幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

禅語 3種

2011年06月02日 22時23分40秒 | ひとりごと
 
私の信念の禅語の一つは

「一去一来」

 一つが去ればひとつ来る

である。

12月のクリスマスのしつらえからお正月のしつらえに変えるあわいの床の間に
いつもこの言葉をかけている。



去年流行った「断捨離」の中にも、この原理は働いていると思う。



たとえば、素敵な本棚が欲しければ今あるものを思い切って捨ててしまう。
そうすると、新しいものを受け取るエネルギースペースができて
本当に、望んだような本棚が手に入る、という仕組みである。


これは人間関係や仕事の上でも同じことが言える。

今の恋人がいては新しい恋人は受け入れにくいでしょ???


だから、私はこれをあえて、こう言い変えている。

一つを失った時こそ、新しい何かが手に入るのだ

と。



こんな風に考えていれば
物も、お金も、仕事も、人間関係も
手放すことが怖くなくなる。


いえ、むしろ、
積極的に何かを手放して
今の自分の状態を変化させることができる。



ところが最近、
これよりももっと意識する言葉がある。

「万事如意」

すべてが、与えられたことであり
それは、己の魂が行くべき道へのプログラムなのだから
おろおろしたり、悩んだりせず
何があっても安心して受け止めなさい

ということだと勝手に解釈し
この言葉の通り
泰然自若としていたい、と思っている。


よくも悪くも
それは短いこの世でのこと。

人は必ず死ぬのだし
そうであるならば、どんなこともいつかは終わるのである。

喜怒哀楽をしっかり体感し、味わうことこそ、この世の醍醐味ではあるが
だからといって
あまりにもそれに盲目的になってしまうと
己を見失い、深みにはまってしまいかねない。

だから、そのことを体験している自分を静観できる自分をも育てなければならない。

喜々とし
鬱々とし
涙にくれながらも
心のどこかで
「だいじょうぶ!!すべてはうまくいっている」
と自分に言える自分でありたいと思っている。


そして
そのために
いつも意識したいのが

「放下着」

である。


苦しいのも、腹が立つのも、心配なのも
すべては「執着」を持つからだ。

たとえば、子供のことを心配することすら
自分の子供には幸せになってほしい、
自分の子供だけには苦労させたくない
少しでも良い生活ができるように
より幸せになってくれるように
と望む、親の「執着」ではないだろうか。


他人の子供のことなら
「それもいいんじゃない?!」
と思えることすら、
いざ自分の子供となると反対したくなる、などとはよくあることだが
これは「わが子」だからこその「執着」であろう。



たとえわが子が窮地に陥ったとしても
それも「万事如意」であるとするならば
「必要な流れ」なのだから、と
泰然自若としていればよいだけのこと。


わが子が何かを失ったとしても
必ず、それに見合うだけのものは得るはずなのだから。




大丈夫!!

万事如意


たとえ失敗して
何かを失ったとしても
それは

一去一来

に過ぎない。

去る物に執着せず
新しく来てくれる物を受け入れるアンテナを張ってさえいれば
必ず次につながるのだ。


万事如意


喜怒哀楽
すべてを味わいながら

放下着

の心で静観しましょう。

そうすれば
わたしたちはいつも
穏やかな心持で
安心していられるのです。

万事如意

何がどうなろうとそれでよい。


必ず
自分にとって
あるいはわが子にとって
良いほうに動くと信じ、安心していれば
その安心と信頼こそが
「幸せ」と「幸運」を招くのです。


あ、
もちろん
みんなを愛し
感謝することを忘れてはなりませんよ。





それから万全はきしてくださいね。


だって
人事を尽くしてこそ佳い天命がおりるというものでしょうから。


ただし

「~なるといけないから○○する」

のではなく

「~なるために○○しよう」

という考えかたで、ね 



言葉は人の思想を作ります。



あなたの本当の幸せと日々の平安のために
この三つの禅語を
是非とも
あなたの心の辞書にお入れくださいませな。


今日も
お尋ねくださり
ありがとうございました。


あなたが幸せであられますように。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿