虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

川西市郷土館

2005-11-27 | 日記
ちょくちょく行く古本市場や回り寿司からすぐそばだった。知らなかった。
川西市郷土館。住所は川西市下財町。

下財とは、銀山銅山で働く坑夫たちのことを言う。下財人といったり、下罪人とよばれることもある。上野英信の本では、炭鉱の坑夫たちも、ゲザイ人と呼ばれるようだけど、差別的な言葉だと思ったが、2代3代続く堀り子でないとゲザイ人とは呼ばないと坑夫から聞いたという文章があった。ここの館長さんは、下財とは、お金を使う、散財する、という意味といっていた。下罪人か下財人なのかどっちなのか。

とにかく、ここは、昔は坑夫たちが住んだ町だったのだろう。今は静かな住宅地だけど、ここに多田銅山の精錬所があり、明治から昭和の初期まで平安家が運営したそうだ。その平安家の屋敷が郷土館になっている。

平安家は銅山で大いに儲けたようで、家も立派。10mも続く廊下は松の木で、節がひとつもなく、柱は屋島からとりよせたとか。しかし、わたしにには家のことはよくわからない。大正時代に建てられた屋敷。鉱山資料を展示したり、お箸の展示室もある。サンダルはいて外に出ると、精錬所跡があり、そこには、旧平賀邸という大正期に建てられた洋館やミューゼレスポアールという美術館(川西市ゆかりの画家の絵を展示)がある。

ここもまた誰も訪れない広い場所で、静か。紅葉もきれい。カメラを忘れてきたので、また来たいと思った。平安家はその後どうなったのだろう。幕末からここに住んでいたらしい。

入館料300円。ご家族が住んでるようだ(平安家と関係あるかどうかは知らない)。


杵之宮結集(能勢一揆6)

2005-11-27 | 一揆
大助が村々に回した廻状には、こうある。

「その村々家別に1軒より1人ずつ今晩中、杵の宮に集まること。もし、集まらない村があったら、押しかけ、庄屋から上京の路用銀借用する」

はたして村人は杵の宮に集まるか。
地元の林蔵も何人かの村人に根回してはしていただろうけど、京都の帝さまに徳政を願い出る、ということは、村人の想像を超える計画だ。わざわざ京都まで?それでなくても、ご法度のデモ行進。
仕掛け人の林蔵にしたところで、裕福な家を少しばかり打ち壊して、米銭を借り出すくらいの暴れ方を考えていたかもしれない。大助の計画には驚いたはずだ。
しかし、廻状は出され、さいは投げられた。

日が暮れかかっても杵の宮にはまだ人が集まらない。林蔵も村を駆け回るが、反応はかんばしくない。杵の宮に集まれ、飯が食える!とでもいっただろうか。

日が暮れて、大助は林蔵に杵の宮の中にある寺の釣り鐘を乱打させた。驚いて集まる村人。それでも、杵の宮近くの村人30名くらいだったろう。
大助はこう言ったという。
「驚くにはおよばぬ。万民を救うために徳政を願い出る」
村人に趣旨を説明するとき、この杵の宮で、大助は人形をあやつったという風聞がある。「人形を自由に使い候て、いかなる事があろうとも、かくの如く人を使い候ゆえ、心配にはおよばず、怪我などはない」(浮世の有様)
人形を使ってアジ演説する一揆とはおもしろいではないか。江戸の薬屋は人形を使って売ったそうだが、大助も薬屋だったためだろうか。あるいは、能勢は浄瑠璃が盛んな土地で(現在、能勢には、浄瑠璃センターがある)、大助も得意としていたかもしれない。

また、大刀を抜いて、こうも言ったという。
「もし、不承知であれば、この場で斬る」
この言葉は必ず言わなければならない。この言葉があるから、村人は安心して参加できるのだから。どの一揆にも共通した強制の言葉だと思う。一揆の罪、責任は大助たち首謀者だけで、村人はやむなく参加したということで、お咎めはない。

杵の宮の鐘は朝までなり続け、深夜にかけ村人はだんだんふえてきた。「徳政大塩味方」「徳政訴訟人」という紙の幟をひるがえし、境内には篝火がたかれた。このとき、1村平均30戸として、周辺の村10ヶ村くらい集まったとして約300人にはなったろうか。しかし、京都にまで出るにはまだ人数が少ない。廻状は65カ村に回してある。

このとき、大坂から大助と一緒についてきた大坂玉造同心の本橋岩次郎と、今井藤蔵に雇われた三津平は事のなりゆきに肝をつぶし、夜の混乱に乗じて姿を消した。








上野英信 ひとくわぼり

2005-11-27 | 一揆
炭鉱といえば、上野英信。
山口出身だけど、京都大学を中退して、筑豊の小炭鉱の坑夫になり、以後、死ぬまで筑豊から作家活動を続け、たしか20年前くらいに亡くなる。

60年代、70年代には、上野英信に会いに筑豊参りする若者もいて、けっこうファンはいた。とても剛毅な作家だったと思う。地の底の過酷な暗い現実からの報告だけど、不思議と勇気を与えてくれる文章だ。代表作は岩波新書「追われゆく坑夫たち」。

この人がまだ世にでないころ、炭鉱仲間に読ませるために書いたものに江戸時代の農民を描いた民話がある。「ひとくわぼり」という題名だ。

舞台は江戸時代初期の秋月藩の村(嘉麻郡上西郷村)。この村には川がない。用水は、となりの黒田藩の領地を流れる川の水をわけてもらうしかない。しかし、黒田藩はそれをゆるさない。村人はひでりに苦しむ。この村にショージンという、村でははみだし者の若者がいた。怪力の持ち主で、常に立派な武士になって農民を救いたいと言っていたが、あるとき、武士になるつもりで、村を出奔。しかし、武士にはなれず、ただの男として村に帰るショージン。

村では、作物が実らず、どうしても黒田藩の領地から川の水を分けてもらわないと村人は生活できない状況になる。村人が黒田藩に頼んでも、許してくれない。ただ、「ひとくわならいい」という。堤防がひとくわで崩れるわけはないからだ。

ショージンは、再び、村を出奔、鍛冶屋に修行に出、帰ってからは納屋で一人で、鉄を打つ日々。村人は、ショージンは気が狂ったと噂しあう。ショージンは巨大な鍬を作っていた。

巨大な鍬が完成すると、ショージンは黒田藩の役人にひとくわ堤防を掘らせてほしい、と願い出る。ショージンがひとくわ掘ると、堤防は決壊、川の水は村人の土地にまで流れてきた。おかげで村人の暮らしはよくなるが、その後、ショージンは用水路の橋の上で役人に殺される。

けっこう長いお話で、1冊の労働者のための絵ばなし本として作られている。上野英信がいた炭鉱地帯の隣の村に残る言い伝えをもとにしたそうだ。
三池闘争に参加した労働者は闘争中、くりかえしこの本を読んで元気を得た、と上野に語ってる。

最も虐げられた者の視点、拠点からの発言をしていた上野英信。
しかし、そんな上野英信も忘れられていく・・・・。