう。