幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

夫婦喧嘩も使いよう

2012年08月27日 20時52分14秒 | ひとりごと
 わが夫婦
またまた些細なことで決裂!!



 日曜日の夕方
私たち夫婦は仲良くウォーキングに出るはずであった。
が、些細な、けれど譲れないことが原因で敢え無く決裂。

歩み寄ろうとする私をしり目に
夫は一人で出かけてしまった。


 

 以前ならそんな夫に腹が立ち
怒り狂う私だけれど
少しは成長したのだろうか。
さほど、腹立ちも淋しさも感じなかった。

 けれどこのまま何もなかったように済ませてしまえば
夫はまた同じようなことを繰り返す。
それは、二人の将来を形成するうえでチト困る・・・

そう考えた私はそれなりの抗議行動を起こすことにした。



 で、夕飯作りをボイコット!!

「妻の気持ちを無視し、短気を起こしたあなたが得るものは
 己自身の気を貶める憤懣と孤独です。

 起こってはいませんが、とても残念で悲しいです。
 明日のあなたに期待はしますが
 今日はここまでですね。

 せっかくの日曜の夜ですが
 どうぞご自分一人で
 お夕食をおとり下さい」


と、書置きを残し家を出た。


 
 さあ、ここからが大切。

いつまでも、先ほどの夫婦喧嘩に引きずられていては
当然こちらの気も落ちる。
気を落としていてはアンラッキーを引き寄せてしまう。
それではもったいない。

夫婦喧嘩も使いよう。
せっかく一人で外食できるチャンスを得たのだから
できる限り有効に使わねば。



 幸い腹は立ってはおらず
やや悲しいものの比較的穏やかな自分がいる。

ならば
その自分をもっと大きくし
ラッキー波動に変換しよう!!
せっかくだから
楽しく過ごすぞ!!

さあさあ、どこへ行こうか。
ステキに過ごすにはどうしたらよいだろうか。

クルクルクルクル
できる限りの回線をつなぐ。



そうだ、
あそこにしよう!!


私は
丁度
ここ数日前から
会いたくなっていた人が経営する中華料理店へと車を走らせた。


「一人でもお店に迷惑をかけずにおいしく堪能できました。
 ママとも、善い具合に会話ができて楽しく過ごせました。
 ありがとうございます」

と念じて、イマジネーションし、扉を開けた。




結果は言うまでもなく、
見事にそのイマジネーション通りのものとなり
気の利く店主の計らいで
水餃子、青菜炒、冷麺、蟹爪揚、杏仁豆腐を
少しずつ楽しませていただいた。
しかも、丁度お客様が引き
彼女とも十分にいろんな話ができた。
おいしくて、楽しくて満足だった。


しかも!!である。

彼女の話の中に出てきた素敵なお客様が
直後にいらして
今の私に必要な情報とコネクションを得ることができたのだ。

全く
びっくり仰天の「偶然という共時性」に一同感動。

本当に
楽しくて有意義な時間であった。
素晴らしく充実した時間となった。




 これがもし、夫同伴であったり
家で食事をしていたなら
絶対に不可能なことだっただろう。


こうなると
夫が取ったあの態度は
私にこれを与えるために
神様がわざとそうさせたのではないかと思えるほどだ。


ああ、神様ありがとう
夫よ、ありがとう    

そう感謝せずにはいられなかった。



「幸せは、不幸の顔してやってくる」

私が信じている言葉の一つ。



「夫婦喧嘩」という一見悲しくて不幸な一瞬も
それを転じて「吉」に変えることを考えれば
ちゃんとラッキーにつながるということを実体験した気がする。


「夫婦喧嘩」に引きずられ
腹を立てたり悲しみすぎたり
起きてしまったことに固執していたら次への展開はなかっただろう。

起きてしまったことを受け入れ、でもこだわらず
それを利用することを考えれば
道は必ず開けるのだ。


いや、むしろ
思わぬラッキーが与えられる
ということだ。







三つの幸せ

2012年08月08日 23時12分59秒 | ひとりごと
 半月ほど前に起きた「悲痛」な事件を
「あれがあったからこそ今がある」にするために
私たち夫婦は今、いろいろとがんばっている。


 その中に「三つの幸せ探し」がある。
今日一日の中でラッキーだったことを三つ
夕飯の時に報告しあうのだ。
大したラッキーでなくて良い。
小さな小さな、ある意味当たり前のことでよいのだ。
その日、自分が「よかった」「幸せだ」と、思えるものなら何でもよいのだ。


たとえば、今日の私のラッキーは・・・
  1、昨日友人が勧めてくれたトマトのゼリーを
    期せずして手に入れることができた。

  2、多少左半身の痛み、左足の不都合は感じたが
    それでも、夜のウォーキングに行くことができた。

  3、たまたま駅で配られていた本(ある宗教家の自叙伝)を
    たまたま気が向いて受け取り
    何気なく開いたページに
    今の私に必要な言葉が書かれていた。


などである。
あるいは、こんな報告の仕方もある。


  1、二、三日出なかった便が朝一番にたっぷり出てくれて
    おかげさまで、おなかすっきり、超しあわせ!!

  2、日中はとても暑かったけれど、今日は出かける用事もなく
    風の良く通る廊下に寝ころび、気付いたら昼寝していた。
    涼しく、ゆったり、めちゃめちゃ幸せでした。

  3、夕方、洗濯物を取り入れようと二階のベランダに出ると
    遠くに見える山が夕日に映えて素晴らしく美しかった。
    そんな光景に出合えて幸せでした。

・・・とまあ、こんなに他愛もないことでよいのだ。
それでも、その三つすら夫は言えない日が多い。

これは夫に限らない。
三つ言えと言われて、言えない人は結構多い。

たいていの人が「些細な幸せ」を意識せずに過ごしているからだ。


当たり前であることが決して当たり前ではないのだと痛感した半月前。
痛感したときには後の祭りだった。

 だから、今は、当たり前のことがいかに当たり前ではなく
ものすごく幸せなことなのだということを意識し、感謝する訓練をしているのだ。
そうすることにより
幸せがいっぱい自分にも与えられているということに気付くようになる。
気付けば、なお一層幸せになれるのだ。

 幸せは気付きさえすればすぐにも自分のものになるということだ



 ただ、先に書いた「駅で配られていた本」には
幸せは誰かの「為」に生きてこそ手に入る”
と書かれていたが・・・



 

添う

2012年08月06日 16時50分10秒 | ひとりごと
 何の記事だったか思い出すこともできないが
美智子皇后の言葉として目にした。

「せめて、その方の気持ちに添うことを努めて参りました」



 “相手の気持ちに添う”

 私が“添う”という言葉を意識したのはこれが初めてだったように思う。




 人はしばしば
「わかる、わかる」
 と口にする。

同じような経験を持っていれば
それも可能かもしれない。

 しかし、たとえ同じ事態を同じ場所で
同時に経験したとしても
受け取めかたは人それぞれ。
感じ方、受け止め方は皆違う。

ゆえに本当に「わかっている」のかどうか怪しいものである。

それでも、いとも簡単に
「わかるわ」と言ってはばからない人たち。

私自身を含め
もう少し
言葉を丁寧に選ぶべきではないだろうかと
先の言葉を読んだときに思ったのだった。



 確かに
「わかる」ことはできなくとも
「添う」ことは可能なのかもしれない。



 誰かが苦しんだり、悲しんだりしている時
叱咤激励するよりも
まず、その気持ちに添ってあげることができれば
私はもっと
ステキな人になれるのだろう。




 以前に紹介した老舗の女将の言葉

彼女からの葉書には
その“添う”という
静かだけれど、愛に満ちた心遣いがいっぱい詰まっていたように思う。


あの時、
彼女の言葉は、
辛くてたまらない私を
優しく
でも、しっかりと抱きしめてくれていた。










叶った夢

2012年08月04日 12時24分43秒 | ひとりごと
「夢は叶えるためにある」

この言葉を信念にするようになって
もうどれだけ立つでしょう。

あきらめなければ、努力を続けていれば
必ずいつかは叶えられる、
そう信じて生きることを選びました。

 でも、少し前までは

“夢を実現化するには必死の努力が欠かせない”

とも思っていました。


それは間違いではありませんが
しかし、
この頃は
必ずしもそうでもないな、
と思うようもなってきました。

 


 たとえば、今真っ最中のオリンピック

参加している選手たちの今までの努力は
私などには想像すらできないほど厳しいものだったのでしょう。

彼らは同じ夢を抱く人々に支えられながら
努力して努力してその一瞬を手にしているに違いありません。
こういう「努力の結果」の「夢の実現」も確かに存在します。

むしろ、そういうことの方が多いのでしょうし
苦しい山を乗り越えることこそが人生の醍醐味に違いありません。


 

 が、世の中には
「苦しい努力」をせずとも叶う夢もあるように思うのです。
たとえば、ホントに些細なことですけれど
数日前、私は

「スイカが食べたい。誰かがスイカを下さいます。ありがとうございます」

 と念じました。
そうして、自分が一切れの大きなスイカを豪快に食べているところを想像し

「ああ、おいしかった!!
 ごちそうさま 
 ありがとうございました」

と口にしました。

スーパーに行ってスイカを見ても

「どなたかが下さるのだから
 今、買うのはやめよう」

とがまんしました。

 誰が下さるのか
どれくらい下さるのか
というような
なにかを“限定”することは考えず
ただ、
念じて、イマジネーションしたからには
必ず現実になるはずだ、と
ある意味、実験もかねて我慢し続けました。

今か今かと待つのではなく
必ず来ると信じて
半分忘れるくらいで待っていました。


 結果
一週間もかかってしまいましたが
スイカは丸ごとひとつ
私の手元に届けられました。
突然、知り合いがやってきて
畑で採れたからといい、ナスやトマトと一緒に
中振りのスイカをひとつ下さったのです。

その人のことは
頭に浮かびもせず
“えっー 
 神様はこの人をお使いになったんだ”
とびっくりするようなお相手でした。

ちょっと、おもしろかったです。


 これは
いわゆる“引き寄せの法則”ですけれど
こんなふうに思いが叶うことも夢の実現の一つだと思えば
意識するとしないにかかわらず
皆、日々、「夢の実現」を経験しているに違いないのです。


 同じように
大きな夢であっても
ずっと思い続けていれば
ある日突然、そのチャンスが訪れたりするものなのです。

大切なのは、「この夢は必ず叶う」と信じ切ること。
その夢を忘れないこと。
そうして、いろいろなことに感謝し
目の前の人を愛し
今日を精いっぱい生きること、なのです。


 これを守っていれば
忘れたころに引き寄せの法則が働き
突然に
神様はご褒美をくれたりするものなのです。




 そういえば、
先ごろ、ある人からお手紙をいただきました。

江戸年間から続く料理旅館の女将で
先代のころには、それこそいろいろと苦労が絶えなかった人です。

彼女が
最近落ち込んでいる私を励ますために下さった言葉です。


“ 生きていることに疲れ
  生きることを止めようと考え
  いろいろしました。


  でも
  まだ生きています。


  20年以上もだらだらと時は流れました。

  

  そうしたら
  願っていたことが
  一つ一つ現実のものとなり始め
  神様
  仏様
  ありがとうございます

  って、感じです”



 
「だらだらと」と彼女は言うけれど
いつだって彼女は目の前のことを一生懸命にこなしていました。
嫁として、母として、若女将として
悲しみや葛藤をこらえ
目の前の人に笑顔で接してきました。

そんな20年以上を
神様はちゃんとご覧になっていたのです。
そして、そろそろいいかな…みたいな感じで
夢を叶えてくださっているのです。





 あなたも
まず夢を抱いてください。

そして、それは必ず叶うと信じ切ってください。

そのうえで、今目の前にあることを精いっぱい
真心こめてこなしていきましょう。
今、目の前にいる人に感謝して
愛することに努めましょう。


今日のあなたが
ほんの少しでも誰かを愛したなら
ほんの少しでも誰かを幸せにしたなら
神様は、
宇宙のエネルギーは
ちゃんとそれをカウントしてくれています。

たくさんたくさん点数がたまったころ
思いもよらぬ形で
長年の夢を目の前にぶら下げてくださったりします。


その時
それが夢であったことをちゃんと覚えていて
敏感にキャッチできれば
苦しい苦労や努力をしなくても
夢は現実化したりするのです。


 神様はすごいです。
私たちの想像もつかない形で夢の実現をお手伝いくださいます。


あなたも、自分がかつて願ったことを思い出してみてください。

私の「スイカ」のような小さな願いは
いくつも叶ってきたのではありませんか?

まだ叶っていない夢ばかりを見つめ
「夢なんて叶わない」と思うのではなく
叶えられた夢を数え上げて
「ああ、夢って、いくつも叶えてもらっているんだ」
と、再認識し
「夢は必ず叶う」
と心から信じてみませんか。


 他を愛することに努め
なさねばならないことを心を込めてこなす。
今日生かされていることに感謝し
喜怒哀楽すべてを味わい尽くす。


そうやって
丁寧に丁寧に今日を生き
あなたの夢を現実化してほしいな、と
願います。



「夢は必ず叶う」と信じ切りましょうね