虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

おしゃべりから革命?

2014-07-17 | 日記
トルストイやドストエフスキーなどのロシア文学では、登場人物たちが、人生や政治について延々とおしゃべりする場面がよくある。フランス革命のときには、カフェで市民たちが議論をし、貴族たちはサロンでおしゃべりをよくした。

日本でも、幕末は、下級武士たちや、庄屋たちが、塾で、あるいは、訪問し合って政治の話をした。若者同志のおしゃべりは、明治の自由民権運動まで続く。いやいや、おしゃべりで、人生論をたたかわせるのは、1960年代まであった。あの頃はカラオケはない、パソコンもない、金もない。ただ、時間だけはあった。

今、おしゃべりはどうなっているのか。

女性は男性に比べて比較的時間があるのでよくおしぇべりをしているようだ。
わたしは、小さなカフェを営んでいるが、おしゃべりをしに店に来てくれるのは女性陣だ。
2,3時間などふつう、5時間おしゃべりを続ける方もいらっしゃる。

何をおしゃべりしているかは知らない(聞かないことにしている、当然)。ただ、わたしの場合、3時間しゃべるのであれば、酒がないと無理だが、酒なしでも、女性陣は話のタネはつきない。そのおしゃべり力には驚く。

話題はなんだろう。どこのランチ屋がおいしかった、とかのグルメ談義。旅行の話。子供がいれば、学校、進学の話。あと、噂、他人談義?

わたしには、妄想、希望がある。その女性たちのおしゃべりに、こんな話題をちょびっと入れてみたらいかがなものか。

「原発についてどう思う?」
「憲法9条についてどう思う?」
「大企業の法人税を下げて、その財源は国民に増税するってどう思う?」
「配偶者控除がなくなるとか、残業代ゼロになるって、どう思う?」

かなり勇気がいる。

座がしらけて、次からは仲間はずれにされるのだろうか。あるいは、おかしい人、アブナイ人にされ、話のタネにされるのか。
それとも、「実はわたしもそう思っていたの」と同意され、おしゃべりがますます盛り上がるのだろうか。

グルメの話や旅行の話もおしゃべりの楽しい話題だけど、長いおしゃべりの中にちらっと、少なくとも、原発と憲法の話だけでも入れてみたら、どうだろう。女性たちが、この国の政治を、旦那の労働環境に語り出す。きっと世の中は変わるだろう。幕末の草莽の志士ならぬ、平成の女性志士が動き出す。


夏の夜の夢です。


旅の疲れ

2014-02-04 | 日記
年取ると、旅の疲れは1週間くらい続く。

特に飛行機。狭い座席に12時間。タバコもなしに、これはキツかった。
家に帰れば、すぐに仕入れや店の仕事があり、あの、めんどうな確定申告の仕事も残っていて、そのうえ、新しいパソコンを購入したけど、これが今までのとまったく違う環境で、もう触りたくないような代物。なんか、疲れているのに、用事がいっぱいで、旅のメモなどのんびり書けない状態だ。昔なら、旅を終えたら、すぐに報告書を出したのだが、今はその元気なし。

旅の思い出は、気が向いたとき、思い出した時に、書きます。

イタリア 好きだ!

2014-01-28 | 日記
海外ツァーに初めて参加した。ミラノ、ベローナ、フィレンチェ、ベネチア、ローマ、ポンペイを巡る旅。
連日、朝8時出発、夜8時ホテル帰着という強行軍。団体旅行は元気なうちに参加しないと、高齢者にはしんどいです。疲れた-。



で、とりあえず、イタリア人の印象。といっても、素通りして見ただけだから、ただの希望的偏見だ。


町中はとにかく車が多い。車の保有台数では世界第二位だそうだ。しかし、町中は歴史的建造物があるので、駐車場は作れず、道路沿いに車を駐車することになる。車と車の間にすきまがなく、びっちり並ぶ。車を出すときはまず警笛を鳴らし、前の車、後ろの車を押し(ぶつけ)て、出すそうだ。車のバンパーはぶつけるためにあるとか。車もほこりで汚れている。わたしの車と同じ。親しみを感じた。

車といえば、イタリアはルールに従うよりも自分の判断を大事にするそうで、黄色信号は、当然「注意して進め」だが、緑信号も「注意して進め」なんだそうだ。赤信号でも進んでくる車が多いからとか。赤信号でじっと立って待っているのは日本人だけなのかな?

町中にはゴミ箱が置いてあり、ごみ箱にはタバコの吸い殻入れもついている。このゴミ箱にある吸い殻入れに吸い殻を入れたらよいと思うのだが、タバコの吸い殻はゴミ箱を無視してあちこちにポイ捨て。世界的観光地域なので、日本なら、景観上からも、自粛したり、町の人達が清掃したりしそうだが、あまり頓着しないみたい。こちらも気楽に路上で吸うことができた。

ただし、ホテルや公共建物の中では、禁煙。早朝、がまんができず、ホテルのドアを開けて外でタバコを吸ったところ、ドアは自動でロックされ、外にしめだされた日本人がいたけど、だれなのかは恥ずかしいので言いません。

フィレンチェの美術館に入ったところ、現地ガイドさんから、「写真撮影は適当に」といわれた。あるコーナーでは、撮影OK,しかし、あるコーナーでは、美術館の係の人が、撮影禁止、という。ガイドさんと係の人がいいあう。「ここはダメ」「ここはいいと言われている」と。両者ともゆずらない。こんなことが何度もあった。二回ほど、追いかけてきて「さっきの撮影禁止はまちがっていました」とあやまりにきた。「同じ職場の人でもバラバラなんです」とガイドさんは苦笑していた。いいではないか。気に入った。

公共交通機関のストライキに遭遇した。自由行動の人達は心配していた。どうなるのだろう。ホテルの人に聞くと、「わかりません」。「だって、わたしは、ここまで歩いてくるから。ストライキ関係ないから」。
「自分にしか関心ない。人のことは気にしない」とガイドさん。うーん、おれにそっくり。ストラキ当日の朝、スト決行と決定。しかし、すぐに平常に戻ったそうだ。ストをやったのかやらなかったのかすらはっきりしなかった。しかし、労働組合が強く、ストライキをしょっちゅう実行できる国はうらやましい。ストライキがおきても市民は平気なんだ。

昼食はレストランで食べるが、昼食のたびに、飲み物は何にしますか、と聞かれる。水もお金がいるのだから、どうしてもワインかビールを注文する。昼食の時は、ワインかビールを飲む習慣があるのかもしれない。たしか、昼休みは2時間くらいあって、家に帰って休む人もいると聞いた。そのとき、ワインを飲むにのだろうか。美術館にいた係の人もたしか赤い顔をしていた。一杯やっていたのかもしれぬぞ。昼から酒を飲む。いいではないか。

イタリアはスリが多いので、気をつけろ、笑顔で親しげに話しかけてくる人には警戒を、とガイドブックにはよく書いてあるが、そんなことはない。たしかに、人が集まる観光地には、アフリカ黒人系の露天商の人や、物売りの人が立っていて、「コンチワ」などと日本語で話しかける。しかし、どの人もおとなしく、気弱そうな顔をしていて、決して強制したりすることはなかった。イタリアは、移民を受け入れる国なのだ。
観光ツアーには決まって観光客が連れて行かれるショッピングの店がある(トイレを借りるためでもあるが)。そこは、露天商が売っている値段よりも何倍も高く売りつけている。どちらが、日本人をカモにしているのかわからん。

イタリアには日本のような高層建築は少ない。なにせ、何百年も前の建物があちこちに建っているのだから。コンビニも、自動販売機もない。失業率は高く、経済的に貧しい(それでも食料自給率は日本よりはいいが)。政治も安定しない。イタリア人は、政府や国に生活をまかせてはいない。

イタリア人は、颯爽として歩いていた。早足のわたしも負けそうなくらい。どの人も胸をはって堂々としていた。姿勢がいい。背をまるめて、下向いてしょぼしょぼ歩く人は見なかった。女性は小顔で、みんな美女ばかり。1度、女性がタバコの火をかしてください、と近づいてきたが、思わず、手がふるえた(笑)。男性は、3分の1くらいが、頬からあご、口に髭を生やしていた。髪は短髪で、男性的。

どうも、わたしは、イタリア人タイプかもしれない(男性的なところはないけど、アバウトで自分にしか関心がなく、気楽で、適当なところか)。誤解だったら、申し訳ない。とにかく、イタリア、気に入った!













子どもでも言える

2013-09-21 | 日記
先日、ランチ屋さんに入って席に座っていると、後ろの席の年配のお客さんが、テレビの原発の報道を見ながら、「原発反対なんて、子どもでも言える」と大きな声で話していた。原発反対なんて言っても実現はむつかしい。現実は厳しい。大人にはそんなことは言えない、とでも言いたいのだろうか。「おっさん、子どもにも言えることが、大人に言えないのは、大人がアホやからや」と反論しようと思ったけど、場所柄を考え、やめた(笑)。

安部首相はオリンピックが決まる前に、世界に向かって「原発は完全にコントロールされている」と公言した。首相に勝手にあんなことを言われていいのだろうか。世界にウソをついたことになる。

国土と国民を守るための日米同盟、国防軍などというが、原発で国土や国民が大きな被害にあっているのに、いったい、国民を守っているといえるのか。


社会保障と税の一体改革、社会保障を充実するために消費税をあげる、といったけど、実際は、法人税を下げ、大企業に仕事をあげてもいうけさせることが目的だったことがわかった。

みんな見て見ぬふり。なにもなかったような顔で通り過ぎる。
子どもならはっきり言うはずだ。「ウソつき」。





大阪散歩

2013-08-28 | 日記
今日は梅田で電車を降りたあと、肥後橋、淀屋橋、難波橋を過ぎ、天神橋商店街を1丁目から6丁目まで歩き、梅田までもどった。1時間半くらいは歩いただろうか。久しぶりの運動だ。猛暑の日なら、とても歩けなかったけど、暑さもやわらいだので、家に帰ったあと、なんだか身体の調子もよくなった。歩くのはやっぱりいい。

肥後橋の大同生命ビルの2階で「加島屋」の歴史史料の展示があったのです(無料 9月いっぱい)。
加島屋久右衛門といえば、江戸時代、鴻池と並び称された大坂の豪商。天明時代には打ち壊しにあい、幕末には、新選組や維新政府からも資金提供を求められた。大塩の乱のときは、大塩党は、ここまではやってこなかったので、無事だった。この加島屋が、明治後、加島銀行となり、大同生命になる。今の大同生命ビルは、江戸時代の加島屋の屋敷跡あたりに建てられている。




大同生命では、加島屋の文書を大学に委託して研究してもらっているそうだが、その一部を紹介している。パネル、史料の展示だけで、展示している史料をパンフレットか小冊子にしてくれていたらよかったのだが、それはなし。大坂の豪商に関心があったので、見に来た。でも、特に新しい発見はなかった。いったい、この加島屋に何人の従業員がいたのか、なども知りたかったのだが、こんなこともまだよくわからない。

江戸時代の大坂、北船場はどんなところだったのか、一番知りたいのだが、それを知るのは不可能に近い。加島屋(大同生命)のまわりは、高層ビル街、間近に高速道路の高架が走っている。
まったく、ひどいもんです。画像が大同生命ビル。




江戸時代の大坂の夏は橋の上でよく夕涼みをしたらしい。特に、難波橋の上から眺める景色は絶景だとか、西鶴か誰かが言っていた記憶があるけど、今じゃなんの風情もない。大塩一党は、難波橋まで進んでいたんだ、と想像するも実感なし。画像は難波橋から。



天神橋商店街。ここは、大阪を感じる。人通りが多く、賑わいがある。さすが大阪。愛媛の大街道も、宇和島のきさいやロードも歩く人はまばらだったが、ここは多い。古本屋も何軒かあった。ランチ屋も多い。おかまのおっさんもたっていた。リュックに買った本をつめこんで帰った。ただし、一揆の本などどこの古本屋にもおいていません。また、世界文学全集なども見なかったな。どこもいい値段だ。




大街道の友だち

2013-08-26 | 日記
松山ではNO1ホテルに泊まった。ここは安くておすすめです。朝食はバイキング。一人一泊5000円代です。

ホテルのそばに大街道がある。松山で一番にぎやかな商店通りです。昔はアーケードはなかった。



小学2年生の時に、この大街道で親が飲食店を始めた(といっても大街道の表通りではないが)。
名前は「あすなろ」。
環境のせいかどうか、タチの悪い子どもだった。学校から帰ると、ランドセルをほうりなげて、カウンターにすわり、サイダーをちびりちびり、つまみの豆をかじりながら、女給さんをネチネチといじめる(文句をいう)。酒飲みのまねをしたのかしら。働いていた女給さんは、「ご主人夫婦はいい人なのに、あの子がどうも苦手」といって、たしか辞めたような気がする。板前さんの背中を木刀でなぐったこともある。

映画館が多く、学校では子どもだけで映画を観ることは禁止されていたのだが、よく見た。とくに、わたしの店の近くの映画館は裏道から裏から入れる秘密の通路があり、そこからただで何度も見た。今でも、その映画館のあった場所は、シネマ館になっていた。

当時、大好きだった映画は、ラドン、赤胴鈴之助、少年探偵団、スーパージャイアンツ。

飲み屋で子どもが学習する環境にないと思ったのか、親は、近くに3畳くらいの部屋を借りて、勉強室にしてくれ、家庭教師をつけてくれた。愛媛大学の学生で、のち、NHKに入った立派な先生だったけど、まったく勉強しない。通信簿を見せると、うーん、今度は絶対にオール3にしてみせる、とつぶやいていた。のち、東京でお目にかかった。

学校は番町小学校。友達は、近所の大街道の店の子どもで、時計屋さんや洋服屋さんの子どもがいた。一番仲のよかったのは、帽子屋さんの山本くんと、母子家庭でうら通りで間借りしていた松本君。

今度、大街道を歩きながら、帽子屋さんをさがしてみた。帽子屋さんはあることはあったが、名前が山本ではないので、店に入らなかった。あの悪ガキの山本くんは、どうみても店を継ぐような子ではないと思っている。大街道も、昔はなかった店が増え、昔からの店は少なくなっていると思う。

山本君、松本君、あの「あすなろ」の悪ガキ、いつも腰にロープをつりさげていたオレなんだけど、もし、気がついたら、連絡してね(笑)。山本君については、三越の屋上で一緒に写真をとってもらっている男の子だ。

大街道には1年間しか住んでいなかったと思う。


わたしの原点 松山市日の出町

2013-08-26 | 日記
このブロフは個人的な日記、備忘録なので、私以外の人にはまったくどうでもいいことも書かせていただくので、ご容赦。


本日、四国旅行から帰った。
この夏は愛媛県へいった。
まず、松山市日の出町。松山市の中心からから車で十分くらいのところ。
ここに、わたしは、たぶん、4歳くらいから小学校1年生時代までいた。親に聞くと、それまで南宇和郡の緑僧都村とか城辺とかにいたそうだが、わたしの記憶にあるのは、この日の出町。それ以前の記憶はない。たぶん、この日の出町から、おんぶにだっこの生活からはなれ、一人であちこち歩き始め、遊び始めたのだろう。幼年時代の始まり。この日の出町から人生が始まった(笑)。

当時は、日本は貧しく、わたしも、麦飯を食べていたと思う(たまの日曜日に、白マンマだった)。
精米所の2階に間借りをし、水は1階の井戸、またポンプでこぐヤツ(名前を忘れた)、便所も、1階の離れた場所にあった(夜はこわかったなあ)。

テレビ、ラジオ、冷蔵庫、洗濯機、扇風機、風呂などもちろんなし。電気製品は裸電球のみ。夏は行水、冬は火鉢。

画像の川にかかる橋がなつかしい。右側の橋の下にはいつもゴザをかけて家族が住んでいたと思う。
あの橋の前に銭湯があり、2階は映画館だったと思う。夕方になると、いつもこの風呂屋の建物から
美空ひばりの「りんご追分」が流れてきた。毎日のように流れてくるので、この曲は、わたしの歌の原点になっている。この歌を聴くと、当時の情景が思い浮かび、なんとも切ない気持ちになる(笑)。



さて、日の出町のかつてわたしの家があった場所にいくと(むろん家はないが)、家の向かいの公園に石碑が立っていた。和田重次郎の像がある。和田重次郎とは、冒険家で、アラスカで活躍したらしい。新田次郎の小説にもなっているそうだが、まったく知らなかった。この和田重次郎の母親が日の出町の出身で、和田重次郎もしばらくここで生活していたそうだ。はじめて知った。もちろん、昔は何もなかった。最近、建てられたようだ。



わたしは、この日の出町のさくら幼稚園、蘇我小学校に入学した(2年生から大街道に転居したが)。

川の原っぱは公園のように整備されていた。
この川でよく遊んだ。子ども達がみんな川の中にどぼんと飛び込んで泳いでいるのだが、どうしても飛び込めず、飛びこもうかやめようか、ずっと迷って立ち尽くしていたことを今でもよく覚えている。まだ泳げなかったからだが、どうも、昔から勇気に欠けていたのかもしれない。




ブログ8年

2013-07-30 | 日記
虎尾の会のブログを始めてからもう8年もたった。
短い人生、パソコンの前にばかり座っているのもどうかと思いはじめた。そろそろこちらもおしまいにしようと考えています。

不特定多数の人に見せられるようなものじゃないし。
なんか、昔のパソコン通信のころが懐かしい。

なによりも時間を大切にしたい。

好きなお寺  慧日寺(えにちじ)

2013-04-23 | 日記
久しぶりに、丹波ぶらりをした。
丹波山南町(恐竜の化石で有名)。慧日寺。訪問はこれで3度目。4年ぶりです。
好きなお寺なんです。萱葺きの屋根のお寺。




建立は1375年(永和元年)。足利三代将軍の管領細川頼之、頼元。開山は徳峯禅師。
臨済宗。お寺の瓦には足利の紋が。

寺の前に車を駐めると、ちょうどお寺の奥様が外におられて、案内してもらった。

まず、千体地蔵。ここは、初めて。千体の地蔵様が並んでいる。見た目は新しく見えたので、戦後つくられたものかなと思ったのだが、どうも江戸時代からの地蔵様のようだ。



仏殿は、県の指定文化財になっている。
仏殿の中を見せてもらう。
釈迦三尊像がある。天井は龍の絵。





本殿の中にも入れてもらう。本殿には江戸時代の様式のお庭があり、山桜がまだ咲いていた。池には鯉。ここで、予約すれば、精進料理も出してくれるそうだ。ここで庭を見ながら酒を飲んだら、最高。大名気分になりそう(笑)。



お寺の門のそばに、「八百姫髪塚」がある。ここに、八百姫の髪が埋められているそうです。八百姫とは、この寺の開山の特峯禅師の弟子で、若狭小浜の高橋長舎の娘として生まれるが、幼いとき人魚の肉を食べて以来、娘の若さのまま、800歳まで生きたとか。美貌と長寿を願う人はぜひいらっしゃい!



檀家は約80ほどで、萱葺きの建物を維持、管理するだけでも大変なご苦労があるようです。

最近、このお寺の近くに姫ホタルの群生が見られるようになり、7月になると、大勢のカメラマンが姫ホタルを写しに、お寺に来るそうです。

見所はいっぱいあるのに、まったく観光化しないで、ひっそりと、静かに黙って佇む古刹です。ふだんは、訪れる人もいません。拝観料も駐車場も無料です。最高です。






久しぶりに映画館

2013-01-22 | 日記
久しぶりに映画館へ行った。
「アバター」以来だ。2年ぶりだろうか。

以前、テレビでミュージカルの「レ・ミゼラブル」を観たが、意外におもしろかったので、腰をあげて行くことにした。

テレビで観た舞台の「レ・ミゼラブル」とは、役者はちがうが、舞台と同じく、ミュージカルで、歌でドラマは進行する。導入の大船を運ぶ囚人労働の場面は、さすが映画だけの迫力で、期待でワクワクした。ただ、舞台と映画、どちらがよかったか、というと、うーん、個人的には、舞台の方がよかったかな。

レ・ミゼラブル、昔のフランスの人々のことではなく、現代日本そのものかもしれぬ。
立ち上がれ!という革命の場面が、物足りなかった。胸に届かなかった。

フランスの人々は、「レ・ミゼラブル」という作品や革命についてどう思っているのだろう。この映画はイギリス人がつくったもので、みんな英語を話していた。

最近、映画館で映画を観ることがなくなったので。2時間半という時間、じっと見ていることが苦痛になってきたのかもしれない。何回かあくびをしていた(笑)。





近場で初詣

2013-01-03 | 日記
91歳の叔母を連れて初詣に行く。遠くまでは行けないので、近場の神社にいくことにした。

まず、能勢地黄にある野間神社。小さな神社だが、1000年の由来を持つ古い神社だ。でも、
だれもいない。477号線沿いにあるが、この周辺は、その昔は、京都への街道筋であり、もっと賑わっていたのだろう。江戸時代はここが能勢の中心地だった。今でも警察署、郵便局本局は残っているものの、能勢電車は走っていないので、すっかりさびれてしまった。




次、野間の大けやき。何度も来たことはあるが、叔母ははじめてなので、連れてきた。樹齢1000年というご神木だ。ここも、だれもいなかった。




最後に、岩崎八幡社。野間の大けやきから、車で2,3分の場所にある。安徳天皇を祭る神社。安徳天皇は、家臣に助けられて、ここまで逃げてきて、その1年後、この土地で亡くなったという伝説がある。これについては、このブログでも昔、書いたので、その詳細は省略。ここも、だれもいない。石段を登った丘の上に祠がある。石段を降りていると、若い娘さんが登ってくる。「ここは安徳天皇が亡くなった神社だと知っている?」と聞くと、「はい、私は、代々、この神社(安徳天皇)を守ってきた者の末裔です」との答え。ひょっとして、藤原経房の子孫になるのだろうか?お正月だから、お掃除にきたのだろうか?

さすが1000年の歴史を持つ能勢。奥深いです。






期日前投票

2012-12-11 | 日記
日曜日は仕事なので、今日、期日前投票にいってきた。

総選挙の新聞記事(朝日だけだが)をしてきたけど、この2週間、やはり憲法改正についての記事は少なかった(たしか1回くらいか?)。原発の記事は多かったが、しかし、ゼロに向かう工程表を示せ、とか、スローガンや甘い言葉にだまされるな、とかの識者の言葉ばかりで、かえって、混乱する。なにしろ、原発ゼロは、民主党も主張しているのだ。原発ゼロへの工程表など、専門家でも困難な課題だろう。困難な道のりであることはわかっている。だれにもすぐにその具体策が描かれるものではなく、国民が共に克服していく課題だろう。人々にその具体案まで検証しろというのは無理だ。

原発ゼロについての工程表を示せ、とはいうくせに、憲法改正したらこの国はどうなるか、についての問いかけはまるでない。自民も維新も憲法改正を宣言している。ならば、憲法改正して、どうなるか、新聞は率先して明らかにするべきだろう。ところが、共産、社民が憲法に反対している、と書くのみ。
弱小政党、ものの数にもならない異端分子が危機感をもっています、と書く程度だ。新聞はなんの危機感もないのか。このことは証拠として残しておきたい(記憶にとどめておく)。

夕方、選挙管理委員会発行の選挙公報がポストに入っていた。
近畿選挙区の広報だが、1面全部を使っているのが、維新の会と自民党と民主党。未来の党は、半面。
公明、みんな、幸福、共産、社民は4分の一のスペース。これって、どういう基準で決まるのだろう?

大阪府の選挙区の広報もあった。
近畿の選挙公報にも、大阪区の選挙公報にも、自民、維新とも、原発と憲法改正の文字はなし。

今度の選挙で、自民、維新が大躍進するのであれば、日本人とは何だろう、と考え込むことになりそうだ。


香川県へ日帰りドライブ

2012-10-29 | 日記
90歳の叔母がまだ歩けるうちに、元旦那さんの墓参りをさせてあげようと、日帰りで香川県にいった。高齢になると、一年ごと、いや、一月、一日ごとに、身体の衰えがすすむ。来年はもう墓参りはできないだろうと伯母孝行のつもり。しかし、元旦那さんのこと、どこまで覚えているか定かではない。なにしろ40年ほど前になくなったのだから。いや、一緒にいったわたしのことなど、どこかのおっさんとしか思っていない。その点、自分の母親のことはよく思い出し、しょっちゅう、夢を見るそうだ。父親や旦那は、夢にはでたことないらしい。

ドライブで困るのは、排尿。高速道路を走っているとき、「わたしは降りる、降ろして-」といわれて弱った。

明るいうちに大阪に帰ろうと思ったのだが、暗くなってしまった。
いつのまにか、夜は目がみえにくくなっている自分に気付く。夜の運転はこわい。10年前はこうではなかったのだが。だれにも衰えはやってくる。

紅葉はまだ、2割くらい。まだまだです。

便ショックか?

2012-10-17 | 日記
叔母がショートステイにいっている介護施設から朝、電話があった。意識不明になったので、救急車で運ぶ、という。身内の人も来てほしい、というので、飛んでいった。救急車の後をついて車を飛ばした。救急車は赤信号を無視して走るので、後をついていく私の車も赤信号を無視していいのかな、と一瞬思ったが、やはり赤信号では止まることにした。

運転中、もしものことになったら、お葬式は家族葬にしなければならない、いったいどこに連絡したらよいのだろう?などと悪いことばかり考えてしまった。

病院に着くと、叔母は意識が戻っていた。血圧も、心電図も問題はない。はっきりした原因はわからないが、便秘ぎみで、久しぶりに便をすると、血圧が下がることがあり、そのためかもしれない、という。3時間くらいで、帰ってもいいといわれた。よかった、よかった。

介護施設の人に聞くと、それを「便ショック」と呼んでいるらしい。
便をするときは、力む。それで血圧が上昇する。便が出てしまうと、今度は一気にに血圧が下がり、脱力感に襲われ、時に失神するという。高齢者の方には多いらしい。失神してこわいのは、転倒して骨折してしまうことだ。

叔母の場合は、イスに座っていて、介護の方が失神しているのに気付いてくれたのでよかった。

血圧の高い人はあまり力まない方がよいのかもしれない。

ススキ

2012-10-15 | 日記


秋真っ盛り。
秋のコスモス、ダリアもいいけど、やっぱり好きなのはススキ。
ほら、見てくれ!と派手にポーズをとる主役級の花よりも、いぶし銀の脇役、庶民の味がして、なにより風情がある。弱々しそうでいて、このススキ、夏も、冬もどこかで1年中見られるのではないか。意外と強い草なのかもしれぬ。1本でも、5,6本でもそれぞれ味があるし、群生しているススキはまた格別だ。

画像は、伯母がショートスティで利用している介護施設の近くのススキ。山里にある。