幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

直観は素晴らしい!!

2013年03月29日 10時51分52秒 | 波動
 先週の午後
夫と共にある人と会う約束をしていた。

その人にとって私達は顧客の立場。
そんなに親しいわけではない。
でも、私達は彼女に好感を持っているし
彼女も好意的にしてくれる。


 私達が会うのは半年ぶり?くらいだろうか。

ふと、何かお土産を持って行ってあげよう、という気になった。

5歳のお嬢さんのある人だから
お嬢さんも喜ぶクッキーなどにしようか・・・・・
などとも思ったが
何だかそれでは面白くないような気がした。



私は夫に言った。


〝そうだ!!

あなたが後ろに一輪のバラを隠し持って行って
それを、突然に渡したらきっとびっくりするわよ 


で、
「えっ?!
 なぜですか?」

ってきっと聞くわね。
ふふ、
そうしたら

「春だから・・・」

くらいに答えておく?″



などと、いたずら心を弾ませながら
私たちは花屋に立ち寄った。


夫が渡す一輪のバラ
・・・とくれば
やはり真紅でしょう!!


が、なぜだか
しっかりとした一本の紅バラは
その時の私の気分に添わなかった。


なんか違うなぁ~~~


時間が迫っている。

店内をあちこち見まわした。

作り置きのミニブーケや
小さな鉢植えなども物色してみたが
いずれも気分じゃなかった。


困った、いいのが見つからない。
やめておこうか、
いや、でも、やはり、持って行ってあげたい。

なんかないかしら・・・・・

私は焦った。



と、店の外の
スーパーの入り口近くにも
その店のお花が置いてある事に気付いた。

急いでそちらへ駆けた。


あ、
可愛いベビーピンクのスプレーバラ!!

「これ、いい!

 これだわ!!」

瞬間的にそう思った。

すぐにそれを2本買い求めた。

大げさになると彼女が恐縮してしまう。
ほんのちょっとのお土産だから
二本位でちょうどいい。

それでも、スプレーバラだから
適度なボリュームにはなる。

軽くセロハンで包んでもらい
同じベビーピンクの幅広のリボンで蝶結びにして貰った。

うん、かわいい






 打ち合わせ場所で彼女は待機していた。

夫に花束を持たせ、その上からコートを二つ折りにしてかけた。

彼女に先に気付かれては面白くない。

彼女の
びっくりする顔がみたい。
突然手渡してこそ、なのだ。



 夫は彼女の正面に立ち
花束が見えないように気遣いながら挨拶を交わしている。

ふ、ふ、ふ・・・
たのしみぃ~~~~~~






「はい、どうぞ」

夫がコートの下から花束を取り出して奉げた。



うまく、いった!!
上手に渡せた。



やったぁ、彼女がびっくりしている!!



えっ~~~~!! どうしてですか?!」

どうしてですか?」

「どうしてですか?!」

「どうしてですか?」


はら、やっぱり聞いた・・・

に、しても、彼女の訪ね方にはエラク力が入っている。

彼女の勢いに圧倒されたのか
夫は応えられずにいる。

仕方がない、私が答えることにしよう。


「・・・なぜって、
 う~~~ん、春だし
 ちょっとした思いつきなの・・・」


それでも彼女は何だか興奮している。
そして、昂揚した面持ちで言った。


「じつは私、赤ちゃんができたんです
 まだ、会社にも言ってなくて・・・
 夫だけは知っているんですけれど。

 今日、是非、聞いていただこうと思っていたんです。
 他の誰よりも先に
 今日、お二人にお伝えしようと思っていたんです。

 だから、この花束、びっくりです!!

 どうして、知ってらっしやるのかしら、と思っちゃいました。
 
 めちやくちゃ、うれしいです!!」




あれぇ~~~~!!    


だから、ベビーピンクのスプレーバラだったのか・・・
真紅じゃない訳ね。



彼女をびっくりさせるつもりが
あまりのナイスタイミングにこっちがびっくりしてしまった。

ああ、だったら、
もっと大きな花束にすればよかった 



 それにしても、何気なく思ったことってすごい。
ステキな偶然だけれど、きっと偶然じゃない。




何気なく思ったことって大切だという、直観の法則を実感した出来事でした。


100円恵んでください

2013年03月27日 15時55分01秒 | ひとりごと
 夫の誕生日祝いにホテルでランチをした後の駅の切符自販機の前での話です。

 14階の見晴らしの良いレストランでランチして
ワインをグラス一杯頂いた私は
かすかな酔いの気持ちよさに浸りながら
切符売り場の前にいた。

 たまたま、運賃の「あること」で疑問がわいて
その売り場の前で財布を手にしたまま、しばらく夫と話し込んでいた。

つまり、さっと切符を買って、さっと急ぎ足でその場を立ち去る、
というような、急ぐ雰囲気ではなく
何となく、のんびり・・・いえ、要領悪く?見えていたかもしれない。



 その時、突然、私の右側に中年の男性が現れ

「100円恵んでください!!」

 と言って、手を出してきたのだ。

私はびっくりしてその人の顔を見た。
そして尋ねた。

「どうしてですか?」

 
 切符売り場でのことだから
小銭が100円足りなくて困ってらっしゃるのかしら…と思ったのだ。

でも、一万円札だって使える機械ではないか。


男性は応えた。

「ホームレスだからです」


!!・!!・!!

 私は一瞬言葉を失った。


・・・・・


「ホームレスはそういうことをしていいんですか?」

「はい・・・」


彼は臆することなく答えた。


次の瞬間
気付けば
私は100円を彼に渡していた。




 その短い時間の間に私の頭の中を
いろいろな思いが巡った。


ホームレスになってしまういろいろな理由。
自身のせいであったり
社会のひずみの犠牲であったり

そして
それに対する
我々の考え方、関与の仕方など、いろいろ、いろいろ。



 さらには「お金」というエネルギーのまわし方について。
エネルギーは全てがペイフォワードと考えてる私にとって
これはどう対処すべきことなのか。

今この人に100円を出すことと
時々、町内会の回覧で回ってくる募金に協力することはどれほど違うのか。
さらには
神社でお賽銭を出すことと何が違うのか。


どうすることが、一番お金が喜ぶことなのか。




 電車に乗って
座席に着いて
落ち着いた頃に夫が言った。

「あんな風に突然言われれば
 たいていの人が100円くらい渡しちゃうんだろうな」

「ちょうど、切符を買うためにお財布を出しているから
 渡しやすいんだよな」

「一人から百円でも10人に声をかければ1000円になるものな。
 ま、それだけあれば、一日しのげるし・・・」

「100円という額がみそだね。
 500円や1000円ではきっとみんな拒否するだろうから」



 夫の言葉を聞きながら私は考えた。


さっきの人は「ホームレス」と言われなければ
そんな風には見えないこぎれいな様だったような気がする。

よく、公園で見かけたような
日焼け風焼けしたような肌でもなければ
髪の毛だってこざっぱりしていた。

服装だって
明るいグレーのカットソーのようなもので
黙って立っていれば普通に生活している人に見えるだろう。

ただ一つ
彼が斜視だったことが印象的ではあったが
それがホームレスと何の関係があるというのだろう。



 ゴミ箱をあさったり
ゴミ置き場の空き缶を集めていたり
公園で頭を洗っていたりする人々を何度となく見てきたが
彼らはみんな一目で路上生活者であることが分かる風体だった。

そして、私はそんな人々を目にしたとき
気の毒になったり
申し訳なかったり、
どんな態度をとってよいのかわからなかったり
いつも気詰まりな思いをしてきた。



 が、先ほどの彼は
明らかにその人々とは違っていた。

本当にホームレスなのか、
ホームレスになったばかりなのか、
もしかしたら「ホームレス」という言葉を利用しているだけなのかもしれない。



・・・が、結局
私にとってそれはどうでもよいことなのだと思った。



問題は
この件が
私にとってどういう意味を持っていたのかということだ。

なぜ私はあのタイミングで彼に遭遇したのか。

私の取った行動はあれでよかったのか。




 この話をすると

「それは彼のためにならない」

「そういう行為を容認するのは良くない」

 と、意見を下さる方もいらっしゃるのだが
私が考えたいのはそういうことではない。

「ホームレス」が嘘であってもそれは私の問題ではないのだ。


彼の行為が彼にとって良くないことであったとしても
彼の今後の面倒も見れない以上、意見をすることなどできないと思うから。



 そう、いいとか悪いとか、そういうことではなく

「この世は鏡写し、自分のしたこと、考えていることが目の前に現れる」

 という原理から考えて、
彼はいったい私の何を見せてくれたのだろう、
私に何を気付かせようとしてくれているのだろう、
ということなのだ。


私は最近、だれかに何かをたかっのだろうか。



・・・あれこれ考えてふと思った。



近頃の私は
お金も幸せも必ず「ペイフォワード」なのだと皆に話している。
そして、自分でも
どんどん豊かになって
どんどん社会貢献し
どんどん寄付していきたいと考えている。


年収が増えたら
多額の寄付をする先をもう三件は決めている。

そして、それができる日を楽しみにしている。


だとすれば、
訳も分からず知らない人に100円を出す、
というのもペイフォワードの一つではないか。

「そんなに寄付したいなら,させてあげるよ」

 と、神様がそのチャンスを下さったのかもしれない。


 あるいは、夫とランチをさせてもらったという幸せのおすそ分けを
少しは他人にもしなさいよ、という意味で
その機会が頂けたのかもしれない。



あ~~~~~あ、だとすれば
今の私は100円しか寄付できない立場、ということなのか。
今日の私の幸せのおすそ分けはたった100円ということ?!


 それはちょっぴり悲しすぎるでしょう!!
だったら、せめて、1000円貰ってもらえばよかった!!



・・・と、悔やんでも後の祭りだった。
時間は元に戻らない。


 思いもしないとっさの出来事に
私はなんだか
自分の器の小ささを見せつけられた思いがしたのであった。










みいちゃん、ごめんね、そしてありがとうございます

2013年03月22日 11時39分55秒 | ひとりごと
「いのちをいただく」  西日本新聞社

 この絵本をご存知ですか?
ご存知ない方のためにここにご紹介しようと思います。



 ある日の夕方、牛を乗せた軽トラックがセンターにやってきた。
しかし、いつまで経っても荷台から牛が降りてこない。
坂本さんは不思議に思って覗いてみると
10歳くらいの女の子が、牛のお腹をさすりながら何か話しかけている。
その声が聞こえてきた。

「みいちゃん、ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ・・・」
 
 坂本さんは思った、「見なきゃよかった」


 女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げた。

「みいちゃんはこの子と一緒に育てました。
 だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。
 ばってん、みちゃんば売らんと、お正月がこんとです。
 明日はよろしくお願いいたします・・・」



「もうできん。この仕事はやめよう」と思った坂本さん、明日の仕事をやすむことにした。

 家に帰ってから、そのことを小学生の息子のしのぶ君に話した。
しのぶ君はじっと聞いていた。
 
 一緒にお風呂に入ったとき、しのぶ君は父親に言った。
「やっぱりお父さんがしてやってよ。
 心の無か人がしたら牛が苦しむけん」

 しかし坂本さんは休むと決めていた。
 翌日、学校に行く前に、しのぶ君はもう一度言った。

「お父さん、今日は行かなんよ!(行かないといけないよ)」


 坂本さんの心が揺れた。
そして、しぶしぶ仕事場へと車を走らせた。

 牛舎に入った。
坂本さんを見ると、他の牛と同じようにみいちやんも角を下げて威嚇するポーズをとった。

「みいちゃん、ごめんよう。
 みいちゃんが肉にならんとみんなが困るけん。
 ごめんよう」

と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすり付けてきた。



 殺すとき、動いて急所をはずすと牛は苦しむ。
坂本さんが「じっとしとけよ、じっとしとけよ」と言うと、みいちゃんは動かなくなった。
次の瞬間、みいちゃんの目から大きな涙がこぼれ落ちた。
牛の涙を坂本さんは初めて見た。
                  (「いのちをいただく」 西日本新聞社 刊より)





 この本の出版に貢献した助産婦の内田さんという方が絵本のあとがきにこう記している。


「私たちは奪われた命の意味も考えず、毎日肉を食べています。
 自分で直接手を汚すこともなく、
 坂本さんのような方々の悲しみも苦しみも知らず、肉を食べています。
 『いただきます』『ごちそうさま』も言わずにご飯を食べることは私たちには許されないことです。
 食べ残すなんてもってのほかです・・・」





 私は、ここまで書くのに号泣している。
鼻水たらたら、キーがにじんで押せなくて困った。

 私はお肉は好きだけれど、プチベジタリアン。
なぜなら、動物の命で自分の命をつなぐことが
私にはがつらすぎるから。


 でも、自分で購入したり、注文したりしないだけのこと。
もし、誰かが私のために用意してしまったものなら
有難く残さずにいただく。

だから、「プチ」の付くベジタリアン。



 みいちゃん、ごめんね。
そして、ありがとうございます。

みいちゃんと同じように
たくさんのたくさんの生きものさんたち。
今日まで
私を育んで下さってありがとうございます。

私はあなたたちの命を頂いて今日を生きています。

ごめんなさい。ごめんなさい。
そして、ありがとう。
本当に
ほんとうに
ありがとうございます。










優しさの色

2013年03月20日 06時48分40秒 | ひとりごと
 先々回
色と季節と心持の話をした。

その回にコメントをいただいて考えた。


私は「哀しみを知っている優しさ」のある色が好きなのだと。

ただ、明るいだけではなく
明るくなる以前に
哀しみを体験している色が好きなのだと。


そうした色は人に添うことができる。

心の奥の哀しみをそっと包みながら
優しく暖めてくれる。


そんなふうに思うのだ。



じゃあ、それってたとえばどんな色?!


と、詰め寄られると困ってしまうのだが
そこはホラ、
人それぞれなのだから
自分の感性に聞いてみてほしいな。




私の場合
例えば「すみれいろ」
藤色に近い菫色
でも、藤色より暖かい。

藤色が40代の女性なら
菫色は80代の愛くるしいおばあちゃんかな・・・?

・・・みたいに
かすかな色の違いを
わが心で感じとり
自分の心に添わせてみたいと思うのだ。


それが人によって違ってよいのだもの。




同じ紫でも
花紫は御祝い事の袱紗の色だし
古代紫なら慶弔両用

昔の人の感性って凄い。




コメントを下さった方はおっしゃった。

「今年は明るい色を着てみようと思う。

 でも、そうはいっても
 結局
 ブルーとか紫なのだろうけれど」

と。



ブルーだって
紫だって構わない。

でもできれば
今の彼女の心持に添い
その心を受け止めながら
優しく包んでくれる
ブルーや紫を探してほしいと願わずにはいられない。




哀しみを知る優しさの菫かな




ちなみに
スペインでは黒は「恋」の色。

彼らにとって黒は大切な特別な色。


黒にもいろいろあるのだから
哀しみの黒と
情熱の黒との違いに気付き
自分を引き上げてくれる黒を身につければ問題ないのだろう。




悲喜こもごも

2013年03月20日 06時15分28秒 | 暮らし
陽は黙っていても春 前へ




軽く明るく生きようと決めてまだ日は浅い。


生前から、ずっと深い穴の中に閉じこもり
過去のことで悲嘆にくれ
「孤独と悲しみ」をずっとレポートし続けている。

と、奇妙なことを言われ

でも、もう充分!!
そのお役目は天に返しましょう!
いまから、切ってあげますね。

ハイ!!切りました。


・・・と、マークが山ほど出まくったセッションを受けてから
私は本当に楽になった。



幼いころから
家族といても
恋人といても
果ては自分の子供ができても
わけもなく淋しく悲しく
重くて、どこか晴れ上がらない自分の心を持て余していた。



が、不思議なことに
そのセッション以来
わたしの心は必要以上に孤独を感じなくなったのだ。


あの人が、本当に「切る、返す」という行為を成し遂げてくださったゆえなのか、
それとも
私の潜在意識への働きかけにすぎなかったのか、
どちらにしても
私はその日から徐々に変わってきたのだ。




そうして、今では
人様にも
軽く、明るく、楽しく生きる術を説いて回っている。


が、
軽く、明るく、楽しく生きることが絶対いいとも言い切れない。

人は
哀しみや苦しみ
憎しみや孤独を知っていてこそ
優しく優しくなれる、と思うから。


それらを知っていてこそ
その真っ最中にいる人に
心を添わせることができると思うから。


人を愛するために
優しくなるために
いろいろなことを
体感できるのが
この世なんだと思うもの。



私は40年間
そのために生きてきたような気がする。
そして
もう十分だよという時期に
あの人に出会わせてもらい
生き方の方向転換をさせてもらったのだと思う。



今は、
あまり悩まない。

悩まないと決めてからは
大きな問題も訪れなくなった。

いえ、訪れているのかもしれないが
それを
「とても大変なこと」と認識しない思考回路になった、
というべきだろうか。



どうせ、すべては変化するのだし
何より
全て「体験」にしか過ぎない。

そう考えるようになって
私は生きることが面白くなったのだ。





去年作った句にこんなのがあった。


 五月晴れ この世はバーチャル さあ変わろう!!





この世は全てバーチャル
私はヒロイン、というキャストにすぎない。