虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

山中一揆

2007-03-23 | 一揆
津山にはいってみたいと思っている。
でも、車で日帰りはむつかしく1泊しなくてはいけないかもしれない。
あの虎さん映画の最終回も舞台に津山がでてきた。みつおの恋人がここで結婚式を挙げる予定だったけど、みつおが邪魔する話だった。昔がそのまま残っているような土地だ。あとここは「八墓村」のモデルになった事件がおきたところではなかったか?
なんといっても、「山中一揆」がおきた土地だ。一揆の碑や墓があちこちにあるようだ。昭和30年代はじめに「山中一揆顕彰会」が一揆史料を出したそうだけど(見たことない)、新しい解説書はないのだろうか。地元に若い研究者はいないのだろうか。一揆の中でも一番すさまじいものだと思うのに、本が手に入らないのが残念。

以下はこの一揆の存在を知った、というだけの(詳細な内容はわからない)昔の記事。

( 8) 98/05/01 23:15 03553へのコメント コメント数:1

すごい一揆を見つけました。
一揆というと、代表として頭取は逮捕され、処刑されるけど、他の大勢の
人はまあ無事かなあ、と思っていましたが、武士と一揆側が決死の対戦を
したのもあるのですね。
享保11年(1726)に美作(みまさか)国 山中(さんちゅう)一揆(岡山)
です。
取り調べもなく、現地で打ち首になって、首をさらされた者が76人、城に
ひかれていって1か月後にはりつけになった者2人、打ち首20余人。
犠牲者が多い。

この一揆はちょうど津山藩の藩主が急死し、跡継ぎをたてていなかったので、
領地は半分に減らされるという時におこし、お家の一大事という中で、要求
を通すことができたようです。要求が通ったあとも、各地の庄屋たちの家の
うちこわしを続けたので、ついに藩も武力鎮圧に出ます。経過については
略します。

この一揆の記録「美国四民乱放記」は一揆後、数ヵ月して近くに住む人が
講釈本のようにして書いたものですが、これはこの一揆の総大将牧徳右衛門
を中心にして書かれているのです。
もともと先祖は肥前で父親の代に浪人。この牧は江戸に出て、奉公人として
働いたこともあるらしい。とにかく、天草四郎を尊敬し(由比正雪も尊敬)、
一揆の大将になったときは、名を天の四郎左衛門佐藤原時貞となのるのです。

最期、この大将のはりつけになる場面などはすさまじい。
「わが命、終わるとも、一念は死に替わり、生き替わり、鬼とも蛇ともなって
世世影向(?)、恨みをなさでおくべきか」と言い、目を八角にして、「われ
が死んで21日間、色もかわらず、形も損ずまじ、しかれば、死んでもかたきを
とるぞ」と舌をかみきり、口中の血を天にふきあげたとか。
ほんとかどうか知らないが、まるで、映画「魔界転生」。
たしか「八墓村」でも武将の怨念がでてきたようだけど、あれは岡山ではなかっ
たっけ?なんか怨念が強いです。やはり犠牲が大きかったからだろうか。

ともかく、この時代(享保)、天草四郎や由比正雪などの反逆者も庶民において
は、一種の英雄的存在でもあったのだなあ、と思いましたよ。
        (「美国四民乱放記」は岩波書店「民衆運動の思想」にあり)

上田藩宝暦騒動

2007-03-23 | 一揆
カテゴリーで「一揆」の数をふやしたいため、昔のおしゃべりをやたらにアップしています。今、読むと、超スピードで書いたので、書き間違いや、意味不明もたくさん。少々まちがえても訂正なんかしないでどんどん書きなぐっていました。

以下、コピー。
上田藩宝暦騒動
( 8) 98/04/26 14:37 コメント数:2

みなさまぁ、こんにちわぁ、若くて美貌の藤子嬢で-す(^^)。
(お客)あれ、まだ一揆観光は続くのかい?
はい、宝天の一揆、まだまだ見逃せないのがありますの。やはり
信州にも挨拶しておかなければいけませんし。お客さんなしでも
バスは進行するのよ(^^)。はい、バスはまもなく信州に入りました--。
まったくスピ-ド進行ね(超速成アップ)。
(お客)おお!信州!山だ、登山だ、キャンプだ!

信州は広いですから、今回は上田だけでがまんしてくださいね。
百姓一揆の数では信州はトップクラスでございます。信濃の中にもいろんな
藩がありますが、中でも上田藩(5万3000石)が百姓一揆では、トップなので
す。
(お客)なに?ここは百姓一揆のメッカなのか?
そうです。その上田の中でも青木といわれる地域が一揆の老舗でございます。
上田市から西へ約10キロあたりのところに青木という地名が出ているはずですわ。
むかしより、地元では「夕立ちと騒動は青木からくる」といわれております。

(お客)なになに、うん、「宝暦11年、上田藩全領の農民、城下町に強訴して、
    うちこわす」と年表に書いてあるな。

宝暦11年12月11日夜現在の青木の村から立ち上がった農民の行動に、藩領域全体
の農民がぞくぞくと続き、松明をかがげて1万数千人の人々が上田城下をめざした
のです。
城内に入り込み、年貢増徴の反対、金納米相場の引き下げをはじめ、18か条の要求
を提出しました。

城ではお殿様(松平忠順)は江戸にいるので、家来が「殿様に必ず聞き届けても
らう」と約束してやっとひきあげさせることができたの。
そのあと、町や村のうちこわしよ(特権商人や村役人層の家のうちこわし)。
翌年、ほとんど要求は通ることになり、これは成功した一揆ね。
でも、騒ぎがおさまって、要求を通してから、首謀者の逮捕って始まるのよね。

この首謀者は青木の浅之丞(39才)、半平(59才)という二人で死罪。
河原の刑場で斬られる時のふたりのようすが当時の記録に書かれているの。
意訳してちょっと紹介するわね(上田騒動実録)

(半)、浅之丞、もはや、この世の名残、最期をいさぎよくし、わるびれて人々に
    笑われるなよ」
(浅)なんの、この期におよんで何の思いおくことがあるものかい。
(半)もっともだ。わしはすでにおいぼれ、下世話にいう、行きがけの
   駄賃、しかし、おまえはまだ38才で壮年の身。妻子のことも心残りだろう。
(浅)愚かなことを言う、半平。会者定離、生者必滅の悲しみとは、釈尊も教え
   ていること。老少不定は常の習い。驚くべきことではない。わしは、あっぱ
   れ果報者よ。卑しき百姓の身として5万8000石の大将となったからは、名は後
   世に残るだろう。その妻子にどうして覚悟がなかろうかい。
(半)うん、おまえは、5万8000石の首領となった。今、目の前を見回せば、7、800
   人の見物衆。何の不足があるものか。刑場の役人の行列も美しく見えるし、
   5、6万石の大名もこれにはまさるまい。われわれは、5万8000石の大将なり」

(お客)う-ん、百姓一揆の頭領は、さすが大将の気概を持っているのやな。
    

那谷寺通夜物語(大聖寺藩の一揆)4

2007-03-23 | 一揆
藤五郎 那谷寺通夜物語(8)
( 8) 99/03/22 12:52 06683へのコメント コメント数:1


大勢にとりかこまれている新四郎。
新四郎「皆々の望みはなんなりと言ってくだされ。命の代わりに何なりともお使い
    いたします」
とし蔵「当年は大不作。おまえも見た通りだ。年貢米は1合も出せぬが、御冥加の
    ため、1合は年貢するぞ」
新兵衛「それはあまりにひどい」
AKI兵衛「また、そのようなことを言うか!」と鳶口をふりあげる。
松吉「では、2歩(2割?)年貢すると言うて来い」
新兵衛、小山にかけのぼり、お奉行たちに百姓の要求を伝える。

奉行衆「うーん。年貢減免の話は聞いておった。しかし、これは我々の自由になら
    ん話でな。今年は御役所からの命令もことのほか厳しく、大概の所は免切
    (減免)せずに、そのまま通りすぎよ、というお達しでな。金沢表から 
    も、米不足のないようにと伝達してきている。不作なのは知っているのだ
    が、我々も立場があるでなあ、上からの指示通り、年貢はまけなかったの
    じゃ。わかってくれるか?しかし、これほどの百姓全体の望みとあらば、
    我々からお上に願い出てもよい。まず、われわれを大聖寺に帰すことだ 
    な。それにしてもだ、2歩とは、とんでもない願いだ。
    もうすこし、なんとかならぬか、相談してきてくれ」

新四郎、また百姓勢のもとに報告に山を降りる。

とし蔵「なに!2歩ではならんだと。なに言いやがる。お上に願い出るとはどう 
   いうことだ!免切(減税)はやつらに決める権限があるはずだ。猿!奉行 
   めらの仲間になったのか!」
AKI兵衛「言うことがわからん!もっと大きな声で言え!」
松吉「米さえあれば、1歩でも2歩でも出しちゃるぞお!」
藤五郎「ばっかやろう、おたんこなす、も1度、話しつけてこい!」
とみんな口々に勝手なことを言ってまとまらない。
使いの新四郎は4度も5度も奉行衆のところにかけあいにいかせられる。

この場にいる大勢の百姓衆の中には胆煎というか村の代表者の立場の人はいなかっ
たので、話がまとまらない。新四郎、百姓衆の中に、以前、胆煎役をしていた五里蔵と
いう者の顔を見つけ、「なんとか、意見をまとめてほしい」とたのむ。
五里蔵「心得た。皆の衆、関係のない話はやめて、実際斎問題としての年貢の割合の話
をつけようぞ」
とし蔵「4歩6歩がよかろう」
新兵衛「4歩6歩とは、どっちが年貢じゃ?」
とし蔵「4歩が年貢、6歩はもらいじゃ」
新兵衛「それもひどい。6歩が年貢で、4歩がもらいではどうじゃ」
とし蔵「また、ぬかすか、猿!4歩6歩で上々、今年の出来にふさわしい」
五里蔵「わしは、新四郎どのの言われる通り、無理な望みを言ってもかなえられ 
    ず、ここは、5歩5歩という線ではどうだ」
AKI衛「それはだめだあ、悪い悪い!」
まとまらない。また、新四郎、小山に幾度も登って奉行衆に状況を伝えにいく。
奉行たちは、早く埒のあくように、五里蔵に一任して話を決めさせろ、と言う。

五里蔵「皆の衆、いくら望みを言っても埒があかぬ。このさい、4歩6歩に決めし
    てまおってはどうじゃ」
新兵衛「ただし、6歩は年貢、4歩はもらい」
とし蔵「猿め、まだ言うか!そうではないぞ!。4歩年貢、6歩もらいだ!」
AKI兵衛、松吉「そうだ、そうだ、そうだああああーーーー」

新四郎、また上に登り、ありのままに伝える。

奉行衆「うーーん、このうえはどうしようもないか。まことにもって是非もなし。
    さらば、百姓の望みのごとく、4歩年貢、6歩もらいにしよう。相違ない
    証として、書状も書いて渡そう」

いよいよ次回で最終回(^^)

                        提供  藤五郎一揆観光



藤五郎 那谷寺通夜物語(9)
( 8) 99/03/22 14:22 06688へのコメント コメント数:2

みなさん、粟津温泉の一揆の旅も最終回でございまーす。

松吉「やったね。勝ったね」
とし蔵「おれたちの力だね」
AKI兵衛「では、村へ帰っていっぱい飲りましょうね」

ちょっとお待ちなさい。あなたたちは、だから、甘いって言われるのよ。
お奉行さんの証文を読んだの?
加賀のお百姓さんたちは、渡された証文を読んで、なお、文章に気にいらぬ言葉が
多い、このように書きなおせ、と何度何度も新四郎を山に使いさせるのよ。
お百姓さんが証文を書いてあげたみたいなものよ。印形がなかったので、書判もさ
せたの。最後の詰めもきちんとしてるわ。

証文がやっとできあがると、みんなのの前で大きな声で読み上げたのね。
これが、証文よ。


今年、もってのほかの不作につき、御郡方の作毛四歩ほどの御収納ならではこれな
しの由につき、残り六歩は御用捨米お願い申し上げ候。組々百姓ども押立御訴訟
申し上げ候だん、承り候。
早速、願いの趣、御算用場へあい達し申すべく候。いずれも大聖寺へ右一統に御訴
訟にまかり出候儀、あい止め申すべき旨、申しにつき、かくのごとく候。以上。

10月7日            
                              前川宇右衛門
                              守岡新右衛門
                              斎藤 四兵衛
                              堀三郎左衛門
                                     
                                    」
そのうえ、新兵衛の口を通して、お奉行衆のこんな口上が百姓たちに伝えられた
の。

「免4歩6歩の儀、証文の通りなり。たびたび言い越す趣、いちいち相心得たり。
大聖寺にて急度、御用所へまかり出申し上げ、6歩もらい、4歩年貢にあい決める
べし。万一、御用所にてこのこと、かなわざる時は、我々5人とも、その場を立ち
去らず、必ず5人いっしょに切腹すべし。もし、一人にてもその場で腹を切らず、
わが宿所へ帰りたりと聞こえなば、百姓中、不日に押しかけて責めほすべし。
このこと、毛頭、相違はない。百姓中、このうえは早く村々へ引取りたまえ」

百姓さんたちの勝利の歓声が聞こえてこない?

百姓との約束をまもらなかったら、奉行衆5人は切腹します、とまで言わせられた
わけね。

那谷寺通夜物語の上巻はここまでです。このあと、一揆勢は、町に押しかけ富家の
うちこわしをしたりしますが、わたしたちはここでおわかれね。

藩は、百姓たちの要求をのみます。
翌年15人の農民が捕らえられますが、一揆の首謀者として斬首されたのは1名だ
け。あとは、みんな別の罪名。斬首された1名も首謀者ではないとされています。

藤五嬢「ふーーー。やっとおわったわ。ああ、つかれた。お客さんがた、もう帰っ
てもいいわよ。おつかれさまあ。さようならー」

参考  近世庶民生活史料集成第6巻(三一書房)「那谷寺通夜物語」より
                              藤五郎一揆観光



那谷寺通夜物語(大聖寺藩の一揆)3

2007-03-23 | 一揆
藤五郎 那谷寺通夜物語(6)
( 8) 99/03/22 00:27 06675へのコメント コメント数:3

こんばんわー。
なかなか一揆の大団円にならなくてごめんね。
6日は、武士もお百姓さんもみんな夜通し起きて過ごしたって話ね。だから、通夜
物語か。それぞれの体験もちがうのね。


次は組付十村(支配する村を持つ十村{庄屋」)の4人。
この4人は佐治兵衛家に宿泊することになっていましたが、2人は村に用事ができ
たとかで、暮れに帰り、泊まりは2人。
騒動がおきたときは、家の主佐治兵衛がふたりをやもめが住んでいる草庵に隠しま
す。そして、翌朝、他の村まで送ります。2人は佐治兵衛は命の恩人、この恩は一
生忘れまいぞ、と誓ったそうな。これは簡単におわらせます。

最後に、足軽たち3人はどうしたか。6日の宵は奉行の泊まっている寺や権四郎の
家を見回っていたのですが、もう用事はない、帰って休んでよい、と言われたの
で、次郎助という者の家で寝ていました。

夜の九つ過ぎの一揆勢の時の声。次郎助は3人を小屋に隠します。
3人の足軽のうち2人は若く、雇い足軽。もう一人は水野北太郎(ほんとは、干野
善兵衛と書いてるけど(^^))といって古参のほんとの足軽。

若い足軽は、あああ、こわい、水野さま、北太郎さま、お助けを、はやく逃げたい
よお、と体をふるわせ、水ものどを通らないようす。

水野さん、声をはげまして言う。
「ばっかもん!ふるえる奴がいるか。めしもたんと食っておけ。わしにまかせてお
け。大聖寺に帰る道にはきっと大勢の百姓たちがいるだろう。奴らが熊手、鳶口で
かかってきたら、刀をぬいて打ち払うんだ。」

水野さんは、小屋の中で若い二人に刀はこうやって抜いて、こうやって払うんだと
か、刀の使い方を教習し始めます。すごい余裕だね。足軽に豪傑あり、だ。

夜が明けたので、3人は水野さんを先頭に歩き始めます。
水野さんは、大勢の百姓の中を、「眼をむきだし、顔色をば荒くして押し分け押し
分けして」通ったけど、みんなジロジロ眺めるばかりでだれも手をだすものはいな
かったそうな。
百姓の人数が少なくなったころ、水野さんは若い二人をふりかえってこう言ったそ
うです。
「いいか、これから、堤を通る。堤のふちにて大勢に会ったら、必ず山側によける
のだぞ。堤のふちのほうへ寄って堤に落とされるな。
また、できるだけ強そうな面構えを作って、目をいからし、手を大きくふって歩
け。ぜったい、体をふるわせるなよ。これ、山崎流の奥の手の兵法じゃ」

で、3人ともできるだけこわそうな強そうな顔をして歩いて、無事に大聖寺まで
帰ったそうです。おかしみのある話でしょ?

こわそうな顔をするのが奥の手の兵法というのも楽しいね。
素朴だけど、たしかに、かなり通用する手ではある。

強いものには弱く、弱いものには強い人間って少なくないもんなあ。

                              藤五郎


藤五郎 那谷寺通夜物語(7)
( 8) 99/03/22 11:04 06679へのコメント コメント数:2


奉行衆は全部で4人。大目付けの堀三郎左衛門、郡奉行の守岡新右儀衛門と前川宇
右衛門、郡目付の斎藤四兵衛。もうひとりの郡目付は大聖寺に注進するため、観音
山から必死の覚悟で脱出したため、いない。

夜が明けると大勢の百姓たちが観音山をめざして続々と集まり、周囲を取り囲む。
奉行衆4人は追い詰められて、観音山の後ろの大切谷という小高い山にかけのぼ
る。ここは、回りは低い谷になっていて、真中がちょこんと盛り上げたような小山
になっている。
さあ、5000人ともいわれる百姓たち、その小山をぐるっと取り囲む。
武士たちは、もう袋の鼠。
下から百姓たちは、口々に「世にまたとない悪口雑言」を叫ぶ。

「免切らずめの(年貢をまけない)大盗人ども、世界にない取り倒しめ!今から、
我々らが心次第に、したいままにするぞ!仕置きが悪しくば、年貢は公領とても望
みなし。仕置き次第につく我々ぞ。京の王さまの御百姓になろうとままじゃもの。
やれ、早く打ち殺せ、打ちたたけ!」

市井三郎の「近世革新思想の系譜」(NHKブックス)では、上の言葉を引用して
当時、庶民用語に自由という言葉はなかったが、したいままにする、とか、まま
じゃもの、という言葉がそれにあたるのではないか?また、だれの政治支配を受け
入れるかを自由に選択する権利をも主張しているように見える、とびっくりしてい
ます。しかし、庶民をなめたらあかんよな。百姓にこいう意識があったのは、あっ
たりまえの気がする。わかんないのは武士だけよ。

さて、そうこうするうちに、あの、たばこ新四郎が交渉役として連れて来られる。
百姓たちは新四郎(目付け十村)に言う。
「やい、猿め、しっかり使いをしろ。もし、へんなこと言ったら、打ち殺すぞ」
とみんなで数十本の鳶口、棹、鎌などをひらめかす。

みなさん、このどさくさにまぎれて、あなたたちも一揆勢の中にお入りよ。
3人「はーい」

さて、奉行と一揆勢との交渉はうまくいくかな?

那谷寺通夜物語(大聖寺藩の一揆)2

2007-03-23 | 一揆
那谷寺通夜物語(3)
( 8) 99/03/20 17:24 06658へのコメント コメント数:2

さて,10月6日のお奉行さま一行は那谷付近の5カ所に分宿。

郡奉行の守岡、大目付の堀岡、そして郡目付の二2人の計4人は那谷の肝煎の権四
郎という者の家に。権四郎は那谷の村の代表者なんだ。
郡奉行の前川は那谷寺の不動院に。
目付十村(大庄屋)2人は太郎兵衛という者の家に。
組付十村の4人は佐治兵衛の家に。
足軽3人は次郎兵衛の家に。

まず、郡奉行の守岡新右衛門ら4人の泊まった権四郎の屋敷から。

夜の九つ過ぎ八つ頃というから、午前1時ごろかなあ、とにかく真夜中だ。
突然、大勢の人声を耳にした守岡、ガバッと飛び起きて、「今の声はなんじゃ、
火事か?だれか、見て参れ!」と下知。「いえ、火事ではありません、わけがわ
かりません、すごい人数で」とだれかが答えるうちに、もう大戸口や窓を押し
破ってどっと大百姓が入り込む。家の中、庭も大声あげて騒ぎまくる人でいっぱ
い。
「何者ぞ、狼藉者!」と一喝するが、力自慢のとし蔵が後ろから抱きしめ、はが
いじめ。

「免切(年貢を下げる)はおまえたちの役目だろう。免切らずめ、逃がさん」
と、とし蔵。かっこいい!
顔をしられた村役人などは、家には入らず、顔をかくし、庭に待機していたらし
い。庭からは、家に向かって、石礫を投げたり、木をなげこむ者もいた。

守岡、「年貢のことならば、考えてやろう。とにかく、ここは、引け」という
が、ここには、一揆のリーダー格の者はなくえあけもなくわめくばかり。
守岡をつかまえたとし蔵、しかし、外から飛んできた石礫に当たってひっくりか
える。

このすきに、守岡、納戸の中に逃げ込む。他の3人も納戸の中に隠れたらしい。
(納戸ってなんだ?)
納戸で「権四郎、早く、百姓を納得させて、引き上げさせろ」と言うが、村人
は、
一向に引き上げる様子はなし。で、権四郎は、「ここは、ひとまず、お逃げなさ
れ」
とすすめる。

納戸の後ろに小さな抜け道があって、ここから、侍方はそっと外に脱出。
山の中。外は漆黒の闇。権四郎は、みなに1本の縄を持たせて、那谷の観音山の
草庵まで、道案内。ここから権四郎はあとのことが心配と屋敷にひきかえす。
屋敷の回りには百姓たちが奉行を探している。
「お奉行はここにはいない。すでに逃げた。みなみな、引け」と権四郎。
「大悪徒の奉行どもを隠しおいたらただではおかん。丸焼きにするぞ」
「では、納戸味噌小屋まで探してみよ」

屋敷の中にはだれもいない。
「うーん、さては、寺にいる前川と合流する気だな、逃がさん」と一揆勢。
さあて、お奉行さんたちの運命やいかに。
ほんとに、こんな山の中で迷子になったら、こわいぞー。
                                 藤五郎


藤五郎 那谷寺通夜物語(4)
( 8) 99/03/21 11:52 06661へのコメント コメント数:2

みなさま、おはようございまーす。
さて、寺に泊まった郡奉行前川右衛門はどうなったか。

深夜、権四郎の家の方から聞こえてくる騒ぎ声。おそらく、減免の願いで
押しかけてきたのだろう、とは思ったが、まさか、この寺までも押しかけて
は来ないとだろう、と、「ご安心なされ」と寺の坊主には言ったらしい。
ところが、来るは来るは、「百千の雷鳴、一度に落ちたかのような」大騒ぎ。

「前川、守岡以下横目賢目も一人あますまじ。見切らずの大盗人、大奸盗!」
と口々に叫ぶ。
前川、(これは、この辺の村だけではない、一郡の百姓ども共謀して集まってきた
のにちがいない。こんな土民ばらと勝負しても無駄だ。免切りのいいわけしても
詮なし、逃げるにしかず)と、不動院の露地口より、そっと逃げ、この人もまた、
守岡と同じく観音山めざして落ちる。

この時の逸話として、この夜、寺には町(大聖寺)の若旦那も泊まっていたそう
な。名は越前屋AKI平(正確には、越前屋喜平)。年のころ、20ばかりの
やさ男、色白き美男子と書いている。AKI平、おどりは上手、歌、今様、三味線
もうまく、遊び人、粋人だったのだね。親父といっしょに、この寺の松茸ふるまい
によばれていて、ほんとだったら、昨日、親父といっしょに帰るはずだったのだ
が、寺の人たちに、もう1曲聞きたい、とか引き止められて泊まってしまったの
だ。

騒ぎにあってびっくりぎょうてん。素足で飛び出し、岩屈にひそんでいたそうだ。
「これは天狗のしわざ?夢?戦争?夜討?あらおそろしや、なんという浮世ぞや。
観音様、白山様、どうか助けたまえーー」と泣いていたそうな。
翌日、一揆勢に見つけられますが、別に悪さもされることなく無事でしたが。

藤五郎 那谷寺通夜物語(5)
( 8) 99/03/21 22:49 06671へのコメント コメント数:
次は手振り目付け十村の2人のようすね。

(松吉)その手振り目付け十村とはどんなお役目なんだい?

藩から扶持を貰っているけど、支配する村はなく、他の10村の監査役をかねてい
るとか。百姓だけど、武士みたいなのかなあ。たしか、銭屋さんもたくさん献金し
て十村という身分を得た、とか聞いた記憶もあるなあ。


さて、この目付け十村の新四郎と文四郎の二人は奉行守岡さんが泊まった家のむか
いの太郎兵衛家に寝ていました。騒動が終わると、ふたりとも素足で逃げ出し、大
あわて。

文四郎は無事、遠くまで逃げ延びたのですが、新四郎は、どぶの中に落ちるやら、
崖から飛び降りるやら悲惨。なんせ、ちゃんとした山道は百姓たちがたくさんいる
ので、道ならぬところを通るしかない。しかも、真っ暗なんだよ。顔も手足も土だ
らけ。ついに柴を積んでいるのを見つけ、その柴の中に身をかくします。

朝になり、柴から顔をだすと、百姓たちが探しにきているようす。こりゃ、
もう助からぬ。あのものたちに見つけられるよりも、こっちから名乗ってしまえ、
と覚悟を決めたのね。

「新四郎はここだ。いかようにも皆々の存分にしてくれ」と姿を見せてしまうの。
「まず、しばりあげよ」「打ち殺せ」の声。手には棒、熊手、棹、鎌などを持って
いるのよ。

「皆の衆、聞いてくれ。命は惜しくはない。じゃが、わしを殺したら、後で皆の衆
も困るぞ。御上に願うことがあれば、命をかけて、わしが取り次ぐ」と刀を投げ出
し、両手を自ら、後ろに回す。「さあ、どうなとしてくれ」

一揆勢、これを聞き、
「よし、命は助ける。奉行どもを探し出したら、おまえは、我々の願い事を、免切
その他のこといちいち取り次げ、そして、うまくこちらの望み通りに運べ。それま
で、おまえは預かっておく」ということになる。新四郎に逃げられたらまずいので
30人ほどがいつも回りを囲むことにしたそうな。

さて、一揆勢の人質になった新四郎、しばらくして、一揆の衆にあることを頼みま
す。なんだと思います?
AKI兵衛「はーい、おにぎりを求めた」
とし蔵「はーい、トイレいかせて、といった」
ブーーーーー、ちがいまーす。こう言ったのよ。

「殺すとも、タバコ1ぷくのませてくれ。夜の九つ時より、身は振い、腹はすげな
きなり、今、皆の衆、煙草のみたまうを見れば、煙草より外に今、世界に望みな
し」
         よくわかるなあ、愛煙家のわたしとしては(藤五嬢)。
そばの百姓が火打ちを打って飲ませようとすると、大勢の者は
「たばこ新兵衛に飲ますな!打ちすえよ」といったそうな。
でも、その時、さっと30ばかりの若い男が出て、
「いやいや、たたくな。煙草も飲ませよ。わしが預かるぞ」といって、権四郎の所
へつれていきます。この那谷寺通夜物語を書いているのは藩士であり、一揆を暴挙
ととらえる立場の人ですが、敵ながら、人情をわきまえた者もいる、と、新兵衛に
やさしくした男をほめています。
新兵衛は、那谷の胆煎権四郎のところに預けられ、一揆の交渉の時には約束通り働
かされます。
                             たばこ藤五郎
                             

那谷寺通夜物語(大聖寺藩の一揆)1

2007-03-23 | 一揆
こりずに過去の一揆ログをのせます。
一揆観光の形で、通信フォーラムの仲間をお客さんにして会話しながら話をすすめていますが、今、読むとしょうもない無用な会話は省略しましたので、不自然なところがあると思いますが、あしからず。

藤五郎 那谷寺通夜物語
( 8) 99/03/16 00:33 コメント数:3

みなさま、こんにちはー。
このたびは、加賀温泉郷観光に参加していただきましてありがとうござい
まーす。
加賀温泉郷は山中温泉、山代温泉、片山津温泉、粟津温泉の四つの温泉がご
ざいます。江戸時代は、芭蕉さんも、北前船の船頭さんたちも、お侍さんも
お百姓さんもみんなここの温泉につかりにきたのですよ。

バスはこれから加賀温泉郷の中でも最も古い歴史を持つ粟津温泉にまいり
まーす。粟津温泉は美人湯がキャッチフレーズで、女性客も多いのですよ。


粟津温泉は養老2年(718)、泰澄大師が発見されたとされます。
この泰澄大師の創建と伝えられるのが、那谷寺。
はあい、もう那谷(なたに)寺に着きましたわ。7万坪の敷地には、奇岩、
古木がひしめいて、まさに古刹といった面影。

(客)ここは加賀藩の領地なのかい?

加賀藩の支藩大聖寺藩の領地です。加賀藩は当初は加賀、越中、能登の三州
を合わせて120万石だったようですが、3代藩主利常の時、長男に加賀100万石
を、次男に越中富山10万石を、三男に加賀の南7万石を大聖寺藩として、与
えたのです。

(客)あとのの3万石は、どうなったの?

お客さん、こまかいことは、まあいいじゃありませんか。
というわけで、この那谷寺が一揆の舞台になるわけです。
那谷寺通夜物語というのは、一揆を見聞した大聖寺藩の藩士が書いたものだ
そうです。
おもしろいかおもしろくないか、わたしもまだ読んでいません(読めるかし
ら?不安)。
次回のご案内は、これを読み終わってからね。


RE:那谷寺通夜物語(2)
( 8) 99/03/20 08:13 06612へのコメント コメント数:2

バスを降りてくださーい。那谷(なた)寺に着きましたよ。

(AKI兵衛)わあ、ほんとに山の中の寺だなあ。けっこう、広いなあ。
(松吉)はーいな、境内には本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院など
    が、ありますのよ。歴史は8世紀から始まるのですが、その後、朽ちてし
    まった時もあるのですが、加賀の名君利常公の時に再興したのだよ。おら
    の殿様はすごいだろ。
(AKI兵衛)小僧さん、よく知っているね。
(松吉)おら、加賀の地元民だい。
(とし蔵)あちこちに岩があるね。おいら山登り得意だから、うれしいなあ。

そうなのです。あたりにある岩窟も見ものですわ。なんでも、8世紀に、ある大師
さんが、このあたりに来たところ、山にかかう雲に観音さまが現れたの。そのう
ち、1羽の烏が飛んできて、ある岩をつつきだしたそうな。なんだろう、と思っ
て、石を掘り返して見ると、中から観音像が出てきたの。うーん、これは何かのお
告げだということで、ここにお寺をつくったのね。

(とし蔵)で、ここでおきた一揆っていつの話なんだ、藤の姉さん?
一揆は、正徳2年(1712年)におこりました。

(とし蔵)正徳2年というと、赤穂事件から10年後だね。家宣、白石さんの
     時代だよ。
(松吉)おら、知ってるぜ。赤穂義人録を書いた室鳩巣も長く加賀にいたのだよ。
    一揆のおきる前年に白石さんに呼ばれて江戸に出たんだ。

当時、大聖寺藩の当主は4代前田利章さまです。藩邸は今の加賀市大聖寺にあった
の。那谷寺とは直線距離にして10キロは離れているし、途中、山道だし、なにか
がおきてもすぐに鎮圧に書けつけるのはむずかしいわね。

(とし蔵)ガイドのねえちゃん。早いとこ、一揆の話をしてくんな。どうも、前口
     上が多すぎるぜ。
はーい、おにいさま。
正徳2年、この年は6月ころから北風が毎日のように吹き続け、夏には大きな台風
が襲い、田畑の損害がひどかったそうです。それで、村々の肝煎(庄屋)たちが藩
庁に出て、それぞれの十村(村を2、30も束ねている大庄屋、とうむら)に年貢減
免のお願いをしたそうな。藩庁の上でも評議され、立て毛見立てすることに決まっ
た。

(松吉)おら、知ってる。見立てって実際の稲の出来具合を調べることだね。
    おらのときは、武装して、100人くらいの役人が回ってきたよ。

このときは、とてもすくないわ。大目付け一人、郡奉行2人、郡目付け2人、目付
け十村2人、組付十村6人。計13人だ。でも、荷物もちとかの家来は少しはいたか
もね。とにかく、この役人の投票で村々に減免を決定するそうな。もちろん、藩内
のすべての村を回るわけではなく、村を選んで回るの。ところが、困窮の村にきて
も、「うん、なかなか良いできではないか。平年通りの課税じゃ」とつれなく通り
すぎることが多く、村人の不満は高まってきたようよ。

9月の末から役人一行は泊まりを重ねながら、見立ての旅をしていました。10月4
日は島という土地。このころ、100人くらいの村人が集まって不穏な動きがあった
そうな。しかし、ここは村の数も少なく、石礫などもない、どうせ、やるなら、2
つや3つの村ではなく、1郡の百姓を参加させ、誰が棟梁かわからないようにし、
訴訟の要求事項も統一しょう、って相談が決まったのね。

10月6日は一行は那谷寺泊まり。やるのは、その日の夜だ、と決まったのね。
6日朝、郡中の四方八方に以下のような触れをまわします。

「今夜、見立ての廻り、那谷寺宿りの所へ、免乞に村々よりも一人も残らず百姓分
は出申べく、第一にまず田を刈ることを止むべし。見立てにあいぬる村もあわざる
村も、残らず那谷へ寄るべし。もし、寄らざる村これあらば、後日、焼き込みにす
るぞかし。後に恨むることなかれ」

さあ、ここで一休みね。お客さん、また温泉につかっておいでえー。
                               藤五嬢


明和の大一揆2

2007-03-22 | 一揆
藤五郎 (4)明和の大一揆(伝馬騒動)
( 8) 99/05/01 20:42 06959へのコメント コメント数:1

みなさま、こんにちはー。やっと、ゴールデンウイークに突入しましたね。
わたし、武蔵の国よりも他の土地にいきたい気分になってますので、この伝馬一
揆観光も適当なところで、うちきりますから、悪しからずご了承くださいね。

さて、16日の十条河原で決めた通り、21日、村人は、蓑笠を身につけ、薦(こ
も)には食料をつめこみ本庄宿に結集しました。それぞれの村印をつけた纏(ま
とい)やむしろ旗をかかげてね。ざっと、1万人。この日、本庄宿では、「市」
が開かれる予定だったのだけど、そんなのふっとんでしまいます。街道は、人、
また人の群れ。
この日、上州の2郡からも2000人が駆けつけ合流。

今度の加助郷の担当官だった代官手代もびっくりして制止に駆けつけるも、聞く
耳はもたぬわ(^^)    めざすは、江戸表だ。
村役人、僧侶なども、説得にあたるが、効果なし。
一揆の時の説得役に寺の坊主というのがよく出てきますね。
僧侶は、江戸時代は、庄屋とともに、支配の末端機構としての役割もあったのだ
ろうね。

23日、横瀬村が不参加だということで、一揆の一軍が横瀬村の名主七兵衛の家を
うちこわす。このうちこわしの衝撃の噂が広まり、今まで様子を見ていたほかの
宿駅でも蜂起があいつぎ、一揆勢は一気に数万にふくれあがる。15歳以上60歳ま
での男子はみな集まれ、ということだから、すごい人数になるよね。
中仙道の板橋から本庄宿まで宿駅は27あるのだし、ひとつの宿に1万結集すると
すると、20万を越えてしまう。それに、中山道の宿駅は往来は多く、市などもよ
く開かれてるから、人は多い。

この日、深谷宿でも蜂起するが、その様子を「尚風録」という記録から見てみま
しょう。

深谷宿では、23日、田中村の永田河原で夕方、集会をもちます。約200村数千人
が参加。
そこでは、高さ3メートルほどの梵天(幟みたいなものか?)が立てられ、その
下に板札があり、参加した村はそこに村名を記入するようになっていました。

冬なので、河原では焚き火をしていましたが、夜になると、火を消して話し合お
う、ということになりました。発言者の顔がわからないようにして、相談しよう
ということでしょう。次々、火が消されあたりは、真っ暗闇。

隅のほうから、一人が発言。
「今度、公議から、加助郷を命じられたが、宿場に近い村はともかく、われわれ
のような遠い村の者にとっては、難儀至極。このままでは家族は飢え死にだ。今
のうちに相談して、なんとかしよう」

すると、また違う隅から発言がある。
「今の(宿場に近い村はともかく)という意見には納得できない。宿場の遠近を
問わず、近年はどこでも生活は苦しく、助郷が決定されたら、生活はできない。
どこの村も区別なく全員そろって江戸にでよう。本庄宿の人々は立ち上がった。
われわれも早く合流しよう」

すると、また、発言者。
「今の意見に賛成だ。しかし、江戸に出るといっても、具体的にどうすればいい
のだ?」
「今晩はひとまず村に帰り、準備をととのえ、25日に村印の纏を立てて、結集し
よう。」
「大勢が纏をたてて、江戸へ行ったとしても、番人が通してくれまい。その時は
どうする」
「その時は尾張、紀伊、水戸の御三家の門につめかけ訴訟する。それでもだめな
場合は、東叡山の宮さまにおたのみする」

こうして、25日には深谷宿に新たに約8000人が集まります。

「尚風録」には、おもしろい記事があります。
永田河原にみんなが集まった時、風もないのに、梵天(棒に細長い紙をたらした
もの?)がひらひらと舞ったそうです。
これを指さし、ある浪人が「あれを見よ。天にも聞き届けられた印だ。願いは成
就すべし。すぐにうち立ちたまえ」と進めたそうな。
これ、だれあろう。「この浪人、明和4年夏召し捕られたる山県大弐なりとぞ」
と書いています。
                            藤五郎

以上。

このあと、まだあったはずだけど、この一揆のログの保存はここまででした。しりきれとんぼになって申し訳なし。
 

明和の大一揆(伝馬騒動)1

2007-03-22 | 一揆
次は伝馬騒動。

くりかえし昔のことを語るのは年寄りの常というけど、わたしも、新ネタを書くのがめんどうになって、昔の話を持ち出してきたのかもしれない。なにせ書いたのが8年前で、すっかり忘れてしまっています。
パソ通では、コメントが楽しくコメントを通して話が広がったり、各論に展開していくのだけど、コメントをのせるとめちゃめちゃ長くなるので、残念だけど、それはほとんどカットしました。
また、一揆の話は昔から人気がなく、すこしでも親しみやすいように、観光ガイドの形にして、藤子嬢などとふざけたガイドさんを出しておもしろおかしくしたのだけど、ごめんなさい。以下、コピー。

0 藤五郎 明和の大一揆(伝馬騒動)
( 8) 99/04/25 00:52 コメント数:2

みなさん、こんにちは。
一揆観光の初代ガイドの藤子嬢です。

AKIさんが唐津の明和の大一揆を案内してくれたので、わたしも、同じく、
明和の大一揆を。これは、「伝馬騒動」とか「天狗騒動」などとも呼ばれて
います。

時は、明和元年(1764)12月末から翌年正月にかけて。立ち上がったお百姓は、
武蔵、上野、下野、信濃の中仙道沿いの村々から、なんと約20万人。
20万人といえば百姓一揆としては最大級でしょう。
この20万人が大挙して、江戸をめざして中山道を進軍。幕府もびっくり、お江戸
の町人もヒヤヒヤドキドキです。

原因はなんでしょう。中仙道沿いの村々に幕府が新たに課した助郷(すけごう)
役です。
街道の宿場町には、公家や幕府役人用の荷物の輸送制度として「伝馬」というの
がありました。人夫50人、馬50頭が常備してあったそうな(役人は無料で使える
特権があるそうな)。でも、年々、輸送する量は増え、「伝馬」だけではとても
用を足せない。で、そんな時には、近くの村々から、人夫や馬を徴集して、代わ
りを勤めさせたのですね。
くわしいことはわかりませんが、ま、「助郷」とは、宿場の伝馬が不足したとき
に、それを助ける村という意味くらいに考えておきましょうよ。
しかし、お百姓さんも大変ですね。。田んぼを耕したり、そのうえ、陸上輸送の
仕事までさせられるんだもの。宿場から遠く離れている村なんかも助郷に指定さ
れて、もし、人をよこせなっかったら、金を寄越せ、なんて言われたらしいわ。

まあ、固い話は、やめといて、まず一揆のスタート地点に参りましょう。

中仙道本庄宿。江戸の日本橋を起点にすると、板橋、蕨、浦和、大宮、上尾、桶
川、鴻巣 熊谷、深谷、そして10番目の宿が本庄宿になるの。今の埼玉県ね。

ふー、ここまでくるのに、もうつかれてしまったわ。やっぱり、年ね。やはり、
一揆観光のお勤めも老体にはきつくなってきちゃったわ。お客さん、今日は、
ここまでね。
                           藤子老嬢

RE:明和の大一揆(伝馬騒動)
( 8) 99/04/25 13:52 06923へのコメント コメント数:1

>凄い!「内乱」といえる規模?AKIさんはこの人達のお弁当を心配してしま
>う(^^;)

弁当くらいは自前だよ。でも、足りなくなってもだいじょうぶさ。おれたち一揆
さまだから、道々、食料はだれかが提供してくれるでしょう(^^)。

>この一揆を唆したのは怪しい浪人さんかしら?

一揆の棟梁として獄門になったのは、本庄宿から南東5キロほどの所にある武蔵
国児玉郡関村(現埼玉県児玉郡美里村)の名主、兵内さん一人だから、この人が
仕掛け人だろうね。

でも、怪しい唆し浪人も、すぐそばにいて、この一揆のようすをじっと観察して
いたんだ。

名は山県大弐(だいに)。当時、上野国甘楽郡の小幡藩に身を寄せていました。
ここからも、一揆に参加したものは多かったのです。
この地方の伝説によると、この山県大弐のもとに、尊皇論者の竹内式部、藤井右
門がたずねてきて、3人でこう話し合ったということだ。

「ここの小幡藩主である織田氏は、信長公からの縁もあって朝廷の覚えもよい。
これを盟主として勤皇倒幕の軍をおこそうではないか。このように民衆の反乱が
あいついでいる現在、我々が一命を投げ打って先頭に立つなら、幕府を倒すの
は、暴風雨が枯れ木を倒すようなものだ」

でも、その2,3年後、山県、藤井は捕らえられて獄門、竹内は流罪になり、小
幡藩主織田信邦は出羽国に国替えになります(これが天童藩?)。
山県大弐は怪しい唆し浪人の先駆者だね(^^)

>助郷とは違うかもしれませんが、年貢の湊までの輸送なんかも、お百姓が自費
>でしているのですよね。大変な費用と労力なのに、ただですまそうなんてひど
>いですね。

そうよ。朝鮮からお客さんが来る、京都から公家さんが来る、とか何かある度に
助郷を徴発されたそうね。しかも、助郷を人間扱いしない柄の悪い役人もいる。
幕末になるけど、桜井常五郎という草莽の志士がいてね。この人も皇女和宮が江
戸にくる時、中山道で助郷として駕籠かつぎをしていたんだ。でも、生意気な役
人と喧嘩してね。ほんで、国を飛び出し、倒幕活動をすることになったそうだ
よ。

RE:明和の大一揆(伝馬騒動)
( 8) 99/04/27 00:07 06934へのコメント コメント数:2


>20万人のうち死刑が一人?ということでもないのかしら。どうして獄門が一
>人なのか、

ええ!もっと百姓の首がほしいって?
さては武士の手先かあ?(^^)
この騒動で処罰されたのは、381人。名主、組頭、年寄役のもので半分を占めて
います。藤五郎みたいなスカンピンの無頼者は、はなから無視されていたのかな
あ。
獄門は兵内(ひょうない)1人。遠島3人、あと追放とかです。
一番多い処罰が過料(罰金刑)と手鎖で198人。次ぎ、役儀取り上げ119人
など。とにかく牢屋がいっぱいになって、溜りにも収容したそうだよ。獄死した
のも少なくなかったようだ。
一揆首謀者関係者の探索は火付け盗賊改がやるのかなあ?

関村の兵内さんがほんとに首謀者かどうかはわからないけども、幕府はとにかく
この兵内さんを獄門にして晒したのは事実で、地元には「義民兵内梟首の地」と
いう標識もあるようです。むろん、村人は手厚く回向し、現代でも、関村では、
「兵内おどり」というのが残っていたそうな。今、現在、まだ残っているかどう
かは知らないけど・・・。

>駕籠をかつぐって、大変なことだったと思うのです。肩の一点で駕籠と人の
>重みを支えるのですよ!こぶみたいな筋肉がなくてはできないですよね。

江戸時代の下層階級の人たちって、ええ体していたそうだね。
イギリスなんかでは、貴族がスポーツとかなんかして、立派な体をしていたそう
だけど、江戸の場合は、反対だなあ。
「黄金時代のギリシャ彫刻を理解しようとするなら、夏に日本を旅行する必要が
ある」とか「下層の者の間では、まるで体操選手を思わせるような、背が高く異
常に筋肉の発達したタイプにめぐりあう」なんて外国人も書いているようです
よ。(渡辺京ニ「逝きし世の面影」)
いなせな身のこなしというのも、やはり、しなやかで、鍛えられた身体から出て
くるものだよね。
いなせな奴というのは、最近、あまりいないなあ。としまるどんがそれに近い
ね。やっぱ、農作業で、きっと身体、鍛えているんだと思うね。

        
(2)明和の大一揆(伝馬騒動)
( 8) 99/04/28 22:58 06921へのコメント コメント数:2

みなさん、こんにちは。
明和元年の秋、武蔵、上野、下野、信濃の国の中山道の宿駅に(板橋から和田宿
までの28の宿駅)に、幕府からお触れがあったそうです。
一揆の発生地、本庄宿にきたお触れは、次のようなもの。

「近年、中山道通行多くあいなり、本庄宿これまでの助郷高にては、人馬不足に
つき、このたび、村々ヘお代官両人の手代差し遣わし、村柄見分、さる戊年より
未年まで10か年、年貢割付、ならびに道中道法などこれを糾し、勤高をきめ、右
宿、助郷加え候間、心得ちがいこれなきよう、吟味うけるべきものなり。

     11月 御勘定  安藤弾正
        御目付  池田筑後                  」

要するに、近頃、中山道の交通量が増え、今までの定助郷だけでは足らず、新た
に大幅に助郷を加えるから承知せよ、という通達です。
各宿場とも、200か村ほど新たに助郷に割り当てられるそうだ。
しかし、これらの村では、数年不作が続き、しかも、この年の春には、朝鮮使節
が来た時の接待費として100石につき3両1分2朱の税金をとられたばかり。

幕府がこの時、助郷を急増することになったのは、翌明和2年が日光東照大権現
の150年忌にあたっており、大名や公家の往来が激しくなると予想したためで
もあるそうな。

しかし、農民にとったら、たまったもんじゃあない。
「この上は、一人残らず江戸表にまかり出て、命限りに御免の御訴訟申すより
他なし」の声が高まる。
そして、ついに12月中旬のある日、次ぎのような張り紙が出る。

「来る12月16日、十条河原へ、15歳から60歳までの男子、1軒一人残らず必ず集
合されたい。もし、不参加の場合は、大勢で押しかけそのままではおかぬから覚
悟していてほしい」
さあ、集まるのだろうか?

伝馬騒動については、地元の人が書いた北沢文武「明和の大一揆」(鳩の森書
房)があります。史料としては、「民衆運動の思想」(岩波書店)に「狐塚千本
槍」という古文書が、また、日本庶民生活史料集成弟6巻(三一書房)にもいろ
いろ史料が出ています。

わたしは、北沢文武の「明和の大一揆」を参考にします。これ読みやすいですか
ら。
藤五郎 (3)明和の大一揆(伝馬騒動)
( 8) 99/04/29 10:29 06955へのコメント コメント数:1

みなさん、こんにちはー。藤子です。
埼玉県の旅をつづけまーす。
明和元年12月16日、本庄宿の助郷に指定された村々約200村から1万人ほどが、
児玉郡の十条河原に集まってきました。ここは、県(?)の史跡になってるよう
で、農道に説明板が今でも立っているようです。まだまわりは農地ではないかし
ら。

20万一揆といわれる伝馬騒動は、この集会が始まりの合図となります。
「尚風録」という文書によると、張り紙は制札場だけでなく、立木、人の家、い
たるところに張られていたそうな。「もし、集まらなければ,焼き払うぞ」と書
かれては、一応、ぞろぞろ顔を出すよね。

さて、夜、十条河原に大勢集まったけども、唆した首謀者は姿は見せないもので
す。ただわいわいがやがやと騒ぐばかりで、まとまらない。

「尚風録」では、この時、百姓杢之助というものが、竹の先に鼻紙をさし、「東
西東西ー」とふりまわし、こういったそうだ。
「おのおの、さように動揺めされては、どんな相談もまとまらぬ。まず、静まり
候、しかるのち相談いたそう」
みんな、納得し、座る。
「今まで、ご伝馬を勤めなくても、露命をつなぎがたし。この上に、ご伝馬あい
勤めるものならば、渇命におよぶは必定なり。無二無三に御訴訟すべし。われ
は、70余歳、命を惜しいとは思わぬ。お詮議のときは、われ自ら、お咎めに出
る。」
だれかが口火をきらなくちゃいけないのよね。しかし、口火を切ったものに責任がま
わってくる。だれかが口火を切ると次々に意見がでます。次ぎのように決まります。

21日に本庄宿に再結集。その時には、各郡、各村々ごとの纏(まとい)を立
て、蓑笠を背負う。おおみそかまでに江戸に出て、大手門につめかけ、あくる元旦
に登城してくる老中、あるいは諸大名に訴訟しよう。
エイエイオー(^^)

この時の杢之助は、後、牢死しています。
兵内だけでなく、やはりいろんな人が心ならずも関わってしまうのですよね。
                         藤五郎




丹後の大一揆(3)

2007-03-22 | 一揆
藤五郎 丹後の大一揆(5)
( 8) 99/01/18 21:46 06038へのコメント コメント数:2

>あれぇ?栗原理右衛門のだんなは百姓の味方をした善玉じゃなかったのかい?
はいな。「栗原さまのお言葉」といえば、百姓も納得して退散したのだからね。
百姓の信望は厚かっただろうね。しかし、ここが、またも人の疑うところとも
なるんだね。世は厄介だよ。栗原理右衛門だけでなく、その息子百助も入牢。
いや、息子百助は、斬られてしまうんだ。親父の方も牢から出たのは一揆から
18年後、殿様の宗発が死んで、宗秀が後を継いでからなんだよ。
おっと、先走り過ぎたよ。まず首謀者からだ。

首謀者は水呑みの新兵衛と為次郎(ふたりは義理の兄弟)とされて、首を斬られ
たのだけど、たしかに村々に檄文を回したり、中心的な役割を果たしたのだけど、
ほんとの首謀者ば、宮津藩士の関川権兵衛なのかもしれない。

為次郎は関川権兵衛の下僕奉公をしたことがあり、親しい仲。為次郎がある日、
理不尽な日銭金のことを話すと、関川権兵衛はこういったそうだ。もちろん、
伝承ですが。「この日銭金は全部、お上のご用に立つのではなく、悪辣な重役
連や、庄屋たちがぶんどる分も多い。もし、しいて廃止しようとすれば、大勢
で強訴するしかあるまい」


これに加えて、一揆前に関川権兵衛が新兵衛、為次郎に送ったといわれる手紙
の件もある。新兵衛は読書、算盤も達者な知識人だったようだ。

むろん、二人は関川権兵衛のことは白状しない。一切を自分たちの責任にして
しまった。

関川権兵衛は、前にも話したけど、家老栗原理右衛門の妾腹の弟。
栗原家とは大いに深い関係があるんだね。栗原家といえば、宮津では知る人ぞ知る
由緒ある家柄で、代々の家老職。

関川権兵衛については、二説あって、一説は、軽薄、浅知恵、つまり思慮が足りない、
という説。捕えられて、一種、気がふれたようになり、ついに、首を斬られる。
もうひとつは、関川権兵衛は、思慮分別に富み、情のある真の武士という説。一揆を
成功に導いたのはすべて関川の功績で、捕り方にかこまれて、切腹して果てたという
説。

武士の身分で、百姓一揆を指揮したとすると、たしかに、軽薄、浅知恵という評価も
うなずけます。当時の武士仲間にとっては、それこそ大馬鹿野郎のはずですから。
また、栗原家に累が及ばないように、その後、乱心を装ったとも考えられる。
しかし、観点を変えれば、あっぱれ武士、とわたしなんか評価したくなってしまい
ます。第一、武士が百姓一揆の首謀者になるなんて、珍しいよ。
ここのところ、まだ不明部分が多いのですが、長くなったので、ここまで。
なにせ即席で書いており、いいかげんですので、事実とは思わないでね。
すべて伝承です。
                                
藤五郎 丹後の大一揆(6)
( 8) 99/01/19 21:23 06047へのコメント

みなさん、こんばんわ。丹後の一揆はもうおしまいだよお。

文政6年12月には一揆参加者の処分がなされたようだ。
それによると、処刑されたものは、関川権兵衛、あの「総髪の大男」の仲間大工
長五郎(総髪の大男は逃げちゃった)、そして、首謀者とされた新兵衛、為次郎
兄弟(ただし、このふたりは、実際はもっと、あとで処刑されたらしい。なかな
か口を割らなかったのかもしれない)。もちろん、逮捕されたものは100名を越え、
追放などの処分を受けたものはほかにもいます。
(なにせ「徳川百姓一揆」に書いている記事は十分研究されつくしたものではなく、
わたしの発言に、事実の正確さは求めないでね。おもしろいネタになるかな、と
思っただけだから。でも、書いてみると、わからないことが多すぎます)

栗原理右衛門父子はずっと入獄のまま(容疑がはっきりしなかったのでしょう)。
栗原理右衛門が疑われたのは、藩内に反栗原勢力というのがあったのでしょうね。
百姓たちが「栗原さまなら話を聞く」と言ったこと、栗原の名まで、一揆側に声明
を出すと、一揆勢は退散したこと、栗原は、日銭金に反対していたこと、なども
疑惑のタネにされたのでしょう。容疑濃厚な関川権兵衛は、栗原の親族でもある。
しかも、事実かどうかはわかりませんが、関川権兵衛は、獄に入れられたあと、
破獄し、栗原理右衛門の屋敷にたどりついたところを再逮捕されるという事件も
あったそうな。

首謀者の処刑は終わり、一揆の話はここでやめてもいいのだけど、もうちょっとね。
その後、栗原理右衛門の息子、栗原百助(700石)は脱獄するのです。
江戸にいるお殿様、宗発様に直訴して、無実を訴え、藩の悪臣らの諸業を明らかに
する、との動機だったそうです。

夜陰、脱走し、(もちろん、援助者がいて、その者はあとで処刑)、島崎の湊より
日本海を小船で漕ぎ出す。大雪で、素足。脱走したばかりだから、たいへんだ。
伊根浦大島村につく。ここは幕領なので比較的安全なのと、なんと知り合いの酒屋
藤五郎がいるのです(うそじゃないよ)。藤五郎という名前に悪人はなし(実はこ
れが書きたくて、書いた?(^^))。男藤五郎は栗原百助を匿います。どこにも義侠
の徒はいるねえ。しかし、ここも危なくなって、また船で若狭へ。そして、江州八
幡の町まで。しかし、もちろん、藩も必死に追う。寺に入ったところを見つけられ、
寺の庭石の上で切腹して果てたそうだ。39才。(寺は西光寺で、そこには百助血
染めの石というのもあったそうだが、今もあるのかどうか・・・)。

なお、一揆から18年後、宗発が死んで、宗秀の代になると、宗秀はすぐに栗原理右
衛門を牢から出し、「おお理右衛門、よくも達者でいてくれた。父の不明を許して
くれよ」と涙し、即刻、家老に戻し、江戸につれていったそうな。栗原理右衛門、
80有余才で江戸で没す。宗秀さんは、倒れかかった幕末の老中になっています。
ほんまかいな、と言いたいような話だよね。
  

丹後の大一揆(2)

2007-03-22 | 一揆
同じく昔の荘太郎こと藤五郎の一揆の話。
以下、そのコピー。

藤五郎 丹後の大一揆(2)
( 8) 99/01/17 15:45 06008へのコメント コメント数:2

どこととどこの村からたちあがり、どこの村のどこの庄屋を襲撃したか、などは
地理がわからないので、カットするとして、襲われた庄屋、富家の数はざっと50
軒くらいらしい。襲うといっても、家人には怪我をさせず、家の中のものを、戸、
障子、畳、板敷、家財道具などをめちゃめちゃにたたきこわす。

蔵の中の米も盗むのではなく川へ捨て、酒樽はたたきわり(だれだ?飲みてえと
いっているのは)、高価な絹なども焼いてしまう。盗賊じゃないんだからね。
怒りをたたきつける気持ちかな。襲撃された家で、その後、破産したという家はな
く、その後も続いているのだもの。

四方八方から集まった数万(?)の人々はあちこちの庄屋をたたきつぶしながら、
とうとう宮津城の大手口に。そこで、一群のリ-ダ-らしき大男が人々の肩馬に乗っ
て役人に叫ぶ。一体、要求はなんなのか?

「城内の役人ども、よっく、聞けぇ。腐儒者沢辺段右衛門ほか2名(名はカット)
をもらいうける。この3人に蓑笠をかぶせ、鋤鍬をもたせ、昼夜、百姓の味わいを
思い知らせん」

この沢辺段右衛門(北溟)は当時、近隣に知られた儒者で、藩政の実質的な責任者
で、日銭金を藩主に進言した張本人でもある。御用学者でしょう。

「この3悪人を即座にひきわたせば、よし、もし、出さなければ、町中残らず、焼尽
くす!。ただし、家老職、栗原殿が出てくれば、相談にのる」

家老の栗原とは、沢辺が殿様に日銭の具申をしたとき、それは民の難渋になると、
反対した人。人々は、よく知っているものだね。

沢辺たちを渡すか、それとも、栗原さまを出すか、と迫ったわけです。
藩政改革の要求を、藩首脳陣の更迭として要求したんですね。お殿様の悪口なんて
決して言わない。言ってみてもしょうがないもんなぁ・・・。

とにかく、城門前の一揆勢をまずは退散させることが先決と、お城では、栗原の
代理のものを出して(「徳川百姓一揆」では、栗原の息子、栗原百助が出たことに
なっているが)が出て、「日銭は今日限りやめる、追先納米は猶予する、このたびの
手当として、米1000俵下げわたす」などと約束。
人々は、「栗原様のお言葉だ、引き取れ、引き取れ」と凱歌をあげて、ひきあげた
そうな。

おっと、豪傑の話は書けなかった。それは次回に。
                              藤五郎
藤五郎 丹後の大一揆(3)
( 8) 99/01/17 19:37 06032へのコメント コメント数:1

一揆には周到に根回しして準備する者もいれば、実際の闘いの場で、集団を
指揮することに力を発揮する者もいますね。
この一揆の最中、人々の注目を集めたのが、「総髪の大男」の存在。
いかにも一群のリ-ダ-にふさわしい力量を持っていたようです。

浜辺に来て、渡し船がないことを知ると、すぐ、即席の筏をいくつも作らせ、
それを並べて筏の橋をつくらせたり、談判には、この大男が前に出ると、
みんな恐れ入ってしまうし、役人側に要求をつきつけたのも、この大男だ、
ともいわれるし、酒樽の綱を切るときには、「上の綱ではなく、下の綱から
切れ、さもないと、危ない」と細心な注意を与えたり、筋骨たくましく、弁舌
よし、迫力満点の一揆スタ-として獅子奮迅の活躍をします。
しかし、一揆が解散すると、この男もいずことなく消え、あれはだれだったか、
なにせ顔は炭で黒くしているので、だれもわからない。

隠密の調査で、この男は大久保稲荷神社の神主、坂根筑前と判明します(大久保
神社も今でもあるのではないだろうか)。

もともと染めもの屋の次男、幼少より武芸を好み、力自慢、剣は関口流を学び、
宮津町の若者の不良番長みたいな存在だったらしい。
大久保神社の神主に養子に入ってからは、和漢の書物もよく読み、一種、地方知
識人という存在に(たぶん国学者だったのでしょうね)。神社には村々から
よく参詣にくるので、その都度、村人の漏らす政治の悪評判を聞き、村人に常々
同情していたそうだ。一揆を計画した張本人ではないけど、一揆が勃発した、
と聞くと、勇躍、その先頭に飛び込んで、一揆をリ-ドしたのですね。

一揆後、検挙が始まったと知るや、この大男、機敏に姿をくらまし、大坂に
出る。捕り方が大久保神社を取り囲んだころはすでにもぬけのから。
のち、大坂堀川蛭子松岸というところの神職に2度目の養子になり、しらん顔をし
て、無事に大坂で生涯を終わったらしい。
どんな一揆にも、こんな人も参加していただろうなぁ、と思わせるような人物です
ね。

しかし、丹後の一揆には藩の武士もかかわっていたような容疑も濃厚です。
それは次回に。
                               藤五郎

藤五郎 丹後の大一揆(4)
( 8) 99/01/17 23:10 06037へのコメント コメント数:3

丹後の大一揆は、文政5年の12月13日から18日に起きたのだけど、文政6年の
正月は、庶民も「去年の暮れの祝直しだ」ということで、格別に賑やかに祝
ったそうだ。
「沢辺を百姓にしろ。さもなければ栗原さまを出せ」と一揆側は訴えたが、
沢辺は謹慎になり、家老栗原理右衛門は、沢辺の具申した日銭(重税)を廃止した。
江戸にいる殿様からは2000俵の米も下げ渡された。郡政にあたっていた役人の大
更迭もなされ、藩政改革にも動きだした。やってよかった丹後の一揆、というところ
か。

余談だけど、百姓から恨まれた沢辺段右衛門という儒学者の子は、明治期には、
宮津で、自由民権運動に乗り出している。
また、宮津からは、小室信介という自由民権運動家も出て、この小室信介は、
日本で最初に百姓一揆伝をまとめた人です(「東洋民権百家伝」岩波文庫)。

しかし、一揆が静まり、みんな平和に日常生活を始めたころから、密偵の仕事
は始まりますね。目付け役人が商人や旅人に変装して、村里に潜入、一揆の首
謀者探しです。

奥山村に入った密偵は、ある情報を得る。
「宮津様ご家中の関川権兵衛さまとおっしゃる方が、この奥山村の新兵衛と為次郎
の両人宛に1通の封書を出したらしい」

関川権兵衛とは、家老栗原理右衛門の異腹の弟。特に殿様から関川の苗字を与えられ、
百石をもらっている。関川を捕えると、答弁も要領を得ず、新兵衛、為次郎も捕えら
れ、そして、ついには家老の栗原理右衛門まで幽閉されるという話まで展開していく
のです。
                             藤五郎


まだ続きあり。



丹後の大一揆(1)

2007-03-22 | 一揆
同じくパソ通の歴史フォーラムに書いた一揆をコピーします。

RE:丹後探索報告
( 8) 99/01/15 00:40 05946へのコメント コメント数:3

としまるさん、みなさん、まいど。
そろそろ丹後の一揆をやりたいのだけど、丹後関係の資料がない。
もう1度、丹後宮津までちょっくら走ってみたいのだけど、もう、今は、車で走れ
ないよ。先日の大雪で、天の橋立の松が50本ほど折れたそうだ。
丹後半島を一周してみたいな、とも思っていたのだけど、春まで待った方が
いいかもしれない。

正月に、丹後の宮津を車で通り抜けた時、鄙びた海辺の町という印象だったけど、
江戸時代、漁村というのは、特に日本海の港は、今の姿からは想像できないほど、
賑わっていたかもしれないね。

民謡にこんな歌詞があるんだよ。
  2度と行くまい丹後の宮津、縞の財布が空になる。

さて、文政5年の丹後の大一揆の仕掛け人は、水呑み百姓の新兵衛、為次郎兄弟
なんだけど、水呑みだからって極貧の農民ってゆうことではないらしいね。
ただ、土地を持っていないだけで、土地の必要でない、船乗りか、商人か職人
であったのかもしれないのだもの。「水呑み百姓」ということだけど、とても
立派な字を書く男のようだ。
                              
藤五郎 丹後の大一揆(1)
( 8) 99/01/15 17:42 05998へのコメント コメント数:3

文政5年の宮津藩主本庄宗発は、当時、江戸で寺社奉行仮役を勤めていたそうな。
(おなじころ、水野忠邦も寺社奉行ではなかったかな?)
時の老中は水野忠成であり、まあ、賄賂全盛の頃だろうし、いろいろ経費もかか
ったにちがいない。
この本庄宗発は、文政9年には京都所司代、文政11年には大坂城代、天保6年には
老中になっている。大坂の大塩平八郎が武士の不正無尽を暴露した書状にも、
宮津藩の名が出ているようだ。

まあ、出世をした宗発さん、その経費を捻出するために、いろんな手段で庶民か
らしぼりとったのでしょうね。
一揆の原因は大事なのだけど、お金のことはよくわからないので、さらっと通り
すぎますm(--)m。

なんでも、宮津藩では、年貢米1万5000俵を納期に先立って納める先納米の制が
通常だったという。先納米って、よくわかりませんが、年貢には、米で納める分
と銀で納める分があって、その現銀で納める分のことかもしれません。
どの藩もやっていたのだろうか?ぜんぜんわかりませ--ん。

この年は、先納米の他に、追先納米ということで、またまた追加の米1万5000俵
を命じ、合わせて3万俵を出せ、と言い出す(1俵っていくらだろ?)。
まだあります。この年の正月、人別帳で男女70才以下7才までを調べ上げ、一人
につき、3匁あての日銭を課したともいいます(1匁っていくらかもわからん)。
結局、米や銭を徴収するのは、庄屋たち。一揆勢の攻撃は庄屋たち(主なもので
25組)にむけられたことを思うと、藩首脳部と庄屋たちが手を結んで、庄屋たち
も甘い汁をすっていたのかもしれません。徴収すると、その中の何割かは天引き
できるようになっていたのでしょう。

わたしには、お金のことはわからないけど、まあ、これはこのままほってはおけ
ない、許せない!と丹後の人々が感じた、ということだけわかれば十分です。

文政5年の12月13日夜。宮津の愛宕山など三箇所で同時にかがり火の合図。その合図
のもとに、120か村の人々、一斉に蜂起、各村の大庄屋の家をうちこわし、宮津城下
までおしよせる。
もちろん、宮津城ではびっくり仰天。お侍は全員総登城になります。
さあ、みんな宮津へ押し出せえ---!
                               


金原田八郎と信達一揆(2)

2007-03-22 | 一揆
同じく9年前の会議室ログより引用です。以下。

  03605/04488 MXG01260 藤五郎 RE:金原田八郎と信達一揆
( 8) 98/05/07 19:37 03600へのコメント コメント数:1

としまるさん、追加レスです。こちらもちょっと調べてみました。
>八郎の義理の弟の太宰清右衛門は水戸徳川家へ仕官する事になります。
>(当時、御家人株は金で買えた)
>太宰清右衛門は水戸斉昭の政治姿勢に心酔していた人物です。

松蔭も、この太宰清右衛門という人、知っているようですね(地元では
調べはついている人なのだろうか?)
安政6年8月13日久保清太郎・久坂玄端にあてた手紙に出てきます。
なんとそこにわれら金原田八郎も出てる。

「水戸のことは実に憐れむべし。太宰清右衛門など逃げ去り候ゆえ、
 その妾せい(今、隣房女獄にあり)、その僕頼助(これは病死のこと、不
 憫なこと)、せいの姉むこ奥州信夫郡保原在の八郎(今、西大牢に生存す)
 みな人質に捕えられる。せいの捕えられる時、江戸より捕人30人も向ひ候由、
 せい自らこれを言う」(岩波書店普及版「吉田松蔭全集第9巻」)

そして、この時の牢名主が沼崎吉五郎で、松蔭から遺書「留魂録」をたくさ
れ、明治9年に松蔭門人(政府高官)にわたした人ですが(それまで三宅島に流
されていた)、なんと、この人も奥州福島藩の人なんですよ、としまるさん!

                             藤五郎

としまる RE:金原田八郎と信達一揆
( 8) 98/05/07 23:00 03602へのコメント コメント数:2

奥州も新緑が目に眩しい時期になってまいりました。一年でも最も過ごしやすい頃(^^)

≫一揆は、当時の非合法活動だし、実にスリリングなドラマだと思うのですがね。
まこと!実にスリリングですよ(^^)こちらの一揆も、さすがに当事者に話を聞く事
は出来ないけど、言い伝えは随所に残っています。「八郎伝」の編纂に参加した中
の一人がたまさか としまるの知り合いで保原町の歴史文化資料館に勤務している
関係で情報収集がし易いもんね(^^/

一揆というのは、収奪され続けてきた下層農民達の積もり積もった鬱憤が一気に吹き
出したものなのかな??彼らの精神状態にとっても興味を引かれるんです。
たぶん、憶測ですがカーニバル的な興奮状態にあったんじゃないかなって。
「八郎伝」にも出てるし、この土地の言い伝えにも残っているけど、押し寄せる
一揆勢を前にその屋の主が裃袴姿で土下座して応対に出る。もちろん家の前には
にぎり飯、塩じゃけ、新しい草鞋、手ぬぐいなんかが山と積んである。
『一揆様、どうぞ腹いっぱいご飯を召し上がって下さい。お足が痛んではいけません
から、新しい草鞋をお履きになって!汗を拭いて頂くのに手ぬぐいもございます。
ああ そうそう、お酒も樽を開けてございますから‥その代わりこの場はどうぞ
このままお通り下さいませ』

日頃は、野良で働く百姓ふぜいには顔も見る事もできないであろう大家の主人が、
自分達を臥拝んでいる訳だから、さぞや彼らは溜飲を下げた事でしょうね(^^)
一揆が膨らみ続けて何万人なんて群衆になると、もうとても手は付けられませんね。
藩が鎮圧の為に手勢を繰り出しても、せいぜい彼らの要求を聞く位の事で群衆相手
に武力に訴えるなんて事はあまりしないね。なんたって相手が悪いのよ 百姓は。
万が一、暴徒と化した百姓に命を奪われるような事があれば、武士としては末代
までの恥辱だもの。だからこの時点では割合と低姿勢(^^)"

お百姓の要求に対して、藩が善処を約束してさしもの騒動も沈静化に向かう。
集まっていた群衆も、潮が引くように散り散りになっていく。一揆が収まった
と見るや、藩による首謀者の詮議がはじまるよ。とりあえず怪しい奴をひっくくって
拷問にかけたりして、芋づる式に多くの逮捕者がでる。この時点になると藩の
方が強気だよ。

としまる 金原田八郎と信達一揆(2)
( 8) 98/05/08 22:19 03606へのコメント コメント数:2

みなさん こん◯◯は

今回は(2)の八郎 信達一揆の頭取として逮捕されるの巻だよ(^^)

この信達の地は古くから養蚕地帯として広く名を知られていました。最近でこそ無くなりましたが、20年程前までは一面の桑畑が広がっていたようです。さて、島送りが赦免となり八丈島から実家の金原田村へと帰ってきて、2年を経ていた八郎は自ら「誠心講」なる
結社を作り、近在の者を集め、剣術のけいこ、武術の訓練を開始します。世情不安な上、浪人
などもこの地に多く流れ込んだ為、自衛の意味を思ったものか??

時は幕末、蝦夷地沖にも外国船が現れるなど、東北の寒村にも政情混乱の波が大きく押し寄せる中、諸物価も高騰し、最下級の農民の生活は困窮を極めました。
この地にあった桑折代官所の代官は、近隣の蚕種問屋等と結託して私腹を肥やさんがため蚕種、及び製品としての生糸に新税を課そうとしました。

これに対し農民達の怒りが一気に爆発します(`o´)
誰かが事前に各村々へ一揆計画の回状を廻すなどしていた為、慶応2年6月15日の夜、中瀬村(現 保原町中瀬)の宍戸儀右衛門宅が数十人の者によって襲われ、打ち壊されたのをきっかけに、信達各地からぞくぞくと集まった農民の数は、何と十万人以上に膨れ
上がったと言います。

打ち壊しに参加しない村は焼き討ちに合うと言うので、参加しない訳にもいかない面が
多分にあったようです。被害に逢ったのは裕福な商家や農家で、必ずしも悪徳な者とは
言えなかったようですが、その数は百数十軒にも上っています。一揆勢は余勢をかって
桑折代官所へと迫ります。代官所では手に負えずと見て、近在の福島藩や白石の片倉氏
などに応援を求めています。

福島藩、板倉内膳正の名のもと、一揆勢との間に話合いが持たれ、
       (1)生糸にかける税を撤廃する事
       (2)蚕種にかける税を撤廃する事
       (3)道路普請などの強制労役を撤廃する事

などを約束する事により、足かけ5日間にも渡った、さしもの信達騒動も沈静化へ
と向かいます。金原田村も前出の如く、参加しない村は焼き討ちに逢うと言うので
人数を出さない訳にもゆかず、筵旗に‘金’の字を墨書きして小隊を出しています
が、我等が八郎は表だってこの一揆には参加していません。
誰かが一揆の首謀者は八郎だという噂を流した事から、あるいは、捕らえられた
「誠心講」のメンバーが拷問により自白を強要された事から、八郎の頭取説が
またたく間に広がり、遠く江戸や上方の読売にまで「金原田世直し八郎大明神」
と書き立てられ、たいそうな評判となったようです。

しかし、当の菅野八郎は厳として頭取を否定し、彼は終生これを認める事はあり
ませんでした。一揆が終息し桑折代官所による首謀者詮議に、身の危険を感じた
八郎は山中へと身を隠し、ついには梁川役所へ身の潔白を訴えて出ます。
取り調べの為、梁川の獄に繋ぎ置かれること丸2年、ついに時代は維新を迎え、
官軍の北上に伴い証拠不十分として釈放になります(^^/この時八郎56歳です。

そして尚、この後20年を生きた八郎は明治21年1月2日不帰の人となります。

       “咲けば散る 花と知りつつ けふの風”

        希代の農民思想家 菅野八郎 75齢

  信達一揆の真の首謀者は彼であったのか?否かの永遠の謎を残して‥‥

PS 当地に八郎を顕彰する碑文などはないようです(^^;)"
なぜなら、彼が八丈島へ遠島になったのは政治思想による、いわば政治犯として
であり、政治犯を顕彰する事は有り得ない??
信達一揆については、彼は終生ついに自らが首謀者であるとは認めませんでした
から、時代を魁た偉大な農民思想家として高い評価を受けてはいるものの、
顕彰碑、記念碑の類は存在してはおりません。

            #~☆♪(^o^)【としまる】※ CYH03670※ 

貰った話を一つ、ご紹介!
「金原田八郎伝」中 P24 「慶応2年6月15日の午後‥‥」から数えて3行目に
「中瀬村の儀右衛門の家を焼き払え‥‥」とありますね。この人物は宍戸儀右衛門
といって自らも広大な桑畑を有する地主兼生糸商人でした。もちろん超お金持ち(^^)
信達一揆では真っ先に打ち壊しに逢い、屋台骨がぐらつく程の打撃をこうむります。
事件後彼は伊達の地を離れ、隣の白石(こないだ紀ノ川さんが行った町)に移住します。この宍戸儀右衛門の子孫があの俳優の宍◯錠(エースのジョー)さんなんだって(∂∂)儀右衛門から数えて確か4代目とか? ちょっと話題がミーハー?(*^^ )"                          

                         
としまる RE:金原田八郎と信達一揆
( 8) 98/05/13 22:40 03638へのコメント コメント数:1

藤五郎さん ちわ~

太宰清右衛門探索の旅にでていた としまるです(^o^)
先日、資料館によって「保原町の歴史」を読ませて貰って来たよ。すっかり
顔なじみになって、お姉さんがお茶を入れて呉れたもんね(^^)

その中に清右衛門について書いた部分があったけど、結論から言うと新発見?
はなかった。太宰清右衛門は現保原町の裕福な商家の長男に生まれ、子供の
頃からたいそう利発だったようです。やがて家業を引き継いだものの、余り
家業には身が入らず、放蕩三昧の日を送っていたとの事。やがて弟に家を譲った
彼は一念発起?!御家人株を手に入れ、武士の身分となります。しかし、侍に
なっても働き口までセットになっている訳ではないので、彼は旧知の水戸藩士
竹内百太郎を頼って、猛烈に仕官運動を展開します(相当、資金も使ったみたい)

こうして正式に水戸藩士としての身分となった清右衛門は、勤皇の志を胸に
国事に奔走していたようですが、「伊井大老襲撃事件」に参加を予定していながら
舟に乗り遅れたため不参加とか、天狗党事件にも支援はしているが直接参加は
していないなど、どこか詰めが甘いね。「報国の烈士」とはちょっと言い難い。
にわか探検隊の勝手な感想としては、どこか、いいとこの若旦那の道楽のような
感じを引きずっている?

もしかしたら、水戸の関鐵之助や薩摩の有村治左衛門のように名が残ったかも?
でも、歴史に‘たら’‘れば’はないか?>(笑)


金原田八郎と信達一揆(1)

2007-03-22 | 一揆
歴史フォーラムで一揆話をしていたとき、常連のとしまるさんという方から地元福島の信達一揆についての話をしていただいた。貴重な情報なので、ここに掲載します。著作権が気になるけど、としまるさんは、この「虎尾の会」とは親しい人だし、このブログにコメントもくれたこともあるからきっと同意してくれると思います。としまるさん、勝手に引用してごめんなさい。9年目前の記事です。では、以下、コピーします。

としまる 金原田八郎と信達一揆
( 8) 98/05/06 22:45 コメント数:2

みなさん こんにちわ としまるです(^o^)

藤五郎だんなの‘一揆シリーズ’も快調に進行中で、平素は一揆についての知識もなく興味も希薄でありました としまるですが、何と我が郷里にも幕末の頃に全国的に見ても大規模な一揆があったんだって!そうと知って、ちょいと調べてみた結果をご報告したいと思います>何だか大げさ(笑)

さて ここに登場する主人公の名は「金原田八郎」(かなはらだはちろう)職業 お百姓(^^)
本名を菅野八郎といい、奥州伊達郡金原田村に住していた事からそう呼ばれていたみたい。
子供の頃から聡明で、農業の傍ら勉強を重ねたそうな。水戸学の影響を強く受け、ついには江戸へでて国事に奔走した時期もある。

彼の波乱の人生の中で、大きく分けて2つの事件に注目されます。

   (1) 安政の大獄に連座し逮捕されるの巻
   (2) 信達一揆の頭取として逮捕されるの巻

じゃーまず(1)からね(^^)

時は幕末、異国から黒船がきたりなんかして、日本国中上を下への大騒ぎになっていた頃、
八郎の義理の弟の太宰清右衛門は水戸徳川家へ仕官する事になります。(当時、御家人株は金で買えた)
太宰清右衛門は水戸斉昭の政治姿勢に心酔していた人物です。
清右衛門は江戸へ出て斉昭公に謁見して、武士として破格の取り立てを感謝する旨を申し述べますが、その感激を義兄 八郎に手紙に認めて送ります。

それに対し八郎も返信を書きますが、ついつい長文のものとなりついには手紙というより一冊の本の如き書き物となってしまいました。八郎も元来、水戸思想の影響を受けた者であり、水戸斉昭を擁護する立場の書き方をすれば、それはとりも直さず幕府の弱腰を批判する文体となったようです。彼はそれに「秘書 後の鑑」と表題をつけて江戸の清右衛門へと送ります。

安政5年、彦根藩主 伊井直弼が大老に就任するに及んで以後、反幕勢力に対する厳しい弾圧が始まります。いわゆる‘安政の大獄’です。
これに連座して太宰清右衛門も幕吏から追われる身となりますが、彼の家から先の八郎の手による‘秘書 後の鑑’が発見され何と大老、老中まで披見され審議の結果ついに八郎は捕らえられ(江戸伝馬町の牢に留め置かれ、老中のお声がかりという事でVIP扱い?)幕政を批判した罪により八丈島へ遠島になります。

安政の大獄による処断者は、吉田松陰、頼三樹三郎、梅田源次郎など著名な志士をはじめ多数を数えますが、百姓の身分での逮捕者はおそらく八郎ただ一人ではないでしょうか?ここに大きな疑問が出てきますね(^^"

 なぜ片田舎の一百姓の八郎を、他藩の著名な志士と肩を並べて大物扱いしたのか??
 八郎が実際それだけの大物だったからか??
 伊井大老や老中の見当ちがい、見識不足のせいか??

いづれにせよ八郎は、八丈島にあること5年の後、思いがけず恩赦に浴して生まれ故郷
奥州金原田村へ帰ります。この時八郎51歳、そして2年後の慶応2年、県北一帯を巻き込んだ信達大一揆が起こるのですが、つづきはまた今度ね(*^^*)

また、お近いうちに/

    


パソ通時代の南部一揆

2007-03-21 | 一揆
昔、歴史フオーラムといって、パソコン通信で歴史の好きな勝手なことを書いていた時期があった。もう早9年前になる。知らない人とのコミュニケーションが楽しくて熱中していた。読みかじった知識を仕入れると咀嚼もせずに、すぐに流した。話をするのが主だから、今、読むと会話口調で、下手なジョークなども入れながら、実に冗長で、恥ずかしい。このときのログが一部保存してあったので、9年ぶりに読み返した。南部一揆の記事があったので、のせまーす。昔は藤五郎という名前でした。

 03564/04488 MXG01260 藤五郎 南部藩の百姓一揆
( 8) 98/05/03 00:22 コメント数:1

南部藩の百姓一揆(1)
「ペリ-提督の黒船に人の注意が奪われている時期に、東北の一隅で、
 もしかすると黒船以上に大きな事件がおきていた」
大仏次郎の幕末維新史である「天皇の世紀」の中の一文です。

これなん、嘉永6年(1853)南部藩におきた三閉伊(さんへいい)
一揆。

けっこう有名な一揆で、ごぞんじの人も多いでしょうね。小説にも
なっていたはず。大仏次郎もこの一揆をかなり詳しく紹介しています。

一揆を話題にするなら、いつかこれも紹介したいと思っているのですが、
とても要領よくまとめるってことができず、なによりも、まだこっちが
詳しいこと知らず(概説程度しか知らない)、しかし、のめりこむほど
の元気もなく(これ一筋というのができない。途中であきる)、で、
この一揆は少しずつ調べながら、ボツボツ書くことにします。

まず、この南部藩(岩手県でいいかな?城は盛岡)。
19世紀の江戸67年間では、一揆の数はトップです。62件で1年間に1件の
割合。(その点、上杉鷹山以後の米沢藩は19世紀はゼロ。)

19世紀の南部藩の藩主を長くつとめていたのは、利済(としただ)という
殿様で、これがすごい暴君。賢者ぶって、議論を好み、自分の議論に負け
たもの(賛成したもの)は登用し、反論するものは遠ざけたというから、
たちが悪い。古来、自分が一番賢いのだと思うほどの馬鹿はいない、と
いいますからね。たとえ、子供でも批判はゆるさない。自分のことを批判
したというので、わが子(長男)まで暗殺しようとしたらしい。

ある家臣がこの殿様に意見書をだしたらしい。
「参勤交代は金がかかる。国内が困窮しているこの時、国内の人々を救う
ことも大切な公務です。参勤は中止してはいかが」
すると、その返事。
「大名の公務とは何か。それは参勤であり、国土防衛、徳川家霊廟工事である。
 大名の私用とは何か。国内の政治をし、人民を救助し安定させること。これ
 が私用、家事だ。家事のために、公務である参勤をやめることなどできない」

南部藩の殿様の悪口を言うと、岩手県の人の悪口になるかもしれないけど、でも、
この南部の庶民の中には日本一といわれる見事な一揆を指導した人物が出てくる
のですよ。
では、この話のつづきはいつか、また。
 3576/04488 MXG01260 藤五郎 南部藩の百姓一揆(2)
( 8) 98/05/04 20:06 03564へのコメント コメント数:1

みなさまぁ、毎度ありがとうこざいまぁす。
ゴ-ルデンウイ-クにどこにもいけなかったお客さまぁ、藤子嬢が東北の
旅にご案内いたしま--す。格安料金の岩手ツァ-でございま--す。ブッブ-!

 (客)岩手?なんか印象の薄い土地なんやけどな。だれか有名な人いた?
まあ、失礼な、なにをおっしゃいます、お客さまぁ。
石川啄木、宮沢賢治さまですよぉ。
 (客)ふ--ん、で、岩手のどこにいくのかい?渋民村かい、それとも
   小岩井農場かい?
三閉伊(さんへい)一揆でございま--す。
 (客)なんだい、どこだい、その三閉伊って。
お客さまぁ、陸中海岸ってごぞんじありませんかぁ?東北の岩手の太平洋側の海岸
のこと。
 (客)おお、中学の時、習ったな。リアス式海岸っていったけ?これだけは知っ
    ているぞ。
あたりぃ!中学生用の地図にものっていますわ。そのリアス式海岸の北(上)から、
野田、宮古、大鎚という地名がありますね。この3つの通りが三閉伊通りというのね。
このへん、閉伊郡といったそうよ。南部藩(盛岡藩というべきなの?)の領地です。

 (客)南部藩の殿様(利済 としただ)が暴君だったという話は藤五郎がいってい
    たな。
お客さまぁ、し---!地元にきたら、あまりその土地のお殿様の悪口は言わないほう
がいいかもよ。吉良さまがいくら評判悪くても地元では支持されているのと同じよ。
なんたってご子孫の方もおられるかもしれないし、殿様よりも重臣が悪かったかもし
れないしね。地方って、都会では考えられないほど、昔(伝統)が残っているかもよ。
気をつけてね。
 (客)わかった。殿様の政治が悪かったかどうかは、あとで自分で調べるよ。一揆
    の話を始めてくんな。

かしこまりましたぁ!三閉伊一揆って幕末に2回起きているの。1回目は弘化4年(1847)

2回目はその5年後の嘉永6年(1853)。このふたつは一連の動きなのよ。
 (客)なんだか、ややこしそうだな。ややこしいとわしは寝てまうぞ。

おほほほ、わかりましたわ。まず1回目の一揆からね。
弘化4年、野田から村人が騒ぎだしたのね。そして、野田、宮古、大鎚通りの三閉伊
郡の領民約1万二千人ほどが、大挙して遠野にむけて行進したの。強訴ね。

(客)ちょっと待てぃ。その遠野というのは、柳田国男の「遠野物語」の遠野か?
お客さまぁ、よくごぞんじで!遠野は南部藩の支藩なのでございま-す。
 (客)なんで本藩の盛岡に強訴しないで、支藩に訴えるんだ?
聞くも涙、語るも涙、シクシクですわ。もちろん、これまで何回も盛岡に強訴しました
わ。
でもね。すぐ要求を入れて一揆は解散させるのだけど、すぐに裏切るのよ。誠意なし。
まったく平気で嘘をつく人々、いや、藩だったわけ。だから、今度は、遠野藩に訴えた
の。
 (客)で、何を訴えたのだい?何が不満なのだい?
お客さまぁ、そんなこと関心ないくせにぃ(笑)。そんなめんどうなこと、ここでお話し
すると、きっと眠ってしまいますわ。三閉伊郡に課せられた御用金、あるいは重税って
ことで、いいでしょう?それよりも、一揆勢のようすに興味はありません?
 (客)おうさ。そこからやってくれ。
さてさて、一揆勢は、遠野の早瀬川河原に集合。そのありさまはというと・・・
あれ!お客さま、もうねてしまったわ。これからがおもしろいのに。
これじゃ、話はまた今度ね。おやすみなさいませませ。
                                         藤五郎 03587/04488 MXG01260 藤五郎 南部藩の百姓一揆(3)
( 8) 98/05/05 11:25 03576へのコメント コメント数:2

お客さまぁ、最後の連休ですよぉ。もう、お起きになってぇ。
朝食はわんこそばですぅ。めしあがれ。
 (客)うぬ、もう連休も今日で終わりか。つらい!食欲がない!君子も窮す!
なにをおっしゃってますか、おとうさん。続きですわよ。

弘化4年(1847)11月陸中海岸の北部の野田から村人はたちあがったの。
途中の村からも参加し、大集団となって、陸中海岸を南下、遠野まで
行進しますのよ。野田から遠野まで直線距離にしても90キロあるわね。
季節はすでに冬。東北ですからね。雪もふってたかもしれません。
だから、みんな、かます(袋)を背負い、中に食料や鍋、釜、薪など
も入れているのよ。前もって十分準備してあったのね。

 (客)冬の集団大行進といえば、ちょっと水戸藩の天狗党を思い出すなあ。
    で、途中で代官所の役人たちにおしとどめられなかったのか?
おほほほ、だれがおしとどめられますかいな。とても、よく統制がとれてたのよ。
役人が何か言っても、みんな一斉に「だまされるなあ」の怒号。そして、指揮者の
合図で、全員一緒の足踏み。大地が割れるようなひびきよ。役人真っ青になって逃
げていくわよ。

12月1日には遠野の早瀬川の河原に集結したそう。
「四方八方に松明をもやし、いたってもの静かに無言で、ともに物語もせず、それ
 ぞれの旗のもとに集まり、たき火をし、静かにしている」というありさま。ガヤガ
ヤしてそうなものなのだけど、役人にとっては不気味だったでしょうね。
「野田より来る道すがら、いろんなところから誘ってきたはずなのに、いかなる者
 の指揮によって、このように統制がとれているのか、下郎どもには珍しく、怪しむ
 べし」なんて記録では感心しているわ。
頭領の者がいてね。この人が小旗をふると、ほら貝をならしたり、一斉に声を出した
り、足踏みをしたり、また、沈黙したりするの。
 (客)ふ--ん、そやつ、孫子の兵法をおさめておるな。
河原では、この頭領は、小さなお堂で休息をとってて、その時は数百人のものが
その小堂のまわりを警護していたって。
 (客)で、その河原で何をするつもりだい。
もちろん、ここで要求を言うわけ。
でも、本藩(南部藩)の役人がきても一切無視するの。今まで、だまされてきたから
ね。
盛岡から重役がきてね、なんでもいいから言ってくれ、と大声だしても、1万2000人、
全員、シ---ンの沈黙で返答よ。なおもしつこく、盛岡の役人が何かを言おうとすると、
今度は、頭領の旗の合図で1万2000人がぱっと後ろを向き、「わ-----」のときの声。
 (客)そりゃ、かなわんなぁ。学校の生徒がこんな戦術にでられたら先生もたまらん
    だろうな。

で、今度は遠野藩の役人が、願いを聞こうと声をかけると、代表が進み出て、願書を出
したわけ。願書は実にみごとな文で書かれていた、とあるわ。御用金やいろいろな税金
の撤回は受け入れてもらえることになったので、12月5日には引きあげることになった
の。みんな帰りの米やこづかいももらってね。
藩政をとりしきっていた家老はやめさせられ、利済(としただ)も一応、隠居。
 (客)じゃあ、これで一件落着だね。勝利ということ?
そうじゃないのよ。なんたって信用できない南部藩だからね。藩主も引退したっても名
ばかりで、きらっていた新藩主(長男)は押し込め、気に入っている次男(?)を藩主
にたて、政治はあまり変わらなかったの。懲りない面々ょ。
で、村人たち、特にこの一揆の頭領たちは、それがすぐわかったのね。
で、すぐに次の計画と準備にとりかかったのよ。

 (客)おお、その総大将の名前を聞きたいね。どんな御仁だ?
小本あたりに住んでいる「小本の弥五兵衛」またの名を「切牛の万六」とも
言ったそう。もう60才過ぎの老人よ。地元では、「小本の祖父」といわれていた
らしいわ。この人が一件一件、村を回り、遊説し、軍資金なども集めていたのね。
でも、この人、弘化4年の一揆のあと、1年半くらいして、つかまって、牢内で死んで
しまうの。
 (客)ええ、指導者が死んでしまったら、あかんやん。
でも、この人の思想、戦術は村人に引き継がれ、後継者が次々に出てくるのよ。そし
て、嘉永6年に黒船と登場とともに、またたちあがるのよ。これは、いつか、またね。
総大将だった小本の弥五兵衛は陸中海岸の田野畑村に、銅像がたてられているわ。
木株にすわり、杖をもって遠くを見ている像ね。像の題は「一揆の像」だって。
でも、だれが、この像を見にいくのかしらね。他に何もない辺鄙なところみたい
だから(失礼、地図で見ただけなんです)。
では、明日からのおつとめ、がんばってねえ。しっかり働いてこい!

以上、パソ通よりのコピー終わり。やっぱり、長すぎますね。このブログ1度でのせられるのだろうか?

幻の老人 切牛の万六

2007-03-20 | 一揆
ブックオフで「幻の老人 切牛の万六」(1997年刊(有)ぶなのもり発行)という本を手に入れた。箱入りで立派な本だ。ブックオフもたまにいい本を手に入れることがある。

切牛の万六とは、弘化4年の三閉伊一揆の指導者。弥五兵衛とも呼ばれる。
天保の時代からずっと一揆を仕掛けてきた人でいわば一揆の専門家。弘化4年の一揆のあと、石川啄木の曽祖父によって捕えられ、藩によって殺されるが、万六の意志は嘉永6年の一揆(仙台領出訴)によって実現される。この一揆は大仏次郎の「天皇の世紀」で「黒船よりも大きな事件」と記された有名な一揆だ。

著者は早坂基氏。小樽に住む民間の歴史研究家。この一揆に興味を持ったのは、1960年代に出版された「日本残酷物語」(平凡社)に書かれていたこの一揆についての物語を通勤列車の中で読んでからだそうだ。以来30年、この一揆を追い続け、切牛の万六の弟子、副頭領ともいうべき安家村俊作が一揆後、北海道に渡ったことを知ると、北海道でのその後の足跡を確かめたりした。この本は1997年、著者71歳のときの出版で、それまでの自分の研究の総決算のつもりで出したのだろう。内史略をはじめ各史料を検証しながら詳細にわかりやすく書いている。

その後、早坂氏はどうしてるのか、ネットで検索してみたがさっぱりわからない。まだご存命なら80歳だ。

この一揆に半生をかけた人に佐々木京一氏もいる。早坂基氏が最も多く引用しているのも佐々木京一氏の本からだ。一揆の現地で教師をしながら、地元の口碑を採集、足で精力的に一揆の実像を確かめ、2冊を民衆社から、嘉永6年の一揆は2000年に「一揆の奔濤」として自費出版。しかし、この時には脳梗塞で倒れ、病院で原稿を書いたそうだ。

他に武田功氏という地元で国鉄労働者をしながら一揆を調べ、発見した史料をガリ版刷りにして残した研究家もいたそうだ。

これらの人々も今ではみんな老人。ご存命かどうかもわからない。佐々木氏の「一揆の奔濤」という本などはネットでも検索できないし(自費出版だからだろうか)、むろん古本ネットにも出ない(早坂基氏の「まぼろしの老人」はネットに出ていたが)。一揆は今はほとんど地方の零細出版社からしか出版されない。だれの眼にもふれない。

一揆を情熱的に調べている人って、今ではみんな老人になってしまっているのではなかろうか。調べている人もまぼろしの老人だ。百姓一揆、今、どこの地域でも消え去りつつあるのではないのか。


早坂基「まぼろしの老人」の最後は次のような文で結ばれる。
「この老人を追い求める筆者の旅も空しく、疲労のみが目立ってきた。本書はこの旅の休憩地点である。そして一服しながら思う。ささやかなこの本が、まだ見ぬ切牛の万六の末裔の人々の眼に触れんことを・・・。万六の怨念を継承する男たちに勇気を与えんことを・・・。」