虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

清河八郎遺著

2009-01-12 | 読書
図書館で、清河八郎遺著(日本史籍協会編、東京大学出版会)を借りてきた。
山路愛山の編だ。

山路愛山は、はじめに読者にむかってこう書いている。読者は、八郎の文章を読んで、あまりに謙譲の美徳がなく、自慢話が多く、英雄豪傑を任じているのに嫌気を覚えるかもしれない。わたしも最初は不快に感じた。だが、年を考えてほしい。死んだのは30歳をわずかに過ぎたばかり。老成し、謙譲の美徳で世を処する年ではない。しかも、小藩の平民に生まれ、幕府と親しい庄内藩に生まれる。そこで尊皇攘夷を唱えることの難しさを思うべし。天下の英雄を任じ、談論風発、傍若無人にふるまうもよし、と。(愛山の文はこの通りではないが、まあ、こんな内容)。

また、八郎は、「豪気をもって自ら負い、気短性急、往々にして暴怒にいたることありといえども、友人、同志、これに背くにしのびず、死生これと相終始せんんとしたるものあり」と書き、「英雄の士は、みな有情の人なりとは、正明においてこれを見る」と結んでいる。山路愛山は清河八郎を英雄を見ている。

内容は、愛山による清河八郎の年譜(14ページ)、「旦起私乗」(出生から17歳までの八郎による年譜と18歳から20歳までの日記。漢文)、耕雲録(21歳から23歳までの日記、漢文)、潜中始末(和文)、潜中紀略(漢文)、潜中紀事(漢文)、自叙録(和文)、文久年間書簡集、同志書簡集からなる。

山路愛山といえば、明治の史論家であり、ジャーナリストで、堺利彦とも親しい仲。山路愛山は、国家主義(国家社会主義)、帝国主義で、平民社の堺利彦とは対照的な人物だが、堺にとって、山路は、たとえば荘子にとって恵子がそうであったように、よき論敵だった。二人が会うと、しょっちゅう議論をしあい、愛山は平民社の大切な客人だったそうだ。前も書いたが、宴会で、愛山は自分の番が来ると、舞台に大の字にねころがって、「大の字」といったそうだ。おもしろい。愛山の人柄は、人をひきつける魅力がある。早く亡くなったのが惜しい。

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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2011-08-29 10:30:06
胡散臭いにおいがします…
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Unknown (荘太郎)
2011-08-29 16:31:55
「胡散臭いにおい」。清河八郎についてですよね(笑)。当時から八郎は山師、策士、変節漢などと悪評がありましたね。たいがいは革命の主流を任じる薩長の武士、そして幕府側からの評だと思いますが、まあ、やむをえません。自ら英雄を任じるような男はどこか胡散臭いです(笑)。そんな男でないと、あえて激動の政治の世界には飛び込まなかったかも。清河八郎の正体はよくわかりません。そこが魅力です。
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