幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

アメブロにお引越し・本日最終です・ありがとうございました。

2022年09月30日 18時34分29秒 | ひとりごと
 2022・9・24 

台風が過ぎて、空がきれいです。

そんなことを言っていられるのは、我が街に、そして私自身に、
とりわけ被害がなかったからだなぁ、と有難く思います。

もし何かあったら、こんな呑気なことは言っていられません。


私にも過去にはつらいこと、悲しいことがいっぱいありました。

過ぎてしまえばみな思い出・・・なんて、とても言えないこともいくつかあります。

人生で一番つらかった事件が起き、
一睡もできなかった翌朝、
空はとても青く、美しく、
太陽はさんさんと輝いていました。

「私がこんなに苦しいのに、
 死んだほうがましだと思うくらい辛いのに、
 それでも、空はこんなに青くて美しいんだ・・・
 ちっぽけな私の悲しみなんか、何の関係もないんだ」

って、とてもむなしく、余計に悲しみが増したのを覚えています。
だから、
感動と同時に、その時の感情を蘇らせてしまう青くて美しい空は、
いまだにちょっとしんどかったりするのです。




でも、いつのころからか、

「やまない嵐はない」

「雨雲の上にはいつだって青空がある」

を、心に置くようになってからは、
どんなにつらいときも、この向こうには青空があるんだから大丈夫!!

と、自分を励ませるようになりました。


空が大好きです。

雨の日も、晴れの日も、曇りの日も、雪空も
みんなみんな大好きです。
私の毎日も、雨のち大雪・・・の時もあれば
雲一つない晴天、の日もあります。

それでいいんだと思います。
だから人生面白いんだとも思います。

今日も私は空を見上げます。




お知らせ

つたないブログをお読みくださりありがとうございました。
このサイトは本日をもって終了させていただきます。
アメブロ「こころ、からだ整うエッセンス」



にお引越しいたしました。

よろしければ、そちらへアクセスくださいませ。
お待ちしております。

八坂弥栄   感謝です 





今が一番若い時

2022年09月28日 14時37分37秒 | ひとりごと


昨日、50歳になったばかりの友人に

「50歳は若いわよ!!
 50歳だった時、もうおばさんだわ、って、なんだかあきらごこちだったけれど、
 今、この年になってみると、50歳って若かったんだな、
 ってつくづく思うわ。
 シルバーというくくりも受けないし、
 パラグライダーの体験教室だって入れてもらえるもの。

 だから、楽しんでね。
 けっして、もう50だわ、なんて思っちゃだめよ!!」

なぁんて、のたまっていた私・・・

今朝、見つけてしまったこの一文に

「何言ってるの!!
 自分こそ、今の自分のとらえ方をかえなさい!!」

と、叱られた気がします。

確かに、未来から振り返れば、今日は一番若い!!  

 台風のあと 2022・9・24 8;36


ちょっと残念な〝癒しの森の宿〟たち 長野県信濃町

2022年09月19日 10時14分37秒 | ひとりごと
長野県信濃町 
野尻湖と信濃五山の恵みを受ける美しい町。 

 

古くはナウマン象も住んでいたといわれる地。  



ここはC.W.ニコル氏が住み、その森の再生に尽くしたという有名な黒姫山をも有している。

 


早くから森林の癒し効果に気づき、
世界初で〝森林セラピー〟なるものを提唱してきたようだ。



企業研修だったり、個人グループだったり、
今までたくさんの人たちがその恩恵を受けてきたらしい。

いいな、って思う。
素晴らしいことだと思う。

以前から、そのたぐいのことに興味があり、
リトリートとして、森の木々や草花の力を借り、
水や風、太陽と月、動物たちのさまざまな生きざまに気づきと癒しをもらう、
そんな場所と時間を提供したいと考えてきた。

ゆえに、今期の〝「森林メディカルトレーナー」及び「癒しの森の宿」資格認定講座 〟を受講することを決めた。
自身の年齢を考えれば、きっと町が切望している年代ではないのだろうな、と
申しわけなさも覚えながらの申し込みだった。

ところが、
ひとりで愛知県から受講しようとする私に大きな問題が生じてしまったのだ。

なんと!!
泊めてもらえるお宿がない。

理由は、私の心身が反応してしまう「香害」問題だ。



癒しの森のコンセプトとして↑のような記述があるにもかかわらず、
「香害」を意識して、取り組んでいるお宿がなく、
どこも私を受け入れられないというではないか。

しかもホームページをの覗けば、みな「おひとりさまはお受けしておりません」とある。


心底「癒し」を求める人が複数で行動するのだろうか。

心身ともに疲れ果てて、〝癒されたい〟と願う人にとって、
本当に必要なのは何なのだろうか。

さらには、
癒してもらおうとする森林に負荷をかけない暮らしを意識するとはどういうことなのだろうか。

信濃町の「癒しの森」のプロジェクトの目的はいったい何にあるのだろうか。

・・・などなど、疑問が沸々と湧いてくる。

これはあくまでも、私の物差し。
あくまでも私の考えに過ぎないことは承知している。
ニュートラルではないのかもしれない。

それでも、県外から、一人で、
安全で心地よいお宿に滞在しながら受講したいという私の思いが実現しないかもしれないという現状は事実で、
ならば、心身ともに癒しを必要とする人が、
信濃町でまことに癒されることは不可能だ、ということもまた事実なのではないだろうか。


宿主側がお客に合わせ、疲弊しながらも生活のために頑張る、という時代ではないのは知っている。
働く側が、自分が生き生きとできるような働き方を主張すればよいとも思っている。

が、本当に必要な人にその場を与えることのできない「癒しの森の宿」ってなんなの?
とも感じてしまうのは、私個人のわがままなのだろうか。



月のもり 辰野町川島

2022年09月19日 09時09分37秒 | ひとりごと


伊那谷、長野県辰野町川島地区の奥の奥の限界集落にそのお宿はありました。

偶然にも〝 信州・マクロビ・農家民宿 〟でヒットして、
彼女の話す動画を見ていたら、
「何が何でも行かなくちゃ」
と俄然思ってしまって、
予約してあった安曇野のペンションをキャンセルしてまで訪れたお宿です。

オーナーご自身が〝電磁波過敏症〟であり〝化学物質過敏症〟でもあるので、
食事は当然無農薬低農薬、しかも自家栽培がほとんどで、お水もお山の水を引いてらっしゃいます。

普通に合成洗剤を使っていたり、
抗生物質漬けだったり輸入農薬まみれの飼料を食べさせたりなのに〇〇牛や豚、信州サーモンとかの
知名度と高級さの食事を売りにするお宿がお好きな人には
「注文の多い農家民泊」になってしまって鬱陶しいかもしれません。
化学物質の臭いをさせているとオーナーが倒れてしまいますしね。
でも、
ビオホテルの称号こそとってはいませんが、それ以上の安全性、心地よさのあるお宿です。


スマホの電源は切ったままなので宿の中やお料理の写真は撮らずじまい。
ですからH.p.から拝借しています。


本当に静かでした。  
ノイズが一切ありません。
風、せせらぎ、小鳥たち、そういう自然が育むものたちの命を表す音があるばかり。

たまにオーナーが食事を準備する音が聞こえてはきますが、
それがまた、心優しい癒される音なのです。
人の発てる音にさえ、波動はあるのだということを改めて実感します。

釜炊きごはん、自家製味噌の味噌汁、そして無農薬自家栽培のお野菜たち。

 

どれを頂いても、あまりにも優しく、あまりにもおいしく、涙があふれてしまいます。
「癒される」とはこういうことを言うのですね。



                             

これらはみな、彼女の一年間の汗と努力と愛の結晶です。



機械を使わず、いまだに手作業でのお米作り。
手で刈り、稲架で天日干し。
有難いお米です。

しかもこの夜は地元の初マツタケで松茸ご飯!!

「このお天候で、香りも味もまだ全然ですけど」

とおっしゃりながら、これでもかというくらいに松茸がたっぷり入ったお吸い物を出してくださって、
こんなにたくさんの松茸を頂いたのは人生初めてでした。

幸せ~~~なお夕食でした。


でも、それ以上に素晴らしいのは彼女自身です。

彼女のパワー、彼女の生きざま、彼女の性格、
移住者なのに村の総代まで依頼されてしまうちょっとしたとっても信頼される地元有名人です。
ま、後で知れば結構いろんな雑誌でも取り上げられている本当の〝有名人〟のようですが。


おりしも、その夜は満月。
真夜中に煌々と輝くテラスにでれば、
それこそ獣も草木もそして目には見えぬ者たちさえも
皆、この光に浄化されているのだろうなあ、と思える「気」に満ちていました。


長野県辰野町 農家ゲストハウス「月のもり」

こういうお宿をもっと増やしたいと強く思います。

曼殊沙華を詠んで思う

2022年09月16日 12時40分15秒 | ひとりごと
 2022・9・16 

いつのまにやら、彼岸花真っ盛り。
先日まで、長野にいた私は岡崎に戻ってちょっとビックリでした。

私という存在の有無にかかわらず、季節は確実にめぐっているのですね。  

 ほんと、きれいです。



曼殊沙華あっけらかんと道の端
 
 夏目漱石

こんなふうにそれこそ〝あっけらかん〟と曼殊沙華を眺められるっていいな、って思います。

漱石はあっけらかんと曼殊沙華(笑い)


私の中でこの花はどうしても「陰」な感じだったり、情念を燃やすイメージだったりします。
山頭火の

いつまで生きる 曼殊沙華咲きだした


や、黒田杏子の

ひとり往けひとり悲しめ曼殊沙華

が強くて印象に残っていて、ちょっとハードな花なのです。
挙句の果てには山口百恵の「曼殊沙華」という歌が好きだったものですから、
どうしても激しい恋、叶わぬ恋の女心に結びついてしまいます。

いまさらながらに教え込み、思い込み、というものの怖さを感じます。
若いころに知った詩歌が、もっと明るくて軽いものだったなら、
私の中の曼殊沙華はもっと楽しい花になっていたでしょうにね。



夫婦の虚実 並んで歩けど曼殊沙華

長旅や戻ればすでに彼岸花

異郷の地ひとりで眺める曼殊沙華

葉みず花みずまたもふたりはすれ違う



作れども作れどもわが俳句軽くならざり じっと内を観る・・・になっちゃいます💦💦💦

幼いころに見聞きしたもの、感じたことに私たちは大人になっても影響を受け続けます。
でもそれがしんどいならば、いつでも転換してしまえばよいだけのこと。


重たい過去の記憶やくくりを

「や~~~~めた!!
 もういらな~~~い!!!」

と遠くに投げ捨ててしまえばよいのです。

それをするかしないか、この瞬間の自分の気持ちと決断次第なんですねぇ~

というわけで、私の中の曼殊沙華のイメージを転換して、しあわせに明るく読んでみましょうか。

曼殊沙華この赤きれいと孫の言う

かたぐるま親子三人曼殊沙華


今年またいつの間にやら曼殊沙華

彼岸にはまだちと早かろう紅き花

曼殊沙華ベタでも似合うぞ黒揚羽

笑いあう若きふたりよ曼殊沙華

・・・駄作ばかりではありますが、イメージは転換できたでしょうか。

曼殊沙華、彼岸花、葉見ず花見ず、
色々な名前はあるけれど、この時期だけのいさぎよい花であることには変わり在りません。

「生きている」それこそ意義なり曼殊沙華 みこたま