虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

スパルタクスなどあれこれ

2008-12-20 | 新聞・テレビから
ネタはない。思いつくまま書く。

BSで放送した「仇討崇禅寺馬場」は録画予約をするのを忘れていた。失敗。
今夜の藤沢周平時代劇「花の誇り」は見るつもり。

NHKのETV特集(?)だったか、「加藤周一最後のメッセージ」は見た。加藤の最後のメッセージは40年前の1968年に対する思い入れだった。この年、チェコにソ連軍が侵入し、「プラハの春」は終わる。この時から、今にいたる停滞は始まっている、と語る。この年は、パリ五月革命、反戦運動、学生運動、ヒッピーなど若者の反乱の年だったが、このときの課題もそのまま圧さえつけられたまま今の閉塞時代になる、という。当時、学生は大学の産軍学協同体制を批判したが、このことを指摘したのは日本の学生の名誉だ、といっていた。
「明治維新以来、日本はひたすら間化、非人格化、非個性化してきた歩みだった」(うろおぼえなので正確ではない)が印象的だった。

ブックオフで佐藤賢一「剣闘士スパルタクス」を100円で買ってきた。スパルタクスといえば、カークダグラスの映画が有名だが(退屈だったが)、なにしろ世界史上、最初の一揆指導者ともいえ、興味はある。

辺見庸の最新作「愛と痛み」の中で、何度か、この映画「スパルタクス」のことを語っていた。ローマの役人たちは奴隷たちを一堂に集めて、「スパルタクスはどいつだ!」と問い詰めます。わたしたちならどうするでしょう、と辺見は言う。よくて、黙秘。わるければ「あいつです」と指差す。さらにわるいと問われる前から注進しにいく。
映画「スパルタクス」はどうしたか。
奴隷たちは、「私がスパルタクスです」と口々に答える。

「黙秘するのではなく、また、問われる前に注進にいくのとはまったく異なる精神がここにある。個を発現していく。個を突出させていく。個が名乗りをあげる。そのありようをわたしは語りたい」

朝日の天声人語にゲバラのことが書いてあった。来春公開の映画を著者は一足先に試写会で見たのだろう。
「銃への信奉は論外でも、その生き様は心を揺さぶる」と書く。どこに心を揺さぶられたのだろうか。銃への信奉が論外ならば、戦争反対、自衛隊の海外派遣反対に論陣をはっているのかね。
「正義のために大きく生きるものが少なくなってきた」と書きながら、すぐに、「「大きく」をはきちがえた妄動は多々あれど、国境を越え、大衆を熱くする顔が浮かばない」と結ぶ。ゲバラの映画に感激するのはいいけど、いまや、銃や革命への信奉は論外で、大きな妄動は迷惑です、といってるのかね。
いつ読んでも、世間や権力への追従そして個のない保身の文。

ジャーナリスト上杉隆によると(NPJで見た)、朝日の編集員曽我豪は(先日も署名入りで堂々とコラムを書いていたが)、麻生のブレーン記者で、麻生が文芸春秋に書いた論文は朝日の曽我氏がゴーストライターだそうだ。これが事実だったら、けしからぬことではないのか。ジャーナリスズムとしての正義を守るなら朝日は即刻、曽我氏を紙面から退場させるべきだ。