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いつのまにやら、彼岸花真っ盛り。
先日まで、長野にいた私は岡崎に戻ってちょっとビックリでした。
私という存在の有無にかかわらず、季節は確実にめぐっているのですね。
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曼殊沙華あっけらかんと道の端 夏目漱石
こんなふうにそれこそ〝あっけらかん〟と曼殊沙華を眺められるっていいな、って思います。
漱石はあっけらかんと曼殊沙華(笑い)
私の中でこの花はどうしても「陰」な感じだったり、情念を燃やすイメージだったりします。
山頭火の
いつまで生きる 曼殊沙華咲きだした
や、黒田杏子の
ひとり往けひとり悲しめ曼殊沙華
が強くて印象に残っていて、ちょっとハードな花なのです。
挙句の果てには山口百恵の「曼殊沙華」という歌が好きだったものですから、
どうしても激しい恋、叶わぬ恋の女心に結びついてしまいます。
いまさらながらに教え込み、思い込み、というものの怖さを感じます。
若いころに知った詩歌が、もっと明るくて軽いものだったなら、
私の中の曼殊沙華はもっと楽しい花になっていたでしょうにね。
夫婦の虚実 並んで歩けど曼殊沙華
長旅や戻ればすでに彼岸花
異郷の地ひとりで眺める曼殊沙華
葉みず花みずまたもふたりはすれ違う
作れども作れどもわが俳句軽くならざり じっと内を観る・・・になっちゃいます💦💦💦
幼いころに見聞きしたもの、感じたことに私たちは大人になっても影響を受け続けます。
でもそれがしんどいならば、いつでも転換してしまえばよいだけのこと。
重たい過去の記憶やくくりを
「や~~~~めた!!
もういらな~~~い!!!」
と遠くに投げ捨ててしまえばよいのです。
それをするかしないか、この瞬間の自分の気持ちと決断次第なんですねぇ~
というわけで、私の中の曼殊沙華のイメージを転換して、しあわせに明るく読んでみましょうか。
曼殊沙華この赤きれいと孫の言う
かたぐるま親子三人曼殊沙華
今年またいつの間にやら曼殊沙華
彼岸にはまだちと早かろう紅き花
曼殊沙華ベタでも似合うぞ黒揚羽
笑いあう若きふたりよ曼殊沙華
・・・駄作ばかりではありますが、イメージは転換できたでしょうか。
曼殊沙華、彼岸花、葉見ず花見ず、
色々な名前はあるけれど、この時期だけのいさぎよい花であることには変わり在りません。
「生きている」それこそ意義なり曼殊沙華 みこたま
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