幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

封緘に

2014年01月20日 23時45分16秒 | 暮らし
 手紙を書くということは
近頃では流行らないのかもしれない。

 でも、ダイレクトメールでも
引き落としの連絡でもない封書が届くと
何だかとてもうれしい。

 メールで
フェイスブックで
すぐさま反応が返ってくるこのご時世
今更手紙でもないのかもしれないけれど
それでもやっぱり
手紙は嬉しい。

葉書よりもさらに嬉しい。


 そんな手紙の封を開けるとき
切手や封印にまで気配りされているのを見ると
ワクワク感はなお高まる。

同時に
そこに差出人の教養や趣味のよさを感じるのだ。



 だから私も
なるべく友人知人に手紙を書くようにしている。

切手も季節にふさわしいもの、ご当地ものなど
機会があればいろいろと購入しておく。


 そして、封緘の文字にも心を込める。
季節を表す言葉。
相手を愛おしく思う言葉など
その都度、自分の気持ちに合わせ
相手を思い
どんな言葉にしようかと考える楽しさ。


 本当に大好きな人たちにはよく「千里如面」の判を押す。
御存じのとおり
「千里ほどもの遠い距離にあってもいつもあなたのことを思っています」
という意味。
そしてその上に小さく「ありがとうございます」と書き添える。

 お手紙を差し上げる相手があって幸せ。
だから、あなたにありがとう。

いつもやさしさやお気づかいをありがとうございます、そんな意味も一緒に。




 季節を表す言葉も好きだ。
今なら「萌(きざし)」・・・かな。

1月も下旬になると心のどこかで春の兆しを探し出す。
そして下萌を見つけたり
お日様の光に力強さを感じたり
あるいは
空の色にだったり。


 そんな気持ちを込めて「萌」と書く。
そうしてやはり小さく「ありがとうございます」


 受け取る人にも小さな春が届きますようにとの願いを込めて。

現在(今)に在る

2014年01月19日 22時35分03秒 | ひとりごと
 今年の書初めは「現在(いま)に在る」
とした。

 余談だが
書初めはいい。

子どものころは
宿題に書初めがあったので
書初め=いやーな宿題
として私の脳にインプットされてしまっていたのだが
一昨年くらいから
主宰する「文工房」で書初めをするようになって
これはなかなかよいものだと思うようになった。


 一年間
おのれの芯に置く言葉を吟味し選ぶ。

下手でもいい。
気合を入れて一気に書き上げる。

そして額に納め
それを毎日目のつくところに置く。

こうして一年間
ずっとそれを意識し続けるのだ。



 同じように年頭に
「今年の抱負」なるものを言葉にしても
最初のころはともかく
そのうち忘れてしまい
年末になるころには
全く忘却の彼方となってしまうのが落ちだ。

 けれど書初めにすると
きっちりと己の中に落とし込むことができて
いつも自分に語りかけるようになるのだ。

そうして
書初めをした人としない人とでは
一年間の過ごし方が微妙に違っているような気がする。

 これはあくまでも
私のところに通ってくださっている人たちを見てのことだから
全てというわけではない。

 それでも
やはり、書初めはしないより
した方が良いなぁと思うのだ。




 で、去年の私の書初めは「愛する」だった。
自他ともに愛する。
見知らぬ人も愛する。
目の前にいる人を愛する。

そんな思いを自分の「芯」において
一年間を過ごした。

まだまだ十分ではない。
だから
今年も同じ言葉にしようかとも思ったが
しかし
それよりも
もっと難しい「現在に在る」を選んだ。

 すべては過ぎ去ること。
過去にも未来にも生きることはできない。
「現在(今)」にしかいきることはできない。

空を見たら空に無心になろう。
風を聞くときは風に集中しよう。
誰かと話しているときはその人に夢中になろう。

過去に引きずられることなく
未来を期待し過ぎず
この一瞬に生きる。

その積み重ねが一生となる。
そうすれば
私は充実した生涯を送ることになるだろう。



「現在(いま)に在る」ことは
時間が縦軸ではないというちょっと難しい理論の入り口でもあるらしいが
それこそいまのわたしにはまだわからない。

それでも
今年はこの言葉を自分の中心軸としようと思う。





大福に生姜醤油?!

2014年01月18日 17時54分04秒 | お料理
 徳川家のご先祖様の出身地、「松平」あたりに住んでいるらしいおばちゃんたちが
ファーム市場で五平餅を商っていた、
が、まだオープン前だったせいか
五平餅を焼かずに大福もちを焼いていた。

大福餅と言っても
市販のいつまでもやわらかい求肥の入ったものではなく
本当の御餅にあんこを包んだものである。

焼けてこんがりときつね色になるころには
ぷぅーっと膨らんで割れ目ができ、
そこから、温められてトロリとなったあんこが顔をのぞかせる。

もちろんすべて自家製。
昨日の夜に作ったんだとか。
焼かなくても食べられるくらいの固さだった。


う~~~~~ん、なんともおいしそう!!

昔、我が家でもお正月用の御餅をつくと
必ず大福餅を作ってくれた。
そして
母はそれを
火鉢で焼いて食べさせてくれた。

子どもの時のおいしい記憶が甦る。




 思わず、

「おいしそうですねぇえ~~~~~
 それ、もう焼けますか?」

と声をかけてしまった。



「もうちょっとだよ。
 五平餅焼かんと、こんなもん焼いてるんよ、ははははは」

と、豪快に笑うおばさん。


「一つください。
 おいくらですか?」

「これ、売りもんじゃないんだわ。
 でも、サービスで、あげるよ。

 ほいな、これにこれを付けて食べとくれ。
 めちやくちゃ、おいしいげな」


と、手渡して下さったのは
なんと生姜醤油!!

えっ~~~~~~~っ!!

大福餅に生姜醤油???????

 

 みなさま?!
大福をそんな風にして召し上がったことおありですか?
大福に生姜醤油付けろって・・・・・

びっくりする私に


「まあ、騙されたと思って食べてみて。
 ほんと、おいしいから」

横にいた別のおばちゃんも勧めてくださる。

しかも家族三人分、まるまる3つもお皿に乗せてくださった。


甘いものが嫌いではないけれど、たくさんは食べられない私と娘
有難いけれども、嬉しいけれども、
ちょっと困惑。
こんな大きな大福餅は一人1個も食べられない。

 


 ソレニシテモ、なんと気前の良いこと。
他に何かを購入したわけでもないのに
つまり何にも買ってはいないのに
大きな焼き大福を3つも下さったのだ。


ここはやはり、その親切にこたえねば・・・・・

うん、頑張って食べるぞ!!


それにしても
大福に生姜醤油・・・・・・



 ところが!!これがうまい!!


生姜醤油のからさが
あんこの甘みを抑えるのか
焼き大福のまま食べるのとは違い
甘く感じないのである。

御餅も本物だし
あんこも甘さ控えめ。

丁度
焼いた御餅にお砂糖の入った醤油を付けたような感じだ。

でも、それよりもうまみがある。


というわけで、ペロリと1個ずつ平らげてしまった。



 ああ、朝日の中で
おばちゃんたちの優しさに感動し
生まれて初めて食べる大福に興奮し
朝からなんと幸せなことか。



 あんこの入った本物の御餅が手に入ったら
是非一度お試しください。

焼き大福の生姜醤油付け

確かにおいしいですよ

ピカソのクッション

2014年01月17日 23時17分04秒 | 暮らし
 ピカソの絵が織られたクッションを買った。
コンランショップでソルドアウトになる寸前
ようやく手に入れた。

新居の白いソファーのポイントになっている。

   



 昔、ピカソの何がいいのかさっぱりわからなかった。

けれど、今は
「ピカソはやっぱりすごい!!」
と思うようになった。


特に
ラフに書かれた一筆書きのような物達が好きなのだが
どう頑張ってもあの「線」をまねることはできない。
如何にも簡単な
子どもの落書きのような「線」なのに
やっぱりそこにピカソの素晴らしさがあることを認めざる負えないのだ。


 ・・・・・と、
そんなことを最近思っていたら
昨日読んだ「もうひとりの熊谷守一」に
彼が自著「青蠅」の中で


〝好きな絵も尊敬する絵描きもいませんが
 ピカソは好きな方です。
 ピカソの絵はどこにあってもピカソだからです”

と言っていると書かれていた。


「青蠅」は20年も前に読んでいたのに
この言葉は全く印象に残らなかった。


その頃の私にはピカソの良さがわかっていなかったからだろう。


好きな熊谷守一が
同じようにピカソを好きだと言っているのがわかって嬉しい。





 たかだかクッションなのだが
それは毎日、紛れもなく私を幸せにしてくれている。





 

成長は止まる?

2014年01月17日 22時29分57秒 | ひとりごと
 あるメンターに言われた。

上に伸びようとする意欲を待たないと成長は止まってしまう、と。
満たされていることに満足してしまうと
そこでストップしてしまう、と。


・・・そうだろうか。
人はそのままに生きるだけでは成長できないのだろうか。


最近読んだ堀文子の言葉にこんなのがある。


〝優劣のつけ難いたくさんの価値を抱えた矛盾だらけの自分に逆らわず
 流れのままに生きていこうと決め、私は楽になった”


〝90の年を迎えた今
 逆らうことを忘れ
 成り行きのままに生きる安らぎの時が
 いつの間にか来たようだ”

                   「 ひとりで生きる 」より


成長したいとも思うし、魂を浄化したいとも思う。
それを日々心がけて生きねば、などと考えたりもする。

けれど、それ自体が
「自我」であり「エゴ」であり「煩悩」なのではないだろうか。
 

同じ本の中にこんな言葉もあった。

〝先を争って地に還っていく落ち葉の美しさはたとえようもない。
 傷一つないしあわせだったもの。
 患ったもの。
 虫に食われあなだらけのもの。
 神はどの葉にもへだてなく
 その生きた姿を褒め称え美しい装いを与えて終焉を飾ってくださるのだ”

〝自然は生きた日の恨みつらみを消し
 決して老残の醜さを見せない。
 死を迎えるときの、あの紅葉の華やぎは命の輪廻を讃える神の仕業だと思う。
 無心に生きるものには幸せも不幸もない。
 私もやっと、苦しみ傷ついたものの美しさに気付く時がきたようだ”



患ったり、傷つけたり
憎んだり、喜んだり
自分の中の矛盾さえ受け入れて
達観した老人でなくとも
流れのままに生きてもよいのではないだろうか。

ことさらに成長しようと頑張らなくても
目の前に訪れることを受け入れ、
なさねばならぬことを心を込めてこなしていけば
必ずその人なりの人生の目的へのステップが潜んでいるように思うのだ。
とりたてて意識しなくても
今日を生きるだけでも
何かを学び
成長すると思えるのだ。



あるがままに
来るがままに
焦らず
受け入れ
でも
自分はちゃんと導かれ守られていることを信じ
穏やかに
感謝に満ちて暮らそうと
今は思う。


今年私は57

死ぬにはまだ早いかもしれないし
「欲」を持たなくなるには早すぎるかもしれない。
それでも
ながれのままに
心穏やかに生きるというのも
また、一つの生き方だと思うのである。