父の病室から「週間ポスト」なるものを持ち帰った。
このての雑誌を読んだ事はなかった、が
「東日本大震災」というみだしの言葉に引かれ
なにげなく開いてみた。
そのなかに
「 瀬戸内寂聴 卒寿の誌上説法
忘己利他 誰かのために祈る 」
があった。
その説法の中で彼女は言う。
「被災しなかった私たちにはいったい
今、なにができるのでしょう。
私はこの場所で
自分が被災していないことに、申し訳ないような気持ちを抱いています。
何だか、すまないし、恥ずかしいような気持ちが
どうしても湧いてきてしまうのです。」
・・・まさにこれなのだ。
わたしは、石巻に行き
被災者に直接、接し
言葉には出来ない複雑さのなかに放り込まれている。
自分が無事である事を
ただ、「ありがたい」と感謝できない
とても、重い何かといつも一緒にいる気がしてならない。
石巻で親しくなった被災者たち。
悲しくて、苦しくて、絶望的で・・・
だのに、私に感謝してくれて、
私を抱きしめてくれて、
「頑張るから、負けないから・・・」
と笑顔で送ってくれた人たち。
私には返るところがあり
帰ればもとの生活が出来る。
けれど、彼らにはそれがない。
帰るところも、元の生活も
何一つ残されてはいない。
あるのは、将来への不安と
現実の悲惨さ。
申し訳なくて、すまなくて、
「被災していなくてごめんなさい。
結局は他人事で、ごめんなさい」
そう思わずにはいられないのだ。
だからといって、自分の全部を彼らのために投げ出す事もしない。
だのに、彼らのことが
脳裏から離れない。
毎日毎朝、
「ごめんなさい」を繰り返している。
寂聴さんは続けて説く。
「私たちは自分のできることを考えるしかないんです。
三度三度のご飯を食べる事ができ、
ちゃんとお風呂にも入って、
暖かいお布団で寝る。
それがどれほど有難く、もったいないことであったか。
当たり前の便利さが、どれほど危ういものであったかを感じるだけでも違うと思うんですよ。
考えて、何も出来なくたって、
ほんの僅かな義援金なら出すことができるじゃないですか。
例えば、早く寝て電気を消そうとすることもできるじゃないですか。
日々の生活を振り返ってみれば、
私たちはたくさんの無駄をしてきているでしょう。
食べ物だって、いっぱいいっぱい残しているし、捨てている。
そんなことを一つ一つ、これやめよう、これは贅沢のしすぎだと
思うだけでも違う。
そうやって、これまでの生き方を見直すんですよ」
・・・たしかに、それしかない。
自分の生活を、捨てきる事のできない私には
少しばかりの寄付をするか、
贅沢をつつしみ、感謝の心をより強くするしかない。
それでも、それでも、
被災地で目にした人々を思うと
そんな事ぐらいで済ませてよいのだろうかという気持ちはぬぐえない。
彼女はさらに説く。
「被災地で暮らす方々は、その日を生きるのに精一杯で、
今夜の寒さをどうするか
明日の食事をどうしようかと
気持ちを高めて一日を乗り切っているのが現状である事と思います。
心の痛みについて考えたり、感じたりしている時間はないことでしょう。
けれども、しばらくたつと、悲しみや沈んだ気持ちなどがどっとやってくるわけです。
気持ちも欝になるでしょう。
そのとき私たちは、被災者のことを決して忘れずに、誰か一人でもいい、
被災地に暮らしているお友達でもいい、
話し相手になったり、ずっと付き合ったりしていく気持ちでいるべきです。
人生にとって一番大事なのは目に見えないものですよ。
心は目に見えないし
神も仏も目に見えません。
だけど、その目に見えないものが
人生を本当に左右させているんです。
----- 略 -----
だからこそ、いま最も疎かにしてならないのは心です。
祈りです。
そして知識ではなく
人にやさしく振舞い
困っている人たちを助けようとする知恵です。
あらゆるものが消えてしまっても
体が残れば必ず心は残る。
心さえ失わなければ
人は何とかやっていける。
私たちはその心を大事にしていかなければなりません。
自分のためではなく
誰かのために祈る心。
自分以外の人のための祈りは、いつか報われる時が来るからです」
被災地で、何のお役にも立てなかった私だけれど
ある婦人から
「昨日はありがとう。
おかげで、気持ちが軽くなりました」
と言っていただいた。
そして、数人の大切な知り合いができた。
彼らを思えば
涙があふれ
おのずと祈らずにはいられない。
けれど
そんな祈りが
何になるというのかと、
虚しくもなっていた。
でも、寂聴さんの
「誰か一人でもいい。」
を信じよう。
「いま最も疎かにしてならないのは心です。
祈りです。」
「自分のためではなく、誰かのために祈る心。
自分以外の人のために祈る心は
いつか報われる時が来るからです」
を信じよう。
そうして、祈ろう。
彼らの幸せが一日も早く戻る事を。
頑張らなくたっていい。
泣きたい時は泣けばいい。
でも、
あきらめないで。
くじけないで。
ふんばって、ふんばって。
いつか、必ず、晴れるから。
・・・そんな思いを精一杯こめて
毎朝、毎夕、
いえ、事あるごとに
彼ら一人ひとりの顔を思い浮かべながら祈ろう。
祈りは波動なのだから、
その波動は必ず繋がるのだから、
祈ろう。
心をこめて祈ろう。
被災した大勢の人のために。
亡くなったたくさんの方々のために。
心をこめて、心をこめて。
このての雑誌を読んだ事はなかった、が
「東日本大震災」というみだしの言葉に引かれ
なにげなく開いてみた。
そのなかに
「 瀬戸内寂聴 卒寿の誌上説法
忘己利他 誰かのために祈る 」
があった。
その説法の中で彼女は言う。
「被災しなかった私たちにはいったい
今、なにができるのでしょう。
私はこの場所で
自分が被災していないことに、申し訳ないような気持ちを抱いています。
何だか、すまないし、恥ずかしいような気持ちが
どうしても湧いてきてしまうのです。」
・・・まさにこれなのだ。
わたしは、石巻に行き
被災者に直接、接し
言葉には出来ない複雑さのなかに放り込まれている。
自分が無事である事を
ただ、「ありがたい」と感謝できない
とても、重い何かといつも一緒にいる気がしてならない。
石巻で親しくなった被災者たち。
悲しくて、苦しくて、絶望的で・・・
だのに、私に感謝してくれて、
私を抱きしめてくれて、
「頑張るから、負けないから・・・」
と笑顔で送ってくれた人たち。
私には返るところがあり
帰ればもとの生活が出来る。
けれど、彼らにはそれがない。
帰るところも、元の生活も
何一つ残されてはいない。
あるのは、将来への不安と
現実の悲惨さ。
申し訳なくて、すまなくて、
「被災していなくてごめんなさい。
結局は他人事で、ごめんなさい」
そう思わずにはいられないのだ。
だからといって、自分の全部を彼らのために投げ出す事もしない。
だのに、彼らのことが
脳裏から離れない。
毎日毎朝、
「ごめんなさい」を繰り返している。
寂聴さんは続けて説く。
「私たちは自分のできることを考えるしかないんです。
三度三度のご飯を食べる事ができ、
ちゃんとお風呂にも入って、
暖かいお布団で寝る。
それがどれほど有難く、もったいないことであったか。
当たり前の便利さが、どれほど危ういものであったかを感じるだけでも違うと思うんですよ。
考えて、何も出来なくたって、
ほんの僅かな義援金なら出すことができるじゃないですか。
例えば、早く寝て電気を消そうとすることもできるじゃないですか。
日々の生活を振り返ってみれば、
私たちはたくさんの無駄をしてきているでしょう。
食べ物だって、いっぱいいっぱい残しているし、捨てている。
そんなことを一つ一つ、これやめよう、これは贅沢のしすぎだと
思うだけでも違う。
そうやって、これまでの生き方を見直すんですよ」
・・・たしかに、それしかない。
自分の生活を、捨てきる事のできない私には
少しばかりの寄付をするか、
贅沢をつつしみ、感謝の心をより強くするしかない。
それでも、それでも、
被災地で目にした人々を思うと
そんな事ぐらいで済ませてよいのだろうかという気持ちはぬぐえない。
彼女はさらに説く。
「被災地で暮らす方々は、その日を生きるのに精一杯で、
今夜の寒さをどうするか
明日の食事をどうしようかと
気持ちを高めて一日を乗り切っているのが現状である事と思います。
心の痛みについて考えたり、感じたりしている時間はないことでしょう。
けれども、しばらくたつと、悲しみや沈んだ気持ちなどがどっとやってくるわけです。
気持ちも欝になるでしょう。
そのとき私たちは、被災者のことを決して忘れずに、誰か一人でもいい、
被災地に暮らしているお友達でもいい、
話し相手になったり、ずっと付き合ったりしていく気持ちでいるべきです。
人生にとって一番大事なのは目に見えないものですよ。
心は目に見えないし
神も仏も目に見えません。
だけど、その目に見えないものが
人生を本当に左右させているんです。
----- 略 -----
だからこそ、いま最も疎かにしてならないのは心です。
祈りです。
そして知識ではなく
人にやさしく振舞い
困っている人たちを助けようとする知恵です。
あらゆるものが消えてしまっても
体が残れば必ず心は残る。
心さえ失わなければ
人は何とかやっていける。
私たちはその心を大事にしていかなければなりません。
自分のためではなく
誰かのために祈る心。
自分以外の人のための祈りは、いつか報われる時が来るからです」
被災地で、何のお役にも立てなかった私だけれど
ある婦人から
「昨日はありがとう。
おかげで、気持ちが軽くなりました」
と言っていただいた。
そして、数人の大切な知り合いができた。
彼らを思えば
涙があふれ
おのずと祈らずにはいられない。
けれど
そんな祈りが
何になるというのかと、
虚しくもなっていた。
でも、寂聴さんの
「誰か一人でもいい。」
を信じよう。
「いま最も疎かにしてならないのは心です。
祈りです。」
「自分のためではなく、誰かのために祈る心。
自分以外の人のために祈る心は
いつか報われる時が来るからです」
を信じよう。
そうして、祈ろう。
彼らの幸せが一日も早く戻る事を。
頑張らなくたっていい。
泣きたい時は泣けばいい。
でも、
あきらめないで。
くじけないで。
ふんばって、ふんばって。
いつか、必ず、晴れるから。
・・・そんな思いを精一杯こめて
毎朝、毎夕、
いえ、事あるごとに
彼ら一人ひとりの顔を思い浮かべながら祈ろう。
祈りは波動なのだから、
その波動は必ず繋がるのだから、
祈ろう。
心をこめて祈ろう。
被災した大勢の人のために。
亡くなったたくさんの方々のために。
心をこめて、心をこめて。